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「飯田 蛇笏(ダコツ)」『日本詩人全集30』(新潮社、1969年):1915-16年の『ホトトギス』は蛇笏および鬼城の独壇場の時期だった!中年期(1932-55)、蛇笏が独自の詩情を奔騰させる!

2021-05-17 18:21:56 | 日記
飯田蛇笏(ダコツ)(1885-1962)は山梨県に生まれた。蛇笏は1908年(23歳)、虚子主催の第2回「俳諧散心」1か月間の錬成句会に参加する。ところがこの後、虚子は小説に専念。蛇笏は落胆し故郷に帰る。1915年(30歳)、前年の虚子の俳壇復帰を知り再び『ホトトギス』に出句。1918年『キララ』の主幹となる。誌名を『雲母』と改める。1932年(47歳)第1句集『山廬集』を刊行。大正初年(1912年)に虚子が称揚した「主観句」の運動は水巴(スイハ)・鬼城(キジョウ)・蛇笏(ダコツ)・普羅(フラ)・石鼎(セキテイ)らの俳句黄金時代を現出した。特に1915-1916年は蛇笏および鬼城の独壇場の時期だった。しかし大正後半、虚子は主観句より後退する。主観的写生から客観的写生へ移行する。かくて水巴は『ホトトギス』を遠のき、普羅・石鼎も大正後半は振るわない。蛇笏も以後15年間、1932年位まで沈潜する。
(1)『山廬(サンロ)集』(1903-1931、18-46歳)
★「幽冥へおつるおとあり灯取虫」:火取虫は灯火に集まってくる虫。飛んで火に入る夏の虫。哀れだ。
★「死病得て爪うつくしき火桶かな」:結核は肌が白くなる。「美人は結核にかかりやすい」と言われた。
★「流燈やひとつにはかにさかのぼる」:灯篭流し。一つだけ流れに逆らう。不思議だ。
★「秋の雲しろじろとして夜に入りし」:秋の寂しさ。しろじろとした雲のまま夜に入る。
★「(仲秋某日下僕孝光の老母が終焉にあふ・・・・)なきがらや秋風かよう鼻の穴」:生命が無機的存在に変わる。物である亡骸の鼻の穴だ。
★「(芥川竜之介の長逝を悼みて)たましひのたとえば秋のほたるかな」:1927年。蛍は魂に見える。Cf. 和泉式部に貴船神社の歌がある。「ものおもへば沢のほたるもわが身よりあくがれいづるたまかとぞ見る」。苦しむ和泉式部の生霊!
★「をりとりてはらりとおもきすすきかな」:ススキは簡単に折り取れないので苦労したはず。そして重かった。「はらりとおもき」とススキの感じ!

(2)『霊芝(レイシ)』(1932-1936、47-51歳):蛇笏が独自の詩情を奔騰させる!蛇笏、中年期(1)!
★「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」:夏は過ぎ、風鈴が黒く重苦しく鳴る。
★「寒鯉の黒光りして斬られけり」:人と鯉の残虐な関係。生きる鯉の輝きを、無残に中断させ、人は鯉こくを「うまい」と食べる。鯉は生きたまま輪切りにされる。(Cf. 鯉は出刃包丁の背で眉間を叩き失神させて捌く。)
★「死火山の膚(ハダ)つめたくて草いちご」:死と生の対比。Cf. ただし大地(死火山)は、大地の女神ガイアであり、生と再生と豊穣の象徴でもある。
★「雪山をはひまはりゐるこだまかな」:雪山の「こだま」(木霊)は隠れる場所がない。雪に覆われている。「こだま」が這い廻る。
(3)『山響(コダマ)集』(1936-1940、51-55歳):蛇笏、中年期(2)!
★「草川のそよりともせぬ曼殊沙華」:曼殊沙華の孤高。風がない春。
★「しばらくはあられふりやむ楢林(ナラバヤシ)」:冬の楢林に霰が降る。しばらく霰が降りやむ。
★「冬の蟇(ヒキ)川にはなてばおよぎけり」:冬眠していた蟇蛙を偶然掘りだした。川に放すと泳いだので驚く。
★「うすやみにもともきらひな社会鍋」:夕暮れ、「社会鍋は最も嫌いだ」と蛇笏が言う。しかし彼には「だいたんに銀一片を社会鍋」の句もある。(『救世軍』ホームページ!)

(4)『白嶽』(1940-1942、55-57歳):戦時中の句集!
★「凍雪(イテユキ)をはたはたとうつ山おろし」:凍った雪の固さ、大気の寒さ、風の強さ。
(5)『心像』(1942-1946、57-61歳):自然観照を観念的或いは意識的に深める!(Cf. しかし「俳句は意識的な観念的な叙述を殺し切ったところに完成する」石原八束!)
★「野いばらのあをむとみしや花つぼみ」:青いだけの野いばらと思ったら、花のつぼみがあった。
★「やまみづのゆたかにそそぐ雪の池」:「ゆたかに」は、「意識的な観念的な」主観の言葉だ。石原八束はこれを批判する。

(6)『雪峡』(1947-1951、62-66歳):戦後の三部作(1)!高邁精尚な気品!
★「(妻女鵬生に託されたる一握の遺髪を公報に接しはじめて示す)なまなまと白紙の遺髪秋の風」:遺髪は生きた体の一部だ。抽象的な死を圧倒する。
★「月光とともにただよふ午夜の雪」:夜半。月が出ているが、雪がちらちら漂う。寒い。
★「咲きみちて茨(バラ)一片もちるはなし」:バラの花が満開で一片も散っていない。美の盛り。
(7)『家郷の霧』(1952-1955、67-70歳):戦後の三部作(2)!俗気を蹴はらう!
★「おく霜を照る日しづかに忘れけり」:朝、日が照るにつれ、霜の存在が忘れられていく。時が過ぎる。
★「うす影をまとうておつる秋の蝉」:死につつある蝉。命の「うす影をまとう」にすぎない「秋の蝉」。
★「金輪際牛の笑はぬ冬日かな」:穏やかな冬日。「金輪際牛は笑わない」という当たり前の日常の平和。
(8)『椿花集』(1956-1962、71-77歳):戦後の三部作(3)!放下(ホウゲ)の老境!一切の執着を捨て去る!
★「秋の風富士の全貌宙にあり」:「秋の風」が吹く宇宙。そこに浮かぶ「富士の全貌」。空間の巨大。
★「盆過ぎて蝉鳴く天の雲明り」:涼しさの気配。蝉が鳴き続ける。暑いが秋は近い。
★「泥鰌(ドゼウ)とる鷺のむらがる初時雨」:秋が来た。鷺は食欲旺盛。食欲の秋。
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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(81)-4 百田氏の誤り④:「日本の敗戦が決まった」のは8月9日の御前会議ではない! 8月14日の御前会議だ!

2021-05-17 11:45:15 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(81)-4 8月9日の御前会議:昭和天皇は「国体護持を確認してから、ポツダム宣言を受諾する」ことに賛成した!(313-314頁)
V-5 1949年8月9日の御前会議について、百田尚樹『日本国紀』は次のように述べる。「『ポツダム宣言』をめぐっての会議は完全に膠着状態になった。日付けが変わって、午前2時を過ぎた頃、司会の鈴木貫太郎首相が『・・・・陛下の思し召しをお伺いして、意見をまとめたいと思います』と言った。ずっと沈黙を守っていた昭和天皇は、『それならば意見を言おう。』と初めて口を開いた。・・・・『自分は外務大臣の意見に賛成である。』日本の敗戦が決まった瞬間であった。」(百田405頁)
V-5-2 百田氏の叙述には「膠着状態」や「外務大臣の意見」について説明がないので、以下補足しよう。東郷外相、米内海相、平沼枢密院議長の意見は「国体護持[天皇制の存続]を確認してから、ポツダム宣言を受諾する」。阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部長の意見は「ポツダム宣言に複数の条件を付し、これが認められない限りは徹底抗戦すべし」。
V-5-2-2 したがって昭和天皇は「国体護持を確認してから、ポツダム宣言を受諾する」ことに賛成した。

(81)-4-2 百田氏の誤り④:「日本の敗戦が決まった」のは8月9日の御前会議ではない! 8月14日の御前会議だ!(314頁)
V-5-3 百田氏の誤り④:百田氏は「日本の敗戦が決まった」のが「8月9日の御前会議」(会議は長引き実際には翌日)だったと述べるがこれは誤りだ。経過は次の通りだ。
(a) 8月9日の御前会議(終了は8/10)の後、「国体護持が可能かどうか」、日本が連合国に問い合わせた。
(b)8/12未明に来た連合国からの回答で、「国体護持が十分確認できなかった」ため、陸軍が徹底抗戦を唱えて閣議で話が蒸し返された。
(c)8月14日午前11時に再び御前会議が開かれた。阿南(アナミ)陸相が徹底抗戦を説く。だが天皇は「私の考えは変わらない」「これ以上戦争を継続することは無理」「以上は私の考えである」ときっぱり断言した。これが「日本の敗戦が決まった」瞬間だ。ポツダム宣言受諾は8月14日だ。
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