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外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

英語での発信は「科学的に」:平川祐弘さんのがんばり

2018年09月27日 | 言葉について:英語から国語へ

英語での発信は「科学的に」:平川祐弘さんのがんばり

今日の産経新聞には、比較文学界の長老と言うべき平川祐弘さんが、健筆をふるっています。例の歴史問題ですが、エッセイの終わりはこうなっています。

                                                            歴史の誤報を反論できる日本に

writing english(------)

そのなかで朗報は、秦郁彦氏の客観的研究『慰安婦と戦場の性』の立派な英訳 Comfort Women and Sex in the Battle Zoneがアメリカのハミルトン社からついに出たことだ。日本が不当に扱われると憤激する正論派は多いが、内弁慶では反撃の効果はない。国際的に通じる、きちんと註のついた学術書を世界に向けて発信する。それが日本の汚名をそそぐ捷径(しょうけい)だ。

私たち日本の学者も外交官も相手の言い分を理解する語学力はあるが、相手の言葉で説得的に反論できる力が足りない。歴史問題では問題点を確かめ、相手の誤りを事実に即して上手に知らせるががよい。そのためにはこの種の英文書籍を活用することが大切だ。(2018.9.27)

「内弁慶では反撃の効果はない」というところが、批判の骨子だと思います。ナショナリスト的な気分で盛り上がっても事態は好転しません。英語など嫌いだでは何も進まないのです。英語だけでなく、日本語でも相手がわかるように、相手の立場にたって述べてはじめて相手に通じます。ここでは英語で書く、話すということがその一歩です。

facts第二歩は、「歴史問題では問題点を確かめ、相手の誤りを事実に即して上手に知らせるががよい。」という点。ここを、このブログの題では「科学的」と言わせてもらいました。平川さんの言葉ではありません。じつは、科学、科学的と言う言葉はあいまいであまり使いたくないのですが、「事実に即して」ということは「科学」の必要条件であることはたしかです。科学というと物理学に代表される再現可能な立派な法則を思い浮かべる人が多いと思いますが、自然科学の探求過程でも、人文学でも、最初は「法則」にならない混沌をまさぐる点では同じです。そのとき、事実に基づくことが第一の条件。しかし人文系の人は事実ということにやや鈍感な傾向があります。よく文系と理系の統合と言って、ITの歴史学への応用などが言及されることがありますが、文系と理系の共通点を探るなら、まずこの「事実の重視」から始めたいものです。

話が木下是雄さんシリーズと同じところに行きそうですね。ここでは「国際的に通じる、きちんと註のついた学術書を世界に向けて発信する。」ということが眼目です。国際的に通じるということは、第一に「科学的」でなければなりません。「科学的事実」は万国共通。日本でもアメリカでも重力加速度は同じ、9.80665 m/s2 ですネ。英語で発信するためには、狭い意味の英語能力だけでなく、事実に基づくという態度を養うことも欠かせません。

第三に、と言いかけましたが、話が広がりすぎるので、それについては袴田茂樹さんについてのエッセイをご覧ください。

平川 竹山平川さんは、言葉の問題についての評論活動をずっと続けてこられました。新聞社のサイトではもうアップロウドしていないので、一篇だけですがスクールの「長いエッセイの倉庫」に貯蔵してあります。題は『外国語で自己主張する日本人たれ』(2014) 。弱小新聞のエッセイではありますが、平川さんの長年の主張が広まってくれることを望んでいます。

ちなみに平川さんの奥様は数回前に扱った竹山道雄さんのお嬢さんです。じつはそんな連想もあって、今日の新聞にあったエッセイをご紹介したしだいです。





​英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。2/2

2018年05月20日 | 言葉について:英語から国語へ

英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。2/2

女学生試験英語入試アウトソーシング論争の問題点は、賛成派ではなく、主に反対派にあり、というのが一つ目の記事で見てきたことでした。賛成派の議論は、いろんなことを述べていても、その本音は、経費削減、時間節約に尽きます。
では、反対派はどう論駁するか。一つ目の記事の最期に整理してみた反対派の議論の主な問題点は、次の4点でした。

 

① 大学入試の英語は高校過程の学習を理解したかを試すために行われるのか。
② 大学入試が高校での学習を基準とするものなのか。
③  全国一律の高校でのカリキュラムというものの存在を、賛成派と同様、「大前提」としているのではないか、と。
④ 「同業意識」の気分からたんに反対しているだけはないか。


以上は、産経新聞の2月9日(2018年)の記事によるものです。他の論点もありますので、ご覧になるとよいでしょう。
http://www.sankei.com/premium/news/180211/prm1802110022-n1.html 3月19日最終確認

反対派の鳥飼久美子さんは英語の入試は高校過程の学習を理解したかどうかを見るものだということを前提していますが、そうでしょうか。もともとの目的は、大学での学業で英語が必要だから英語の試験が必要なのでしょう。高校までの学習の基準は文部省が定めるものでしょうが、大学というところは別です。大学は一国の学問の水準をリードするところです。その学問に必要だから英語の試験があるのです。ということは、もし必要がなかったら英語の試験をする必要もありません。もっと踏み込んで、どのような英語試験にするか、も大学での学問によります。


ちょっと歴史的に見てみましょう。明治期に、英語の入試が導入され、夏目漱石たちが問題作りに精を出したことでしょうが、当時、必要とされた英語力は、最初期は外人講師の授業が理解できること。そして、ほどなく、英語の文献が読めるようなることになりました。当時必要とされた「英語力」とは、爆弾の作り方をいかに速く、正確に読み取れるか、ということです。そこで、リーディング中心の英語入試が必要とされたわけです。その後、爆弾の作り方から、経済学や繊維、精密機械の作り方へと対象は変化しましたが、文字から情報を手に入れるという能力が中心で、英語で相手を説得するなどという能力は一部の外交官などの特殊技能とされてきました。「英語屋」と彼らは呼ばれていたのですね。今、学校の英語が役に立たないとか、文法偏重だと言われますが、百年前の日本にとっては必要な能力だったのです。問題は、百年前に必要だったことをそのまま、昨年もそうだったという理由でずっと続けてきたということでしょう。

漱石では、今どうすべきか。ここですぐにアウトソーシングに議論を移せば飛躍そのものです。大学が、どのような英語能力を求めているのか再考することが先決でしょう。百年たって変わった点、変わらない点があります。何もかも変わったわけではありません。大学というところは学問を学び、追及するところで、貿易会社ではありません。その点は変わっていないとういうことをしっかり踏まえたら、自ずと英検、TOEIC中心の問題の出し方と違う点が見えてくるでしょう。単語ひとつ取ってみても、TOEICに出されるような社内メールでやり取りされる回数が多いものではなく、普遍的な論理関係を表わす表現を重視すべきだ、と分かるでしょう。TOEICや英検の実際の問題を見ると、速く反応することは求めていても、論理的正確さに焦点を当てた問題はあまり見られません。少なくとも、高校生に論理的な英語表現を理解、作文する能力を高めるような学習へと誘導することはできません。今でも、結果を表わす接続詞のsoを満足に使えない学生が多いと明大教授だったマーク・ピーターセンが嘆いています。こんな現状ですから、アウトソーシングをして責任を回避するするどころか、大学側が、高校生や、高校側にもっと英語学習の要求を高める必要があるというのが現実ではないかと思います。


昔から、大学は国家とは距離をおいて発展してきました。政府が勝手に都合がいいように学問を捻じ曲げる恐れがあるからです。それは今までそうであったし現在も世界中のいたるところで起きています。日本のような新興国家は、そのような自立した大学の成長を待つことができないので、国家主導型でした。そのため、大学は文部省に頭が上がりません。英語入試についても、文部省の言うがままで、大学が入学者にどのような英語力を求めるか、というメッセージを送る意思が見えません。ここで上の①と②の問題点の本質が分かります。


① 大学入試の英語は高校過程の学習を理解したかを試すために行われるのか。
② 大学入試が高校での学習を基準とするものなのか。


中世大学高校過程の学習を決めるのは文部省です。ですから、反対派の議論の論拠としているのは国の権威に頼っているということになり、英語をどう学ぶか、英語で何を学ぶべきかという視点がありません。そこで、「社会の必要」を持ち出す賛成派に対し立場が弱くなってしまいます。ほんとうは、大学入試の基準は高校を基準にするのではなく、大学で必要だからこういう能力を身につけて入学してい欲しいと、大学が自らがが基準を設けるべきです。そうすることによって、文部省が高校の学習をどう規定するかということと関係なく、大学への進学を希望する高校生は大学が示す基準を目指すことでしょう。たとえば、一定の長さの英文を示して、一定の時間に正確に要約できるように、というようなモデルを提示すればよいのです。では、今問題になっている会話、聴き取りの能力はどうでしょう。ここは説明が難しいのですが、以前よりは重視するものの、英語の読み取りの力が第一で、それに次ぐ能力という位置づけがあってもよいと思います。今も昔も、大学は学問をするところだからです。会話力は入学してから必要に応じ学習してもよいのです。

ここまでで、大学の主体性のなさという、ひょっとしたら英語だけはなく、日本の大学の根本的弱さにつながるかもしれない問題が浮き彫りになってきました。その問題をどうするか、という具体論はに二次的な問題なので、ここで論じるのはやめておきましょう。


また、上で述べた残りの二点、
③ 全国一律の高校でのカリキュラムというものの存在を、賛成派と同様、「大前提」としているのではないか、と。
④ 「同業意識」の気分からたんに反対しているだけはないか


も、飛ばして、今まで触れてこなかった点に触れておきます。大学入試を経験した人なら、じつは、たいていの人が分かっていることですが、大学入試の英語問題では英語能力が問われているわけではない!、ということです。世間で難しいという言われる試験に合格した人なら、はは~んと頷くことでしょう。つまり、国語能力です。ちょっと考えてください。日本語に訳しても分からないことが英語で書かれていたら分かるわけがないでしょう。「英語が不得意」な人は、自分の点が低い理由が英語力だと思いがちですが、案外、高校生活を通して、関心をもって新聞や本を読んで来なかったのが原因かもしれません。残念ながら、じつを言うと、国語力を問うという傾向もだんだん弱まっているように思えます。日本語に訳すと小学生でも分かるような内容の英文が、ひたすら字数だけ多く出題されることが多くなっていると思うのです。英語の先生が、「この英文は内容が難しいから真の英語力は問えない」などと言っているのではないかと邪推したくなるのですが、どうでしょう。伝統的な、と、あえて言いますが、英語の入試問題では、「言語は伝えるためにあるのか」(哲学)「温暖化への対策は何がよいか」(自然科学)、「外国人労働者導入は是か非か」(社会)、「おとり捜査は是か非か」(法律)など、こうした内容の議論を正確に理解、考える力が、実質的に問われて来たのです。もちろん一定レベルの語学力は必要ですが、ある程度入試が難しい大学に受かる人は語彙などの語学力では差がつきません。合否を決めるのはこうした問題を理解できるかどうかだと思います。それをあえて「国語力」と言いました。英語の先生のなかには、こうした問題を考えたくもないという人も多いのかもしれません。しかし、案外、以前からの入試問題には、こうした「硬派」の内容のものが多くて、英語の問題を通して知的関心を掻き立てられたという人も多いのではないかと思います。こういう問題は、減らすどころか、高校生にどしどし押し付けたらいいのです。彼らはきっと食いついてくるでしょう。


フランス人さて、この長いエッセイも終わりに近づきました。反対論の問題点を主に指摘しながら、大学の主体性のなさ、英語力と国語力のつながりなどを見てきましたが、最期に、すぐ上に述べたことを、このエッセイの題とは逆方向に、アウトソーシング導入賛成派に欠けているある重要な点につなげたいと思います。それは何か。それは、導入論では言語が<何かを>伝える道具だ、という視点が欠けているということです。人はなぜ語学を学習するのか。それは語学自体を目的としているからではありません。「言語外」の何かを理解したい、伝えたいからです。たしかに最初の頃は言語自体へのあこがれというものがあります。私はフランス語が大学での中心となる言語でしたが、ほとんどのフランス語学習者は「お」フランスにあこがれているだけで、フランス語で何かを理解する、ましてや、伝えるという段階にまで達していません。

英語学習者はこのような状態から速く脱するきっかけが与えられます。上のパラグラフで、典型的な大学入試リーディングのテーマを哲学、科学、社会、法律にわたってあげましたが、こういう問題を考えたい、知りたいからこそ人は英語を学習するのでしょう。さらに進んで、こうした問題についての自分の意見を外国人に伝えたい、間違ってはいけない、と思うので、書いたり、話したりする訓練をする意欲がわくわけです。若い人をそのように導く意図が、いままでの大学入試の問題にもかろうじて見られました。ところが、ちょっとでも英検やTOEICのリーディングの問題を見れば分かることですが、そのような若者の知的関心を掻き立てるような文章はまず登場しません。少なくとも、二度読みたくなる文章はありません。ただただ速く、表面的な論理の間違いをしないことだけが問われます(審議会の先生方は問題を解いていらっしゃるのでしょうね)(註)。これらの試験問題は言語の試験というよりクイズに近くなることもあります。鳥飼さんは、アウトソーシングされた問題では、生徒は技術に走るようになると述べていますが、一回目に述べたように、じっさいにこのことは起きています。このような英語に接するのは苦痛以外のなにものでもありません。電車のなかでTOEICの問題集に取り組んでいる方を見るとその苦労が偲ばれます。試験が終わったら英語学習に関心を失うというのも当然でしょう。

さらに悪いことに、がんらい手段である資格試験が自己目的化すると、人々は点数を上げて人より上に立ちたい(給料を上げてほしい、というのもあります)という動機で英語の学習をするようになります。日本語であれ、英語であれ、自分と異なる考えを持った他者を理解、する、させる道具であるというのが言語の本質であることを忘れ、「人より上に」という欲求の方がだんだん優勢になってきます。この欲求は自分しか見ていないので、コミュニケーションの拒否と言うこともできるのではないでしょうか!。つまり言語の本質の否定です。私が「英会話」を学習し始めたころ、「君は英検1級を取っていないのだから英会話はまかりならぬゾ」というジョークを飛ばす米国人がいました。権力に絡む心理は外国人にも理解しやすいものです。

青春は短い。英語試験のアウトソーシングで余計な技術的な勉強時間を増やすことより、大学が、英語入試を通して、他の教科とも相乗効果を生むような、知的関心を高める学習をリードしなければならないのではないでしょうか。元来は。

註:TOEFLは、あまり知られていませんが、試験の自己目的化を極力避けるように工夫し、コミュニケーションの能力を問うテストになるような試みがいろいろなされています。
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英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。1/2

2018年05月08日 | 言葉について:英語から国語へ

 

英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。1/2

英語入試

少々長いエッセイですが、英語入試のアウトソーシングの本質について考えるよすがにしていただけたら幸いです。

英語入試の外注について2月の新聞に対論の記事がありました。そのあと静観していましたが、その後もこの問題が注意の的になっています。東大は外注をしないと最初言っていましたが、そのあと外注をすることに決めたという記事がありました。その後、未定だという報道もあります。
「理想論はいづれ実際の必要に負けるものだ」という見方通りの結果になってしまうかもしれませんが、外国語教育や入試のありかた、大学の意味を問う大きな問題なので、結果がどうなるかとは別に論じておくのも無駄ではないでしょう。

試験と言えば、まず、次の三つの問いが頭に浮かびます。入学試験は何のために行うのでしょう。

● 定員が限られているから仕方なしに行うのか。

● 優秀な生徒を選抜するためなのか。

● または、入学前の生徒に学習を促すためなのか。

これらのことが十分考えられて大学の入学試験が行われているのか、はなはだ疑問です。考えなくても毎年生徒が大勢受験してくれるのでとくに問題なく毎年過ぎていくのです。
ところが、今回のように、入試問題を外注に出すということになると、どうしても、こういう問題が好ましい、好ましくないの議論が始まります、いや、今回の英語の試験の件に関しては、アウトソーシングの是非自体を問う議論が始まります。ここに至って、初めて試験は何のために、ということを考えざるを得なくなるではないでしょうか。

積極的に外注を進める側の言い分は分かるのですが、外注反対派の論者は、なぜ外注はだめなのか、十分考えた上で反対しているのか疑問を覚えます。「入試を外注に出すとは何ごとか」と怒るの英語教師が多いようですが、なぜ怒っているかよく考えていないように思います。なんとなくの「同業意識」からそう言っているのではないでしょうか。
よく「英語力」と言う言葉が使われて、みんな分かっているようなつもりで話していますが、少し問い詰めると類型的な答えが返って来るだけです。尤も、だいたい「学力」という言葉もなんだか分からないままでものすごく頻繁に使われています。なぜ考えないで使われているかというと、点数で表わしうるものなので自明だと思い込んでいるからでしょう。それでいて一方で、「試験では問えない学力がある」などと言ってるとしたら、矛盾というものです。

2月9日(2018年)の産経新聞、ニッポンの議論欄に、民間英語試験導入について、賛成派と反対派の論者の対論が掲載されています。各々の主張の要点は以下の通りです。
http://www.sankei.com/premium/news/180211/prm1802110022-n1.html 3月19日最終確認

賛成派:
① 大学入試の英語は役に立たない。
② 社会の役に立つ英語を民間の試験によって導入すべきだ。

反対派:
① 大学入試の英語は高校の学習をどれだけ理解したかを見るもので、英語能力一般を試す民間試験は適さない。
② 民間試験導入により試験のための勉強が優先され、本来の学業がゆがむ。

英語辞書この他にもいくつか論点がありますが、主要な点は以上のとおりです。しかし、大学入試の英語は役に立たないのでしょうか。では「社会の役に立つ英語」とは何なのでしょうか。民間の英語試験の内容がほんとうに役に立つと言えるかどうか、調べてから言っているのでしょうか。一見、議論をするように見えて、じつは大学と大学教員の負担軽減という強力なドライブのもとで押し切ろうとしているだけではないか、と疑ってみることができるでしょう。一方、反対派の方ですが、大学入試の英語は高校過程の学習を理解したかを試すために行われる、というのはほんとうでしょうか。冒頭に触れた「同業意識」を正当化しているだけはないか。
両者とも、世間の通念を疑うことなく前提しているという点で同じ弊に陥っているように思えます。賛成派は、象牙の塔の「役に立たない英語」 VERSUS「社会が必要とする役に立つ英語」という、なんとなく世間で受け入れられる二項対立を疑うことなく主張しているだけではないか。一方、反対派の方も、大学受験が高校での学習を基準とするものだと言う考えを疑うことなく受け入れて言っているだけではないか。また、全国一律の高校でのカリキュラムを大前提にしていないでしょうか。

アウトソーシング賛成派の議論には大きな問題点があります。紙上の賛成派の論者は「当初は混乱するかもしれないが、英語は一つ。( ------ ) 実社会に対応したテストに収束されるだろう」と述べていますが、反対派の危惧には一切反論していないのです。その危惧とは、民間試験のスコアアップが自己目的化してしまいうということです。反対論を述べる鳥飼久美子氏は、「解答能力を高めるための英語教育となり、高校英語教育は崩壊する」と述べます。「解答能力」とは、スコアを上げるためのテクニックで、英語力とは関係ない能力のことです。こうした現象とは、鳥飼さんが指摘する通り、たんに「理論的」な予想というだけはなく、大学レベルでじっさいに起き、問題となっているという事実に基づいていることに目をつぶるわけにはいきません。一般的に言って、「社会学者」でなくても、世間での経験をある程度積んだ人なら、だれでも手段の目的化が問題を引き起こすことは知っているはずです。賛成論者は、上の意見に続けて、「試験の外注は教育の問題ではない、技術論と本質論を分けるべきだ」と述べていますが、文脈的にどうつながるのか(産経新聞のサイトを参照)。どうも、決まってしまえば勝ち、という意識で強弁しているという印象を受けました。
しかし、いかにこの新聞上の主張が脈絡がなくても、事実、英語試験外注化が決まりそうなので、賛成派の勢いはとても優勢なのです。それに対し反対派は十分強力な反論をしているでしょうか。嘆いて見せ、内輪で盛り上がるるだけという、理想派にありがちな陥穽に陥っていないでしょうか。


ここで、先ほどの反対派の議論に私が疑問を覚えた点を、上の箇条書き以外の点も含めてもう一度取り上げましょう。

① 大学入試の英語は高校過程の学習を理解したかを試すために行われるのか。
② 大学入試が高校での学習を基準とするものなのか。
③  全国一律の高校でのカリキュラムというものの存在を、賛成派と同様、「大前提」としているのではないか、と。
④  「同業意識」の気分からたんに反対しているだけはないか。

以上の4点をつづきのコラムで考えてます。


日本人にとって外国語は存在しない...?

2017年08月15日 | 言葉について:英語から国語へ

日本人にとって外国語は存在しない...?

 『日本人の英語』(岩波新書)で有名なピーターセンさんが著した『日本人の英語はなぜ間違うのか?』(2014)は、日本人の英語コンプレックスを書名で刺激し売る類書とは違って、内容のある本です。

日本人の英語はなぜ間違うのか第五章は「仮定法の基本を理解する」と題して、大学生の和文英訳、英作文で仮定法が無視される例が縷々挙げられます。なぜかくも仮定法、つまり、現実性がない、乏しい、またはぼかしたいときに英語では過去形を用いるということをおざなりにするのか、著者は疑問に思い、中学、高校の教科書を調べてみました。すると、以下のような文が見つかりました。

ストリート・チルドレンの女の子が「私が金持ちだったら、ストリート・チルドレンのみんなに食べ物と衣服と愛を与えてあげる」という場面です。

If I'm rich, I'll give all the street children food, cothes, and love.(p.80)

この文の意味を、ピーターセンさんは苦労して日本語にしてみました。以下のとおりです。

- 「私が(金持ちであろうかどうかわからない[=金持ちである可能性もある]が)もし金持ちであれば、ストリート・チルドレンにみんなに食べ物と衣服と愛を与えてあげる」

この女の子も路上生活者なので、このような発言をするはずがありません。ピーターセンさんによると、「読み手をびっくりさせていしまう内容になりかねない」ということになります。以下のように書かないと上記の内容を表すことはできません。

- If I were rich, I'd (=I would) give all the street children food, cothes, and love.

教科書におけるこのような例をいくつも挙げながら、著者は以下のような結論に至ります。

- こういう例を書こうとしたのがそもそも無理な話だったのです。教科書を作るときに、最初からそんな文を入れないように考慮するのは当然なのではないでしょうか。

さらに、

- 重要性の度合いから判断すれば、仮定法は遅くても中学2年までに紹介されるべきだと私は考えます。

ピーターセンピーターセンさんは、教科書、カリキュラムへと議論を導いています。そうであるとすれば、ピーターセンさんの次の課題は中等教育の教科書の作成、カリキュラムの再編成へと展開するのが望ましいのですが、じっさいは、どうなっているのでしょう。

さて、ここでは、ピーターセンさんが直接触れていない、もっと深刻な問題が示唆されている点に触れないわけにはいきません。

外国語で書かれた、あるいは言われた表現を日本人の都合で勝手に変えていいのでしょうか、という問いです。

「それはダメ!」と言下に言えることです。ご賛同くださいますか。よそさまの使っている言語をこちらの都合で勝手に変えることなど、できるはずがありません。もしそんなことが許されたら、内容がいくらでも変わってしまう道を開いてしまうことになります。そうならないためには、「教科書を作るときに、最初からそんな文を入れないように考慮する」しかありません。どうも、江戸時代の漢文の書き下し文の影響が現代にも及んでいるのではないかと考えてしまいます(書き下し文の歴史的意義には肯定的側面がありますが)。

このことは、事実を捩じ曲げるという非学問的態度を容認するというだけではなく、日本語以外の言語を用いている人の存在を否定してもよい、というメッセージを生徒に伝えることになります。ほんとうなら、その逆に、外国語が日本語といかに違っているかということに気づかせ、その上で、それでも通じるということの驚きと喜びに導いて行くべきではないかと私は思うのですが…。ところが、多くの現行の教科書(ピーターセンさんは註で名前を挙げています)で、このようなことが行われていることから類推すると、この記事のタイトルどおり、日本人にとって外国語は存在しない、という極論に導かれるわけです。さらに言えば、日本人にとって他者は存在しない、ということにも…。



 




<旧>プレキソ英語、優れた英語番組をネット上で見る方法 続き

2016年09月16日 | 言葉について:英語から国語へ

<旧>プレキソ英語、優れた英語番組をネット上で見る方法の続き

旧プレキソ英語が見られなくなってからも、私のサイトを頼りに、NHKのサイトから見つけ出して見ている方が多いようです。

プレキソタイトルところが、「プレキソプレネット」という目次の役割をするページが削除されてしまい、前より見つけにくくなりました。そこで、再度、<旧>プレキソを見る方法をご紹介します。下をご覧ください。

最近、再び、旧プレキソのテキストに書かれている監修者のエッセイを読んで、見識のある方だと再認識しました。言語は、言語ではない「何か」を目指すものなのだから、Let's enjoy Englishという言い方には疑問を感じるという意見をお持ちの方です。

閑話休題。今月、ある大新聞の夕刊に英語学習に関するコラムが連載されています。毎年秋に連載されていて、今年は4年目。しかし、取材する記者も、取材を受ける放送局の人も、「英語コンプレックス」を語ってばかりいて、英語については論じていないように思います。コンプレックスというのは自分だけの問題であって、視線は内側しか向いていません。ところが言語は外へ向かうものです。それだけに、この連載には疑問を覚えます。14日、水曜日の回は、次のようなインタビューで終わっています。

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記者:ところで、英語は楽しみながら身につくものですか。

英語番組担当者:「大変だけどやろうねと言ったら、聞き手は離れていってしまう。いかにして引き込むか、です。個人的には、血のにじむような努力をしないと見につかないと思う」

記者:やっぱりそうか。

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ここで述べられているのは、次の2点でしょう。

①英語は楽しくなくっちゃ。

②ほんとうは英語は苦行だ。

ああ...と、私は軽い絶望を覚えます。①は視聴率を上げたいと言う局の人の考え。②は、語学の学習をなにか、修行のように捉えている見方。


米ポスト外国語を学ぶと言うことは、そのどちらでもないのではないでしょうか。外国語...、いや、、国語を含めて、言語の学習というものは、伝わってなんぼ、分かってなんぼ。伝えたい、理解したいという人間の基本的欲求にもとづくものです。それにあえて、面白くするための演出など必要はありません。また、スパイのように完璧に外国語をマスターする必要のある人ならいざしらず、一定の目的のために限られた外国語を学習する、99%の人には、修行のようなものも必要ありません。①も②も、英語コンプレックスという自分の殻に閉じこもった人が、リアリティを喪失してしまった挙句に陥っている意見だと思います。

このような心理を利用して、怪しげな語学学校がますます繁栄するのでしょうか。ま、シニカルな意見はこの辺にして、ぜひ、大人も旧プレキソの面白さに触れてください。英語だけでなく、毎回のデザイン、色調も楽しいものです(残念ながら、後継番組には色彩の配慮がありません。)

(NHKの優れた番組として、『夕方クインテット』、『プレキソ』、『考えるカラス』をこのブログで紹介しました。音楽、英語、理科と、分野は異なるのですが、共通するのが美術的な卓越です。何故でしょうか... ?。)

まず、以前紹介した方法をコピーいたします。

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昔のプレキソをみる方法:


♪動画の検索方法
 ①下記リンクにアクセスしてください。
  http://www.nhk.or.jp/school/
 ②右上の検索ワード入力欄 『 キーワードを入れてね 』の欄に、見たいエピソードのタイトル(e.g.What color is this? など)を入力して検索してください。
  エピソードのタイトルはこちらで確認できます。
  http://www.nhk.or.jp/prekiso/movie/index.html

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「見たいエピソードのタイトル(i.e.What color is this? )」が、上の②のURL、つまり、目次の役割をしていた「プレキソ・プラネット」のページがなくなったため、見つけることが困難になりました。

しかし、NHKの別のページに、エピソードのタイトル一覧が見つかりました。ここから、コピー&ペイストを行ってみてください。

http://www.nhk.or.jp/gogaku/2012/english/prekiso/schedule.html

このページも消される恐れなしとはしませんので、下に、旧プレキソ(2011年)の年間のエピソード名をコピーしおきましょう。各Epsodeの英語タイトルを、上の示した『キーワードを入れてね』にコピーしてください。

☆今このページのブログを確かめたら、下の表のなかの日本語の部分が右の隅で切れていました。しかし、見る際、英語のEpisode名を入れればよいので、体裁は悪いのですが、そのままにしておきました。

 

Colorful World 色っていろいろ
Episode 1 : What color is this? これは何色?
Episode 2 : How do you make purple? むらさきはどう作る?
Episode 3 : What color do you see? 何色が見える?
Episode 4 : What color is spring for you? 春は何色?
5月 The Shape of Things 形を探せ
Episode 5 : What shape is this? ピラミッドはどんな形?
Episode 6 : What shape are you making? どんな形を作っているの?
Episode 7 : What shape do you see? 何の形が見える?
Episode 8 : How do you make it? これ、どうやって作る?
6月 Let's Count! 数えてなんぼ
Episode 9 : How many stars are there? 星いくつ?
Episode 10 : What's this number? この数、何?
Episode 11 : Can you say this number? この数字読める?
Episode 12 : How big is a blue whale? シロナガスクジラの大きさは?
7月 場所と移動 Let's Go! 出かけようぜ!
Episode 13: How do you get to Paris? パリに行こう
Episode 14: What's this mark? この記号は何?
Episode 15: Which way is north? 北はどっち?
Episode 16: Do you have a passport? パスポート持ってる?
8月 時と時間 Time Flies 時はめぐる
Episode 17 : What time is it? いま何時? 
Episode 18 : What will the weather be on Monday? 月曜の天気は?
Episode 19 : When can you see this flower? この花の季節は?
Episode 20 : How many years have passed? あれから何年?
9月 生き物 Life Is a Wonder いきものバンザイ
Episode 21 : What part is this? どの部分?
Episode 22 : Where is the head? どこが頭?
Episode 23 : Where do you live? どこに住んでいる?
Episode 24 : What is your lucky animal? あなたのラッキー・アニマルは?
10月 文字と音 Letters and Sounds 文字は語る
Episode 25 : Can you find the ABCs? アルファベットを探せ
Episode 26 : Let's make words! ことばを作ろう!
Episode 27 : What does this say? これ何て読む?
Episode 28 : What do you call this? 英語の呼び名は?
11月 比較 Let's Compare! 比べてみれば
Episode 29 : Which is longer? どっちが長い?
Episode 30 : Which is heavier? どっちが重い?
Episode 31 : Which is faster? 速いのはどっち?
Episode 32 : Show me your funniest face! 一番おもしろい顔を見せて!
12月 Are You Hungry? おなかへった?
Episode 33 : What food is this? どこの料理?
Episode 34 : How do you use this? どうやって使う?
Episode 35 : How do you eat it? どうやって食べるの?
Episode 36 : Let's cook! 料理しよう!
1月 歴史 Discover History! 歴史、発見!
Episode 37 : When was it? それっていつのこと?
Episode 38 : Who is this? この人はだれ?
Episode 39 : How old is it? どのくらい古いの?
Episode 40 : When did you first meet? 初めて出会ったのはいつ?
2月 動作と感覚 Move it! Feel it! 動いて感じよう
Episode 41 : Can it fly? 飛べるのはどれ?
Episode 42 : What are you doing? 何やってるの?
Episode 43 : How do you feel? どんな感じ?
Episode 44 : When do you feel happy? 幸せなのはどんなとき?
3月 未来 To the Future! 未来にかんぱい!
Episode 45 : What is your plan? 何をするの?
Episode 46 : How will the world be? 未来が見える?
Episode 47 : What is your dream? あなたの夢は何?
Episode 48 : It's a wonderful world! すばらしき世界