goo blog サービス終了のお知らせ 

CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

忘れ去られたシングル盤、イエス・イッツ・ミー

2019年02月22日 | ELTON JOHN
1969年、エルトンが出した三枚目のシングル、It’s Me That You Need(イエス・イッツ・ミー)。




残念ながら、ヨーロッパやアメリカではチャート・インしなかった不発弾と相成ったが、何とこのシングル、日本では大爆発!

当時オリコン・チャートで13位(洋楽チャートでは2位)を獲得し、累積のセールスが14−5万枚と大ヒット作になったそうな。

1971年の来日公演の際この歌が歌われたものの、それ以降はステージでは歌われなかったという日本独自の不思議な現象。

この曲は、日本以外では1992年に発売されたLPに収録されなかったシングル、アウト・テイクと廃盤となったサントラLP、 Friends全曲を収録した二枚組CDセット、Rear Masterにようやく収録され再び世に出た。

日本人は洋楽鑑賞するの場合、歌詞を瞬時に理解できないのでどうしてもメロディー優先で聴いてしまう。従ってこのゴージャスなストリングスにバック・アップされたメロディアスなこの歌が日本人の琴線に触れヒットしたのではないかと….

歌詞は普通のラブ・ソングで、昔のガール・フレンドに“君が必要としているのは俺だ、俺だってば!” と言っているのだが、翻訳された歌詞をサラッと眺めてみると取りようによっては自意識過剰なアンちゃんのたわ言にも聞こえる。


てな事で、エルトンも何となく小っ恥ずかしくなり二度とステージで歌わなくなったのかな?なんて妄想してみる。

ランダムにレコード紹介、その35 Fox

2018年12月22日 | ELTON JOHN
本日はエルトン低迷期だった1981年の作品、Fox。



前作、21 At 33の制作時代に録音されたアウト・テイク5曲を含み、残りはビートルズのホワイト・アルバムやアビー・ロードのエンジニア、ロキシー・ミュージック、プロコル・ハルムや日本のサディスティック・ミカ・バンドなどのプロデュースでおなじみのクリス・トーマスを起用。

各々の曲は丁重に作られているものの、前作のアウト・テイクを含むことによって統一感は損なわれ、またシングル・ヒットするようなキラー・チューンもなかったことからエルトンのアメリカでの販売されたLPとしては当時ワーストを記録した。


(サイド2の一曲目、Carla Etudeはインストのみで、エレガントなエルトンのピアノ演奏とジェームス・ニュートン・ハワードによるシンセとのアンサンブルが聴けて大変満足)

ところで、本作にはElton’s Songというちょっとあちらの方の世界を歌った歌が目を引く。

これは 前作でも楽曲を共作したトム・ロビンソン(2-4-6-8 Motorwayのヒットで有名。そして同じくあちら系の人)とエルトンが再度タッグを組んで制作した歌で、そのセンシティブな歌詞からオン・エヤー禁止となった国があったとのこと。

今でこそLGBTなる言葉が完全ではないものの一定の理解が示される様な世の中となり、テレビでも数多くのそちら系の人がごく普通に出演する時代となった。

エルトンの場合は、少々の事があっても全く動じないほどの人気および才能が既にあったのだが、やっぱり当時このように表立ってこの手の曲をアルバムに収録して積極的にカミング・アウトするのはかなり勇気のいることだったろう。

そして、その当時の行動がその後LGBTに関して徐々ではあるが認め始められたことに繋がったのではないかと…

単なる音楽のレコードだけではなく、そう言った意味においてもこのアルバムの存在価値は十分あったと思える。

ちなみに、このアルバムが発売された80年代の始め頃、私は一体何をしていたかと言うと….

以前勤めていた会社の忘年会の2次か3次会だったか、よっぱらった勢いで4−5名の先輩社員の方々と、もちろん金ヅルの社長も引っ張って高級クラブに突撃した様な記憶がある。

何とそこの臨時でママさんをされていた方が、当時その世界のパイオニアだったカルーセル麻紀さんだった。確か私の横に少しばかり座って二言みこと言葉を交わした様な….

翌日だったか、そのクラブのマネージャーらしき黒服の人が胡蝶蘭の鉢植えを持って、挨拶がてら支払いがまともにできる会社かどうか偵察に来たみたい。

ゲゲッ〜! 請求書の額が想像以上だったのか? 社長さん、顔には出さずとも、心の中では相当怒っていたみたい。

その後、同じクラブに会社であれ個人であれ飲みに行った事はなかった様な。

若き日のカルーセル麻紀さん、とてもFoxyな雰囲気だった様な記憶が微かに....

ランダムにレコード紹介、その26 エルトンの蒼い時代

2018年12月09日 | ELTON JOHN

確かに前作のRock Of The WastiesはI Feel Like A Bullet(In The Gun Of Robert Ford) を除いては全編ロック色の強いサウンドだった。

で、原点回帰なのか、それまでの動から静へとイメージ・チェンジ。

ちっと暗いイメージのバラードなんかが収録され、ジャケットも青色を主体とした落ち着いた雰囲気のイラストが採用された。

それが、1976年、自身のレーベル、ロケット・レコードからの待望の第一作、2枚組の大作、Blue Moves(蒼い肖像)。

(ジャケットの外は落ち着いた青色で描かれた)


(ジャケの内側は、結構賑やかなことに)


(アメリカMCAレーベルの輸入盤を購入、レーベルのデザインはかっての蒸気機関車の漫画チックなイラストではなく、闇を直走る高速鉄道って感じ)

買った当時はまだ学生だったので、このアルバムはちょいと地味に感じてそれほど聴くことはなかった。

それより一枚のアルバムに編集すれば、アルバム全体がもう少し引き締まったのではないかと思ったほどだった。

時代は流れ、ハード・ロックやポップな曲一辺倒ではなく、まあ表面をさらっとなぞっただけではあるが、あらゆるジャンルの音楽を聴くことによって、このアルバム悪くないと思い始める。

ジャズ調のIdleって曲が収録されているが、当初はかったるいと感じスキップしていたのだが、後のヒット曲、Blue Eyesに繋がっていくこの曲、今じゃ中々いけるじゃないのと思う次第。

歳を重ねたことから、自分も蒼い時代へと突入したのだなと実感する。

なるほど、そう言えばメインのおかずも赤(肉)から青(魚)に変わったね。


ロック・エイジのトゥルバドール、エルトン・ジョン

2018年09月18日 | ELTON JOHN
エルトン・ジョンの3枚目のオリジナル・アルバム、Tumbleweed Connectionは前作が発売された同年の10月末に英国で発売された。



(1974年東芝EMIから出た再発盤)

日本では翌年、ロック・エイジのトゥルバドールというキャッチ・コピーでアルバムが発売。

(付属のライナー)

トゥルバドールって言葉どこかで聞いたことがあるが、一体どんな意味かと問はれれば答えられない。

早速ネットで検索すると、トゥルバドールもしくはトルバドゥールは、フランス語で中世の南フランスでオック語と言うローカルな言葉を使って詩を書く吟遊詩人のこと。

エルトンがシンガー・ソング・ライターだったことから、現代における吟遊詩人と例え、また彼のロス・アンジェルス公演がウエスト・ハリウッドにあるライブ・ハウス、トゥルバドールにて行われた ことから、トゥルバドールと言う言葉を使ったのではないかと考える。

また、アルバム・タイトルのTumbleweedとは、アメリカの西部劇での広い荒野なんかでよく見かける、 植物が枯れてちぎれて軽い玉の様になり風に吹かれてコロコロ転がる残骸。

何となくヨーロピアン調だった前作よりもロック色を高め、さらにカントリー・フレーバーをちりばめたアメリカン・ミュージックとなった。

(付属のブックレット表紙、カーボーイ・ハットのエルトン)


(付属のブックレット裏表紙、西部開拓時代を描いた様なイラスト)

狙い通り、アメリカで大受けした。

当時日本リスナーは叙情的なトゥルバドール(吟遊詩人)と言う謳い文句があったため、多分Yes It’s MeやYour Songの続編の様な楽曲を期待していたと思うのだが....

もしそうなら、このアルバムを聴いてちょっと肩透かしを食らったんじゃないかな?

私はもちろんこのアルバムはオーケー。

英国人の描く西部劇始まり始まり。


コンテンポラリー・ポップの異端児、エルトン・ジョン !

2018年09月16日 | ELTON JOHN
著名な音楽評論家だった中村とうよう氏が、ライナーノートの表紙に一文を寄稿していた。

その文章は、“将来どんな大物になるか、おそろしいくらいだ”と締めくくられていた。

1970年に発売された、エルトン・ジョンの2枚目のオリジナル・アルバムについて書かれたもので、このアルバムには彼の初期の名曲Your SongやBorder Songなどが収録されている。






当時、何故かレコード会社は “コンテンポラリー・ポップの異端児、エルトン・ジョン” というキャッチ・フレーズとして帯やライナーに記載した。

彼を異端児と呼ぶのにはチ〜ト賛同しかねるが….

この後、氏の予想通り恐ろしいくらいの大物としてポップ界の王道を歩むわけである。


日本では1971年に東芝音工から発売。その頃はAMラジオで洋楽のヒットソングを聴く程度で、このアルバムのことは知らなかった。
買ったのは1974年に東芝EMIから再発されたもの。お値段2200円也。

あれから45年経つ。ほんと月日の流れは早いものと実感。しかしこのアルバムのみずみずしさは未だ変わらない。

洗濯屋に行く

2018年02月20日 | ELTON JOHN
来月でシンガポールに戻ってきて2年となる。

アパートのレンタル契約は通常2年単位で更新される。

契約終了期間が近づき更に同じ場所に住み続ける意思があるなら、大家に契約延長を申し出なければならない。

とは言え、延長を申し出ても契約がすんなりと更新されるわけではない。

なぜなら家賃は、其の時点でのマーケットの状況で改定されるからだ。

不景気でどうしても次のテナントが見つからない場合を除いて、家賃が下がる事はほとんどない。

日本であれば、諸般の事情で家賃が引き上げられる場合でもあまり無茶な値上げはされない。

しかし、ここではそれは通用しない。

新聞の広告欄には常時“アパート貸します!”って地域ごとに広告が大量に掲示され、広告内に提示された家賃が其の時点でのマーケット・プライスの指標となり、もし契約延長を申し出た場合、大家がマーケットの動向に従って新規の家賃を提示し延長契約の交渉に入るわけである。

10年以上前にこの地に住んでいて、日本に本帰国するため住んでいたアパートを引き上げることになった時、次のテナントと思しき日本人がアパートのコンディションを入居前に調べにやって来た。そのとき、家賃はいくらになるのかと尋ねたところ、何と私が契約していた2倍の金額が提示されたとの事。

と言うことで、新規のテナントに目一杯の家賃を吹っかける事が出来るので、大家によほど気に入られていない限り契約延長されない場合が多い。

我が家もその例に洩れず、来月は引越しとなる。

それから賃貸契約には、カーテンのメンテという項目があり、アパートから退去する前にすべてのカーテンをドライ・クリーニングで洗濯する義務付けがある。

各部屋のレースのカーテンと光をさえぎる分厚いカーテンすべてを取り外し洗濯屋に持ち込まねばならない。

分厚いカーテンは総重量11キロ(重さで洗濯代金が決まる)、レースのカーテンは軽いが、枚数で価格が決定するため割高となる。

暑い中、10数キロのカーテンを担いで洗濯屋に向う。

たかがカーテン、されどカーテンという事で洗濯代の総額何と130シンガポール・ドル (約1万円ちょっと)なり! ちょっとびっくり。

博士:何! カーテン? カーテンといえば、エルトン作目の大ヒット・スタジオ・アルバム、Captain Fantastic And Brown Dart Cowboyの中にCurtainsと言う曲があるのじゃが。

Curtains

I used to know this old scarecrow
He was my song, my joy and sorrow
Cast alone between the furrows
Of a field no longer sown by anyone
この古い案山子知ってるよ
それは僕の歌であり、喜びと悲しみでもあったんだ
荒れ果てた畑の溝の間にぽつっとたたずんでいる

I held a dandelion
That said the time had come
To leave upon the wind
Not to return
When summer burned the earth again
タンポポを手にした
時は来たって言ってるように
風と共に去っていく
決して戻りはしない
それは夏が大地を再び焼き尽くす頃

Cultivate the freshest flower
This garden ever grew
Beneath these branches
I once wrote such childish words for you
一番新鮮な花を栽培しよう
この庭は大きくなった
これらの枝の下には
君のために子供じみた言葉を書いたっけ

But that's okay
There's treasure children always seek to find
And just like us
You must have had
A once upon a time
それでいいんだよ
子供たちはいつも探したい宝物がいっぱい
ちょうど僕達のようにね
君も持っていたに違いないんだ
かってはね

助手:カーテン越しに遠い昔の自分達を眺めているって感じに聴こえますが、タイトルがCurtainsと複数形になっているから、エルトン・ジョン・バンドの活動もこれで一区切りって意味ですかね?

博士:まあそんなようなものだろう。カーテンって言葉は別れの季節に相応しいのう。

ただ、ワシの財布からカーテンの洗濯代として130ドルがお別れになったのは、非常に残念じゃ...


なんとなく独り言、その2

2017年12月13日 | ELTON JOHN
1974年頃といえば、グッドバイ・イエロー・ブリック・ロードのアルバムが世界的に大ヒットした事もあり、エルトンは世界を巡るツアーで大忙し。

超過密スケジュールの合間を縫って、たった10日ほどで新アルバムのレコーディングを行い完成したアルバムがCaribouだった。

プロデューサーのガス・ダッジョンは、このアルバムに関してやっつけ仕事だったと言っているし、何処かのトロピカルな楽園を模した壁紙の前でのジャケ写真は私のようなトウシロ・リスナーでもなんとなくやっつけ仕事の雰囲気は感じ取れる。

エルトンが主人公のジャケ写真であるから何とか格好は付いたものの、もし私であれば、健康ランドに良くある絶景のイラストが施されている壁の前でとった単なるスナップ写真となってしまう。

しかしプロから見ればベストではなかったものの、さすがエルトン!シングル・カットされたThe Bitch Is BackやDon’t Let The Sun Go Down On Meはだいヒットし、アルバムも全米一位を獲得した。

そんな中、私の一押しはこの曲、Tickingである。

7分を越える楽曲で、演奏は最後の方にシンセが被るものの、ほとんどがエルトンのピアノの弾き語りで地味といえば地味。

歌詞の内容は、エルトンがスラスラスラと歌っていくので、瞬時には理解出来ないが、結構重い内容。

学校時代ほとんど目立たない静かな少年が、母親が常日頃諭していたにもかかわらず、後に犯罪に手を染めて最後には死んでいくというようなストーリーが語られる。

エルトンの相方のバーニーが、当時のアメリカの銃社会について感じた事を詞にしたと思われる。

同じ頃チャールズ・ブロンソン主演で、悪行の限りを尽くすチンピラ・グループに対して堪忍袋の緒が切れたブロンソンが偶然手に入れた拳銃で復讐を始めるという映画、Death Wishがヒットした。

この映画5作まで作られ、私の知る限りブロンソンさん、マフィアを含む悪人100人以上処刑し、すごいの一言。

更に来年ブルース・ウィルス主演でリメイクされるらしく、この手のストーリーは未だに彼の地では人気があるようだ。

かって、ヒューストンに住んでいる知人を訪問したとき、買い物があるとの事で郊外のホームセンターに付いて行った。日本ならば、ホーム・センターといえば“お値段以上、ニトリ”と言うような感じだが、アメリカのそれはまったく異なる。

キャンピング・カーや小型ボートなど大物商品がずらり展示され、DIY、釣り、キャンプやサバイバル系の小物も充実。

しかし驚いたのは売り場の一角に銃がずらり! リボルバーやオートマチックの小型拳銃や、ショットガンやライフルなどがずらりと展示され、知人もショットガンを持っているとの事で、展示の商品を手にとって眺めていた。

今更ながら、アメリカの銃社会は既に生活の一部になっている背景があるので、規制をかけるのは中々難しい事だと感じる。

歌に話を戻すと、コーラス・パートの
Remember Mama said Ticking, ticking

Hear it, hear it, Ticking, Ticking
の箇所がエルトン節満開で耳に残る。

まあ、此処では重苦しい歌詞は横に置いといて、エルトンがさらっと歌うこのバラードの美しいメロディーを楽しもうではありませんか。

と前回とよく似た締めを採用する。

なんとなく独り言

2017年12月13日 | ELTON JOHN
ポール・バックマスターによる重厚なストリングスの味付けも無く、エルトンを含む4人組のバンドにゲストとしてジャズ・バイオリニストのジャン・リュック・ポンティーとシンセサイザー奏者のみが数曲に絡むというシンプルな編成で臨んだ、1972年の5枚目のオリジナル・スタジオ・アルバムがHonky Châteauだった。

前作のMadman Across The Waterと比べると、スリックな印象になったとも言えるのだが、これが返って功をそうしたのか万人受けし、初の全米一位を獲得した。

そんな中シングル・カットされたHonkey CatやRocket Manに注目がいくが、私の一押しは隠れた名曲、Mona Lisas And Mat Hattersである。

Stand By Meで有名だったBen E. KingがかってSpanish Harlemという曲で、“スパニッシュ・ハーレムではバラが咲く”と歌った。

それに対してエルトンは、“スパニッシュ・ハーレムって美しい響きを持った言葉じゃないと今判った。知っていたつもりだったけど、ニューヨークではバラの木なんて育たないってね。”と歌う。

確かに美化されたイメージの多いこの世の中、いざ飛び込んでみると現実と乖離しているのってよくある話。

まあ、此処ではそんな堅苦しいうんちくは横に置いといて、エルトンがしっとりと歌うこのバラードの美しいメロディーをシンプルに楽しもうではありませんか。

あなたは何処の国製?

2017年06月14日 | ELTON JOHN

先日、イギリスの保守党がEU離脱交渉の足固めをするため選挙に打って出たが、彼らが期待したのと異なる与党の過半数割れの結果となり、EU離脱交渉がスムーズに行くのかどうか不透明となった。

EUと言えば、域内で生産された商品の原産地国名の表記の義務化は例外を除いて特になされていない。

そのためかって旧東欧諸国圏内で生産された商品にはMade in EUと記載されているのをよく見る。

私の仕事上の経験でも、昔Made in Hungaryと記載された商品が、工場の所在地は変わらないのにいつの間にかMade in EUに変わっていた。

そうなると、ドイツやフランスなど旧西欧圏の諸国などは、品質に自信を持って自国で生産されたこだわりの商品がMade in EUと言う呼称で一括されてしまうと、ちょっと不満が出てくる。

一線を画するため、特にMade in GermanyやMade in Franceとわざわざ商品に表記するケースを見受ける。

日本でも、最近ほとんどの日用雑貨が中国で生産されているので、たまに日本製の表記を見つけると、個人的には値段が少し高くてもそっちを買っちゃうからね。

また海外での飛行場の入国審査なんかも、日本のパスポートを持っていると、比較的短時間で通過できることが多い。

やっぱり何処の国出身というのは、海外に出てみると結構重要なことだとわかる。

と言うわけで、それに関する歌を紹介。

エルトン・ジョンの1995年に通算25枚目のスタジオ・アルバム、Made in Englandからカットされた自叙伝的な表題曲である。

ビートルズの、AHDNの有名なイントロのジャ-ンで始まる軽快な曲、自己流で翻訳してみると。

I was made in England
俺はイングランドで生まれた
Out of Cadillac muscle
キャデラックのような臥体はなかったけどね
I had a quit-me father
俺を捨てた父親
I had a love-me mother
俺を溺愛した母親
I had Little Richard
リトル・リチャードが好きだった
And that black piano
それに黒いピアノ
Oh that sweet Georgian Peach
甘いジョージア産のピーチもね(ジョージア産のピーチは有名)
And the boy from Tupelo
それからテュペロからやって来たあいつ(多分エルビスのこと?)
Wow oh oh oh I was made in England
俺はイングランドで生まれた
Wow oh oh oh I was made in England

と自己の生い立ちを語り、子供のときからアメリカ南部のロックン・ロールに入れ込んでいた。

2番の歌詞では、ロックン・ロールが三度の飯より好きだったてなことを言っている。

そして3番と4番の歌詞では、40年間色々中傷を受け苦しんできたこと、だが今ではゲイに関して偏見を持ちあざ笑うような英国人は、少なくなってきた。そのことをもっと理解して欲しいと言っている。

そして、I was made in Englandの繰り返しで締めくくっている。

高額の税率で、昔から多くのミュージシャンがイギリスからアメリカなどに移住する中、エルトンはそこに留まり、イギリス人として自身のアデンティティーを世界に向けて歌い上げる。

なるほどこんな歌だったのか、原産地国名の表記に関する話じゃなかったのね。

歌詞を訳して初めてわかる。


風邪をひいちまった、その2

2016年06月16日 | ELTON JOHN
風邪をひいたものの、日本から持ち込んだ常備薬と近所のドラッグ・ストアの風邪薬で何とか症状を押さえ込んだと思いきや、なんとその後微熱が発生。

私も家族と同様、ついに近所のクリニックのお世話になり、今回のしつこい風邪を治す直すきめ台詞である“ANTIBIOTIC(抗生剤)の処方お願いします”と一言唱えたのであった。

解熱剤を併用し、何とか一段落したとはいえ、この脱力感。何をするにもやる気がまったく起こらない。

まあ病みあがりだと、集中力も欠けてしまい、チョンボしてしまう可能性もあると自身に都合の良い言い訳を考え、急がないもしくはそれほど重要でないのは、今回全部スルーと言うことで。

おいおい!そんなことで仕事大丈夫?

イヤー! 長年の経験で、大胆に重要な案件とそうでないものを線引きし、そうでないものは何とかうまく理由をつけてばっさり切り捨てる。

沢山の仕事に囲まれて身動き取れない人の中には、義理でどうでもいいような仕事まで抱かえこんじゃってアップ・アップしているようにも見受けられるのだが…

と偉そうな事をほざいてしまったが、一日が24時間しかない中、やっぱり言われたことすべてのことを上から言われたように完遂するのは困難な場合が多々あり、そこは仕事における取捨選択が必要となる。

社長:オーイ君! 例の入札の書類は完成したかね?

社員:いやー、未だ取り掛かっていないのですが… 正直なところ、あの入札に応札してもチャンスは無いと思いますが。

社長:君ねー、応札しなければチャンスはゼロ確定。応札すれば、万が一もってあるじゃないか!

社員:社長お言葉ですが、万が一の確率ならほぼゼロと同じですよ。じゃ! 本日の仕事はここまでってことで、お先に~

な~んて、とても言えない。

やっぱり仕事の奴隷として一生を生きていかねばならないのか~

と言うことで、1972年のエルトン・ジョンの5枚目のスタジオ・アルバム、ホンキー・シャトーに収録されたSLAVEはいかが。

奴隷というタイトルのカントリー・タッチののどかな感じで歌われる曲で、それは南北戦争ごろの白人の農場で働く黒人奴隷の悲哀が歌われ、いつか俺たちを支配するに連中にいつか勇気を持って立ち上がり復讐を成し遂げてやるというような内容で、曲調から来るイメージとはかなりギャップがある。

そうだ! 俺たちも俺たちをコントロールするあの傲慢な社長どもに鉄槌を加えるために立ち上がるのだー!

とは口が裂けても言えないね~

やっぱり、気を取り直して仕事に戻ろう~

Slave - Elton John

神様っているの?

2016年05月26日 | ELTON JOHN
ズビスパー パパパヤー

やめてケレ やめてケレ
やめてケーレ ゲバゲバ
やめてケレ やめてケレ
ゲバゲバパパヤー

中略

おお 神様 神様 助けてパパヤー

今では、何のこっちゃと思われる方がほとんどではないかと。

これは、あの“左卜全とひまわりキティーズ”が1970年にはなったスマッシュ・ヒット(オリコン10位)となった“老人と子供のポルカ”の一節である。左卜全と言えば、七人の侍に代表される映画や多くのテレビドラマで老人の脇役を勤められ、当時良くお目にかかった俳優である。


ここで、神様 助けてーと歌っているが、私も含めて日本人ほどあらゆる神様や仏様に助けを乞う人種はいないのでは…

神社に参って八百万の神々に助けをお願いしたその足で、お寺に行きお大師様やお不動様、はたまた阿弥陀如来様に助けを請う、さらに家に帰れば、山の神であるかーちゃんに小遣いの増額をお願いするという、二股どころか、頭に浮かぶ全ての神様におすがりする訳である。

このようなことでは、神様や仏様は助ける気持ちなんてまったくおこらないのでは?

“この世には神も仏もいないのか~”なんて叫ぶと、神様が出てきて、”いることはいるのじゃが、助ける気しないもんねー“何て言われるかも知れない。

洋楽に目を移すと、エルトン・ジョンがアルバム、ブルー・ムーブのなかで神について歌っている。

If There’s A God In Heaven(What’s He Waiting for?)

Torn from their families
Mothers go hungry
To feed their children
But children go hungry
There’s so many big men
They’re out making millions
When poverty’s profits
Just blame the children
家族から引き離され
母親たちは飢える
子供の空腹を満たすために
しかしそれでも子供たちは飢える
多くの金持ちがいる
やつらは、大金を得るために出かける
貧困に対して何らかの施しって話になると
子供たちの存在を非難する

If there’s a god in heaven
What’s he waiting for
If he can’t hear the children
Then he must see the war
But it seems to me
That he leads his lambs
To the slaughter house
And not the promised land
もし天国に神がいるなら
一体何を躊躇しているのだろうか?
子供たちの声が聞こえないならば
戦争とやらを見るべきじゃないか
俺が思うには
神は彼の子羊たちを
約束の地にではなく
場に導いているような


とかなり辛らつに歌っている。 存在するのなら何とかしろよ! って感じ?

彼の地では、神に関しては、それを信じるかそうでないかの二者択一であるため、それを個人で決定するには明確でシリアスな思考を持ち合わせる必要があるのかも?

神様との付き合いが幅広くかつ浅い関係を持つ我々一般の日本人では、こうは行かない。

やっぱり、“おお 神様 神様 助けてパパヤー”がしっくりと来るみたいだ。

まあ、“パパヤー”と歌っている時点で、助けてもらうことはまったく期待できないような...

最近のエルトン・ジョン

2016年03月02日 | ELTON JOHN
助手:博士! エルトン・ジョンの最新作、WOUNDERFUL CRAZY NIGHTってアルバム、もう聴きました?

博士:さっき買って来て聴いてみたよ。なんと、数えてみたらこのアルバムで32枚目のソロ・スタジオ・アルバムで、ライブ、サントラそしてコンピ盤全て入れれば膨大な数のアルバムを出したことになるのう。

ファースト・ソロのEMPTY SKYを1969年に出してから45年以上第一線で活動してきたのには恐れ入るわい。

日本では、EMPTY SKYは翌年の1970年に出されたのじゃが、その頃は、中坊で学校のクラブ活動に身を入れすぎて、エルトンなんて歌手全く知らなかったぞ。ただし、IT’S ME THAT YOU NEED(イエス・イッツ・ミー)はエルトンが歌っていたとは知らずにラジオで聞いたことがあったような…

わしの場合は、そのデビューから2-3年経った頃の後追いのファンじゃな。

助手:今回のアルバムはいかがでした?

博士:昔のようなノリの良いアルバムだと評価する人も数多くいるようだ。しかし、辛口と思われるかも知れないが、わし的にはアルバムの内容は、まあ及第点レベルじゃないかと考えるのじゃ。

年をとれば仕方のないことなのだが、残念ながらオナラの音を除いて、ほとんどの人の声は衰えてしまうのじゃ。

エルトンとて例外ではなく、ここ10年ほどに出たアルバムにおいては、70年代全盛期頃のファル・セットを含めた高い声は出なくなり、低音一辺倒の歌唱になってしまっておる。

アルバム、MADMAN ACROSS THE WATERの頃のポール・バックマスターの重苦しいストリングスに負けない熱唱、DANIELのサビの部分の裏声、SATURDAY NIGHT’S ALIGHT FOR FIGHTINGでのロック調シャウト、そしてアップ・テンポの楽曲などを、昔のクオリティーを期待するにはちょっと厳しいかのう。

そうなると、今出せる声量や音域に従って、自身が十分消化できるテンポの楽曲を作曲しそれを歌唱すると、どうしても似たり寄ったりになりがちじゃ。

だから最近の新譜のアルバムが出たとしても、曲のイントロを聴いただけで、どのような感じの曲になるか、なんとなく推測出来てしまうのじゃよ。いい意味で期待を裏切るような事があまり無いのが残念といえば残念じゃよ。

助手:じゃあ、今回のCD制作に関して、なにかターゲット的なものが設定されているのですかね?

博士: 最近洋楽を聴くことに目覚めた中高生や20から30代の若い世代が挙ってこのCDを買うことは多分ないと思うのだが。

わしらが中高生の時は、若いエルトンがとびきりのバラッドやロック・ナンバーをガンガン歌っていたので、当然その世界に引き込まれたのじゃが…

助手:となると、70-80年代からエルトンのアルバムをずっと聴いてきた40代以降のファンに向けたものですね。まあ、長年ファンを続けてきた人ならば、エルトンが元気で新譜を出したり、ライブ活動をやってくれるのであれば、1986年のアルバムLEATHER JACKETSのような駄作でない限り、躊躇しないでこのCDを買っちゃうのではないかと言う事ですかね…

博士: デビューからLEATHER JACKETSも含めた殆どのアルバムを漏れなく購入してきた身としては、やっぱり往年の名曲に匹敵するような曲が入ってないかと、新譜が出ればつい期待をしてしまうのも事実じゃ。

いつかグッドバイ・イエロー・ブリック・ロードに匹敵する、誰もがその出来に唸ってしまうようなアルバム… もちろん過去の成功にしがみ付くことなく、いい作品を是非作って欲しいと思うのじゃよ。

助手:なるほど、なるほど。ファンの気持ちって結構複雑なんですね。

博士:“なるほど”は一回でよろしー だけど、エルトンの新譜は最低5回は聴いてほしいのう。

映画の中のTINY DANCER

2015年07月22日 | ELTON JOHN
エルトン・ジョンといえば、フォークやロックから、カントリー、クラッシック、ジャズそしてディスコ調の曲まで非常に守備範囲の広い音楽の才能を持ち合わせています。しかしながら、幼少の頃から始めたクラッシックのピアノの影響から、やはりバラードを得意とする歌手兼作曲家ではないかと思います。

バラードとは、音楽のジャンルによって意味合いが異なってきますが、ポピュラー・ミュージックに限れば、ゆったりとしたテンポ 、比較的静かなアレンジ、美しいメロディーやハーモニーが曲に取り込まれてれている、また歌詞の特徴としてはラブソングや感傷的な内容、などなどのイメージになるのでは。

エルトンの曲であれば、古くはYES, IT’S ME、 YOUR SONG、 GOODBY YELLOW BRICK ROAD、 CANDLE IN THE WIND、 SORRY SEEMS TO BE THE HARDEST WORLDなどから少し前のヒット曲I WANT LOVEなど数多くの素晴らしいバラードを残しています。

それらの中で、お気に入りの一つは1971年に発売されたアルバムMAD MAN ACROSS THE WATERから、翌年シングルカット(アメリカのみ)されたTINY DANCERという曲です。


ピアノの前奏から曲が静かに始まるのですが、美しいスティール・ギターにバック・バンドのサウンドが絡まり、その後美しくかつ分厚いコーラスとポール・バックマスター編曲の重厚なストリングスが順次被さって盛り上がっていくドラマチックな構成となっています。

歌詞はエルトンの相棒であるバーニーが書いたもので、彼の前妻であったMAXINEに捧げる内容とのことですが、その歌を聴いて瞬時に内容が理解できるほど英語力があるわけでもないのですが、どういうわけか今でも、歌い出しのBLUE JEANS BABY, L.A. LADY~と言う歌詞がメロディーにうまくマッチし心地よく感じ、今でも心に残っています。

美しいメロディーを持ちながらも、6分以上の長い曲のためラジオでオン・エヤーするには不向きだったのか、アメリカのチャートでは41位と大ヒットには至りませんでした。

しかし、素晴らしい曲はいつの世に成っても評価は変わらず、なんと発売から40年経った2011年にアメリカレコード協会(RIAA)から通算で100万枚以上売れたことから、プラチナ・シングルとして認定されました。

他の歌手やバンドによってこの曲がカバーされたことが、再評価に繋がり、スロー・ペースではあるがプラチナ・シングルの認定に貢献したと思うのですが、かなり昔観た映画(どんな筋だったかは、思い出せない)にも、バスの中でこの歌が歌われていたシーンがあったのを思い出しました。

ネットで調べてみると、2000年にキャメロン・クロウ監督によって製作されたALMOST FAMOUS(邦題あの頃ペニー・レインと)と言う映画でした。ロックバンドの追っかけをしていたグルーピーのペニー・レインという娘と若いロック・ジャーナリストの主人公が出会う話でした。

もちろんフィクションですが、監督が青年時代にローリング・ストーン誌のロック・ジャーナリストとして活動していた経験からこのストーリーが生み出されたみたいです。 この映画なんかもTINY DANCERの再評価に貢献したのではないでしょうかね?

バスの中でこの歌が合唱される映画の中の演出は、エルトンの一ファンとしてはちょっといいシーンだなと思いました。

映画の中のTINY DANCER
Almost Famous - Tiny Dancer


Elton John - Tiny Dancer

成功へのチーム誕生

2015年03月10日 | ELTON JOHN

スティーブ:エルトンやったな!ホンキー・シャトー全米1位だぜ!

エルトン:だけど、これだけ売れてもなんか実入りが少ないような気がするんだ。

スティーブ:音楽出版社なんてどこもそうだよ。一旦売れるとガバッと彼らの懐に入るような契約になっているんだ。

バーニー:その時は売れるなんて思ってもみなかったし、契約書もよく見てなかったからな~

スティーブ:奴らビートルズの版権(NORTHERN SONGS)売っちまったからな~ 契約が切れるまではドル箱のエルトンで稼げるだけ稼ぐつもりじゃないかな? それなら、自分のレコード会社作ったらいいんじゃない。

ガス:それに一口乗った。

スティーブ:じゃー準備にかかろう。

一同:オー

てな会話が1972年頃にあったかどうか知りませんが、1973年にロケット・レコード・カンパニーが設立され、エルトンも音楽事務所(ディックジェームス)と契約の切れた1976年に加入します。

セルフタイトル、エルトン・ジョンの成功は、盟友バーニーの存在だけではなく、制作チームの頑張りが大きく貢献したと思います。1枚目のEMPTY SKYは商業的には成功しませんでしたが、エルトンはその後ほとんど回り道をせずに2枚目のアルバムで大成功を手に入れました。

そのきっかけは、ジャケット裏のポートレイトで右端に控えめに写っているスティーブ・ブラウンの客観的な判断だったと思います。当時、何でミュージシャンでもないのにここに写っていたのか不思議に思っていました。

当初彼は、EMIのA&R(ARITIST & REPERTOIRE)部門で働き、エルトンの作る音楽を非常に気に入り、エルトンの所属していた音楽事務所(ディック・ジェームス)にエルトンをデビューさせるように働きかけ、また自身もその音楽事務所で働くことになり、自身と知り合いのミュージシャンと共同でエルトンの数枚のシングルや1枚目のLPであるEMPTY SKYを制作しました。

しかし次のアルバムに収録されることになる TAKE ME TO THE PILOTをレコーディングしている最中に、エルトンを成功させるには、自分では力不足と判断し、“プロ”のプロデューサーに任せることが必要と考え適任者を探すことにしたのです。ポール・バックマスターと会った時に、デビッド・ボウイーのスペース・オデッティを手がけたガス・ダッジョンを紹介されました。(彼自身もまたストリングスのアレンジ担当でそのアルバムに参加していました。) 2枚目の制作を彼らに任せることにより、自身は裏方としてエルトンの活動全般のコーディネーターの仕事を担当することになりました。

そしてガス主導により、2枚目のアルバム制作が本格的に開始されます。ポールのストリングス、コーラスグループと有能なセッションミュージシャンなどの導入により、演奏が引き締まりさらに重厚な仕上がりとなりました。このことはリマスターCDデラックスエディションのボーナストラックである、ピアノデモと聴き比べるとよく判ると思います。(ピアノデモの音源はラフですが、聞き応えはあります。)

また楽曲もアメリカのリスナーをターゲットに、英国的なイメージを残す曲の中に、ゴスペル系のBORDER SONG、ダイナミックなロックのTAKE ME TO THE PILOT、そしてアメリカ人が好む甘く感動的なメロディーラインを持つ YOUR SONGを配置しました。それによって 、アルバムのヒットは確約されたようなものでした。(全米4位になる)

もちろんスティーブのサイドも抜かりなく、あのTHREE DOG NIGHTにLADY SAMANTHAやYOUR SONGを先行カバーしてもらうことに成功しています。さらに、そのフォローとしてアメリカでライブ活動を行うためナイジェル・オルソン(DRUM)とディー・マレー(BASE)を含んだ3人組のバンドを結成させます。

英語の歌であれば、アメリカのマーケットでの成功が最重要となります。
アメリカでのゴールドディスク/プラチナディスクは50万枚/100万枚ですが、イギリスのそれは10万枚 /30万枚と市場規模が違うことがよくわかると思います。最初からアメリカをターゲットにした制作チームの狙いは当然頷けるものです。

このアルバムは、エルトンを成功に導くチームが結成された記念すべき作品となりました。

私:ところで師匠、NORTHERN SONGSってディック・ジェームスが持っていたんですか?

師匠:ブライアン・エプスタイン、ディック・ジェームスそしてジョンとポールが設立メンバーでレノンーマッカートニーの曲を管理するための会社だよ。おまけでジョージやリンゴの曲も管理することになっていたんだよ。当時ジョージやリンゴは曲を作っていなかったから問題はなかったんだけど。

私:だからその後ジョージは、ONLY NORTHERN SONGSで、いくら曲を書いて売れても、株主でない俺は儲けがなく、NORTHERN SONGSだけが儲かると皮肉っているんですね。

師匠:ブライアンが死んだ後、ディック・ジェームスは英国のATVに株を売っぱらたのさ。ジョンとポールは裁判を起こしたけど敗訴。そうこうしているうちに、版権の価格が上がり簡単に取り戻せなくなり、大金持ちだったマイケル・ジャクソンがそれを買うことになったのだよ。彼の死後は、SONY/ATVが版権を持っているよ。

私:もしディック・ジェームスが版権を売らずにいたら、すごい大金持ちになっていたでしょうね。

師匠:もしそうだとしても、かなり昔に亡くなっているから、それを実感した期間はそれ程長くはなかったと思うよ。


右端に控えめに写っているスティーブ・ブラウン

小太りの男って誰?

2015年03月01日 | ELTON JOHN

知人の証言によると、その男は小太りでピアノの上で飛んだり跳ねたりしていた。それは、1971年10月に日本で行われたコンサートの様子のことでした。

もう詳しい人ならすでに誰だかお分かりになっていると思います。
そうですエルトン・ジョンです。

アルバム2枚目のELTON JOHNや3枚目のTUMBLE WEED CONNECTIONのジャケットを飾る写真を見ると, 当時とてもそのようなイメージは全く浮かばなかったのですがねー
まあ私はもちろん彼のファンなので、容姿は特に気にならないし、もちろん他人の容姿についてとやかく言える身分でもありませんが。 女性ファンでコンサートに行かれた方は少し複雑な気持ちになられたのでは? 

ちなみに私はライブコンサート派ではありません。クラッシックコンサートのように行儀よく拝聴しろというわけではありませんが、前席の人間がコンサートの初めから終わりまで立ったままだとか、隣の人間が大きな奇声をあげるなどの行動にはちょっと付いていけません。皆さんはどう思われますか?

このアルバムは1971年の来日記念盤として日本のみで発売された当時のベスト盤です。すでに廃盤となっており、また今後CD化もありませんので収録曲を下記に記します。

A VERY SPECIAL COLLECTION ELTON JOHN
A面
1.YOUR SONG
2.JUST LIKE STRANGE RAIN(シングルでの発売)
3.SKYLINE PIGEON
4.COUNTRY CONFORT
5.HONKY TONK WOMEN(LIVE)
B面
1.BORDER SONG
2.LADY SAMANTHA(シングルでの発売)
3.BAD SIDE OF THE MOON(シングルでの発売、LIVEではなくスタジオ録音の方)
4.IT’S ME THAT YOU NEED(シングルでの発売)
5.ROCK AND ROLL MADONNA(シングルでの発売、擬似LIVE作品)

過去の各アルバムからの人気曲とアルバムに収録されていなかったシングル曲を合わせたものです。その当時過去のオリジナルアルバム全て持っていたのですが、日本人ウケする選曲だったので非常に聴きやすく、レコードをかけるとなると、大抵このアルバムだった事を思い出します。

1995年にリマスターされたCDにはオリジナルアルバムに収録されていなかった曲がボーナストラックとして収録されていますので、それらのCDをITUNEに取り込み上記の曲順に聴けば、当時、私などが思い描いていたまだ見ぬエルトンのイメージはこのようなものだったと解っていただけるのではないかと思います。

別の知人の証言によると、その男たちの演奏は迫力のあるものだったと言っていました。これは、1974年2月に日本で行われたコンサートの様子です。バンドにギターのデイビー・ジョンストン、パーカションのレイ・クーパーが加わって五人組となり、ライブの音に厚みが加わった事がその理由だったと思います。

よくそんな古い話を覚えているなと言われるかもしれませんが、ファンとはそういうものです。残念なことに、それ以外の重要なことは結構忘れていますが。


ジャケットの内側の写真、SSWの貴公子て感じですかねー