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外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 5/5

2018年11月14日 | 言葉について:英語から国語へ

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 5/5

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文明論 英語2福沢諭吉著『文明論の概略』(1875)の第一冊、第一章の「議論の本位を定る事」を分解しながら5/5までまいりました。古い本なので軽く見たり、はんたいに、字が難しいので敬遠する人も多そうです。また、一方で、「今にも通じる」というような言い方で福沢を持ち上げる人もいるようですが、今にも通じる、のではなく、今のいろいろな考え方は、福沢に基づいています。または、福沢を誤読、「論語読みの論語知らず」に陥ることで、尾を引きずっている問題も多いのです。そういう点にも触れたいですが、英語学習ブログの性格をあまり逸脱しないことを旨としていますので別の機会に譲ります。

しかし、英語学習についても福沢の著作はいろいろ考えさせてくれます。なにしろ、ごく最初期の英語学習者の一人なのですから。欧米語にあって日本語にない概念の翻訳の問題は、福沢のころから今までつづいています。たとえば、liberty、rightsなどの語の訳については福沢はたいへん悩んでいます。

さて、今回は、「議論の本位を定る事」のサマリーがわりに、いままでの論点、9のタイトルを再録します。しっかりと構成されているのを再度確認してください。

その前、この章の最期に、議論を紛糾させないためには「学者」はいかにあるべきかを三点述べるているのを見てみます。まず、7で、「交際」の必要を述べた部分と論理的に並列できる二点、それに、議論の内容に関わる点が一点です。

論点10: 世間で異端、妄説と言われようと、恐れず自論を述べるべき。

論点11: 自分と異なる意見の理解にも努め、自説で画一化を図ろうとしない寛容さが必要。

論点12: 議論の焦点は利害ではなく、「軽重」、言い換えると「質」である。

論点12の、三点目は、8で触れた「深く考えられた意見」から導き出されます。「深く考えられた意見」は、1から6までの論理的な点と異なり、古今東西あらゆる学説を研究し、偏見に陥らず、世間の迫害を排して、追及していかなければならない。それは、論点3において、「城を攻める方か、守る方か」の比喩でのべたような、利害目的による意見の相違に比べ、判別はとても難しい。福沢はそれを「利害」ではなく「軽重」の議論と呼びます。量の議論ではなく「質」の議論であると言えるのではないかと考えます。この議論は、しかし、いかに難しいからと言ってその追及を怠れば、「一年の便不便を論じて百歳の謀を誤る」という事態を招くと福沢は警告するのです。

さて、ようやく12の論点を概説してまいりましたが、各論点ではなく、それぞれの関係、繋がりをよく見ていただきたいと思います。

ところで、これだけの前提を踏まえた上で、福沢は、最期にほんとうに言いたかったことを述べます。議論の真の焦点は、「文明を追及するか野蛮の戻るか」に尽きるということです。いままでの12点はすべてここに読者を導く前提だったことが明かされます。「しからば、貴殿の文明論とやらを拝読してみん」と読者に思わせれば福沢さんの勝利です。例の西郷さんも読まれたそうですよ、福沢さん。(「乃公も聞いたことがあるノー」福沢さんの陰の声)

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文明論 文庫いままでのサマリーに代えて:

各区分を、A: 理論的主張 / B: 実際への適用 / C:  比喩や例示の繰り返しとして見てまいりましたが、ここに挙げるのは各区分のAです。概観したあと原文にあたってみると分かりやすいと思います。

基準について論点3点:

1.基準が必要である。

2.   一般的なものとしての基準が必要である。

3.   目的としての基準が必要である

議論を紛糾させる論点3点:

4.   一見同じ意見に見えるが、じっさいの帰結は違う場合ある。

5.   極端な例を持ち出すとして、相手をそしる場合がある。

6.   長所を見ず欠点のみに注目して、相手をそしる場合がある。

7.「交際」が実際の上記の紛糾を避け、言語活動を向上させていく手段である。

8.   浅い考えを持つ者は深く考えられた意見を毛嫌いする。

(番外) 世論とは何か?の議論

9.   世論、つまり、通常の人物の狭量な意見が智者の活動を妨害する。

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岩波文庫 p.24-24 今回も小見出しを付けました。

■学者の心得

故に昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。然(しから)ば則(すなわ)ち今日の異端妄説もまた必ず後年の通説常談なるべし。学者宜(よろ)しく世論の喧(かしま)しきを憚(はばか)らず、異端妄説の譏(そしり)を恐るゝことなく、勇を振て我思ふ所の説を象、ロバ 寛容吐くべし。あるいは又他人の説を聞て我持論に適せざることあるも、よくその意の在る所を察して、容るべきものはこれを容れ、容る可らざるものは暫くその向ふ所に任して、他日双方帰する所を一にするの時を待つべし。すなわち是れ議論の本位を同ふするの日なり。必ずしも他人の説を我範囲の内に籠絡(ろうらく)して天下の議論を画一ならしめんと欲するなかれ。

■利害の諭から価値の諭へ

 右の次第を以て事物の利害得失を論ずるには、先づその利害得失の関る所を察してその軽重是非を明にせざるべらず。利害得失を論ずるは易しと雖(いへ)ども、軽重是非を明にするは甚(はなは)だ難し。一身の利害をもって天下の事を是非すべからず、一年の便不便を論じて百歳の謀を誤るべからず。多く古今の論説を聞き、博く世界の事情を知り、虚心平気もって至善の止まる所を明にし、千百の妨碍(ぼうがい)を犯して世論に束縛せらるゝことなく、高尚の地位を占めて前代を顧み、活眼を開て後世を先見せざるべからず。

咸臨丸蓋(けだ)し議論の本位を定めてこれに達するの方法を明にし、満天下の人をして悉皆(しっかい)我所見に同じからしめんとするは、もとより余輩の企る所に非ずと雖(いへ)ども、敢て一言を掲て天下の人に問はん。今の時に当て、前に進まん歟(か)、後に退かん歟、進て文明を逐(お)はん歟、退て野蛮に返らん歟、唯進退の二字あるのみ。世人もし進まんと欲するの意あらば余輩の議論もまた見るべきものあらん。それ、これを実際に施すの方法を説くはこの書の趣旨に非ざればこれを人々の工夫に任するなり。



福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 4/5

2018年11月10日 | 言葉について:英語から国語へ

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 4/5

3/5に戻る

文明論の概略見開き前回3/5回、論点7は、論理の問題を解決するにはどうしたらいいかという対策編でした。それは「交際」という一言に収斂されます。引きこもって読書をしているだけではだめで、肝胆相照らすもよし、喧嘩するもよし、「唯人と人と相接して其心に思ふ所を言行に発露する」ことによってはじめて議論を不毛な言い合いから救うことができるというのが福沢さんの考えです。必要条件という論理上の、一般的、静的だった課題を7回めで動的に解決する姿勢が示されたのです。

今回4/5、再び、議論を低迷させる原因の話に戻ります。ここで扱うのは、必要条件、十分条件のような論理学で整理できる問題ではなく、もっとやっかいな点ですが、より本質的な問題でもあります。それゆえ福沢も最期に持ってきたのでしょう。ページ数も費やしていますが、全体を貫く論点は単純。

それは、「浅薄な意見と深く考えられた意見」です。論点1から論点6までと同様、A、B、Cに分けてみてみましょう。

A: 理論的主張、B: 実際への適用、C:  比喩や例示

論点8:

A:浅い考えを持つ者は深く考えられた意見を毛嫌いする。

B:同じ開国説を唱える人の間でも、浅い考えを持つ人は深く考えられた意見に耳をふさぎ、反駁する。

C:胃弱の人が滋養のあるものを受け付けず、病状がさらに悪化するのと同じだ。

福沢諭吉ポーズ福沢は、病状の悪化が進む前に、いかなることがあっても栄養を与えるよう「学者」は努めるべきだという考えです。

このへんになると、論点1から6までで見たように、明快な必要条件を論じるというわけにはいきません。どこまでが浅い意見でどこからが深い意見かの区別は、簡単明瞭に分かたれるものではありません。ましてや、これをもって相手を説得することも困難です。かくして、最期にこの論点を持ってきたわけでしょう。

つぎは、「浅薄な意見と深く考えられた意見」という大枠のなかで、問題をさらに深めます。言い換えると、いままで、論点1から論点6までは論点が「並列」されていましたが、ここでは、今挙げた「浅薄な意見」と「深く考えられた意見」は、具体的にはどういうものか、という問題に踏み込みます。結論は以下のとおりです。

浅い意見とは、 = 「世論」。いわゆる世間通常の人物の通常の意見。

深い意見とは、 = 「理論」。ひいては単純な利害ではなく、「軽重の議論」、いわば価値判断の議論につながる。

最期に、学者の態度はいかにあるべきかを述べますが、それは次回、5/5にまとめておきましょう。

浅い意見:

ここでは、福沢が世論の愚について字数を費やして指摘している点に注意を促したいです。卓越した意見が迫害を被るということは誰でも論じるでしょうが、たいてい、「賢人 versus 愚かもの」、または、「進歩 versus 旧牢墨守」という対立項で論じられるでしょう。福沢の場合、害をもたらすのは、愚か者でも旧弊な人でもありません。「所謂世間通常の人物」が曲者です。そういう人は天下を議論すると称して、自分の見方の枠になんでも押し込め、はみ出るものは異端として排除しようとします。それによって、智者の足が引っ張られるというのが福沢の見立てです。民主主義の世の中ではさらに重篤な病弊となった現象にすでに気が付いていたと言えませんか。

深く考えられた意見:

一方、深く考えられた意見というのは、福沢の表現では、まず、「高遠な意見」と呼ばれます。「世間通常な人間」が理解できず、反撥する対象です。たぶん、これは「理論」と呼ぶべきものでしょう。しかし、それは学問のための学問というものではなく、目先に捉われずに全体の現実を理解するために必要なものです。福沢の念頭にあったのは、ガリレオやアダム・スミスのようです。言い換えると、「長期的展望を持った意見」と言うこともできます。この章の終わり近くでは、「それは『軽重の議論』であるはずだ」と述べますが、その意味するところは、「価値の議論」と考えられます。いずれにせよ、何が高遠で何が近浅か、何が長期で、何が短期か、何か重く、何が軽いか。論理学的な尺度や基準などありません。最後の5/5で、「価値の議論」まで議論を進めます。

ここでは、まず、「世論」について、A、B、Cの3点を見ておきましょう。

論点9:

A:世論、つまり、通常の人物の狭量な意見が智者の活動を妨害する。

B:その結果、今ではだれでも受け入れていることでも、当初、疎外され進歩が遅れることがある。

C1:西洋では、アダム・スミス、ガリレオの意見が当初受け入れられなかった例がある。

C2:日本では、10年ほど前まで、今では当たり前の廃藩置県など「妄言」として受け入れられなかった。

 

 では、テキストにあたってみましょう。今回は、意味のまとまりごとに小見出しをつけました。岩波文庫p.22

■浅薄な意見と深く考えられた意見

すべて事物の議論は人々の意見を述べたるものなればもとより一様なるべからず。意見高遠なれば議論もまた高遠なり、意見近浅なれば議論もまた近浅なり。また近浅なるものは、未だ議論の本位に達すること能(あた)はずして早く既に他の説を駁(はく)せんと欲し、これがため両説の方向を異にする開国ことあり。たとへば今外国交際の利害を論ずるに、甲も開国の説なり、乙も開国の説にて、遽(にわか)にこれを見れば甲乙の説符合するに似たれども、その甲なる者漸くその論説を詳(つまびらか)にして頗(すこぶ)る高遠の場合に至るに従ひ、その説漸く乙の耳に逆ふて遂に双方の不和を生ずることあるが如き、これなり。蓋(けだ)しこの乙なる者はいわゆる世間通常の人物にして通常の世論を唱へ、その意見の及ぶ所近浅なるが故に、未だ議論の本位を明にすること能はず、遽(にわか)に高尚なる言を聞てかへってその方向を失ふものなり。世間にその例少なからず。なお、かの胃弱家が滋養物を喰ひ、これを消化すること能はずしてかへって病を増すが如し。この趣を一見すれば、あるいは高遠なる議論は世のために有害無益なるに似たれども、決して然らず。高遠の議論あらざれば後進の輩(やから)をして高遠の域に至らしむべき路なし。胃弱を恐れて滋養を廃しなば患者は遂に斃(たふ)るべきなり。この心得違よりして古今世界に悲むべき一事を生ぜり。

■「世論」とはどういうものか

牛鍋何れの国にても何れの時代にても、一世の人民を視るに、至愚なる者もはなはだ少なく至智なる者もはなはだ稀(まれ)なり。唯(ただ)世に多き者は、智愚の中間に居て世間と相移り罪もなく功もなく互に相雷同して一生を終る者なり。この輩(やから)を世間通常の人物といふ。いわゆる世論はこの輩の間に生ずる議論にて、正に当世の有様を摸出(もしゆつ)し、前代を顧(かへりみ)て退くこともなく、後世に向て先見もなく、あたかも一処に止て動かざるが如きものなり。

■世論に左右される害

然(しか)るに今世間にこの輩の多くしてその衆口の喧(かしま)しきがためにとて、その所見を以て天下の議論を画し、僅(わずか)にこの画線の上に出るものあれば則ちこれを異端妄説と称し、強ひて画線の内に引入れて天下の議論を一直線の如くならしめんとする者あるは、果して何の心ぞや。もしかくの如くならしめなば、かの智者なるものは国のために何等の用を為すべきや。後来を先見して文明の端を開かんとするには果して何人に依頼すべきや。思はざるの甚(はなはだ)しきものなり。

■世論、通説が進歩を阻害する例:西洋

ガリレオ裁判試に見よ、古来文明の進歩、その初は皆いわゆる異端妄説に起らざるものなし。「アダム・スミス」が始て経済の論を説きしときは世人皆これを妄説として駁(はく)したるに非ずや。「ガリレヲ」が地動の論を唱へしときは異端と称して罪せられたるに非ずや。異説争論年又年を重ね、世間通常の群民はあたかも智者の鞭撻(べんたつ)を受て知らず識らずその範囲に入り、今日の文明に至ては学校の童子といえども経済地動の論を怪む者なし。ただにこれを怪まざるのみならず、この議論の定則を疑ふものあればかへってこれを愚人として世間に歯(よは)ひせしめざるの勢に及べり。

■世論、通説が進歩を阻害する例:日本

廃藩置県又近く一例を挙ていへば、今を去ること僅(わずか)に十年、三百の諸侯各一政府を設け、君臣上下の分を明にして殺生与奪の権を執り、その堅固なることこれを万歳に伝ふべきが如くなりしもの、瞬間に瓦解して今の有様に変じ、今日と為りては世間にこれを怪む者なしといえども、もし十年前に当(あたり)て諸藩士の内に廃藩置県等の説を唱る者あらば、その藩中にてこれを何とかいはん。立どころにその身を危ふすること論をまたざるなり。故に昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。

5/5につづく

 


福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 3/5

2018年11月08日 | 言葉について:英語から国語へ

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 3/5

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三回目に扱う部分はたいへん短いです。それはある一つの単語をめぐってのことだからです。(岩波文庫:p.21-22)

文明論の概略和綴じ三回目の前に、諭吉さんの英語修行 付録:福沢の英文手紙(1862)をアップロードしました。「文法的間違い」などは指摘しませんでしたが、「間違い」自体が、まちがいなく英語学習開始3年後の福沢の文章、英語力だということを明かしています。以前「シリーズ・日本人の英語」で扱った伊藤博文の場合、公職についたあとの英文ということもあり、間違いは見つからないものの、添削を受けた後の、あるいは代筆しもらった後の英文に違いありません。津田梅子なども伊藤の顧問だったそうです。

さて、二回までで、福沢が論理、レトリックともに、とてもよく考えて書いていることが分かりました。各回の下には原文のコピーもあげておきました。フリガナを増やしましたのでぜひ眺めてください。現代語訳も2種類以上出ているようですが、原文に挑戦しましょう。現代の日本語には失われたリズムがあることが分かるでしょう。慶應義塾塾長だった小泉信三さんは以下のように書いておられます。

小泉信三福沢の文の一つの特徴は、そこに漂う固有の明るさである。彼の文は、前述の通り、文字を厳選してこれを吝(おし)むという流儀ではなく、滾々(こんこん)として湧き出る文字を湧き出るに任せて筆にしたかと思わしめるものであるが、斯くして列(つら)ねられた文字が構成する文章は、滔々洋々として朗誦すべく、かつ不思議に誦者を楽しからしめる一種の調子の余人を追従を許さぬものを持っていた。更に福沢の文には豊かな感情が溢れ、ユモアがあり、適切機警の観察はあるいは人の意表にでて、あるいは、人の頤(おとがい)を解(と)くものがあった。(『学問のすすめ』解題)

頤を解く:大笑いさせる

今回扱う一語、それは「交際」です。前回までに、A: 理論的主張、B: 実際への適用、C:  比喩や例示の3つを柱に、「基準の必要」、「議論を紛糾させる点」を合わせて6項目の論点について展開してきました。これらは、現代の私たちにも参考になる、議論の必要条件でしたが、あくまで抽象的な論理にとどまります。これらの実際の具体的な言語活動で向上させていくには何をしたらいいか。そのために必要なものを福沢は「交際」と呼びます。短い箇所なので、原文を見てみましょう。

論点7.「交際」が実際の上記の紛糾を避け、言語活動を向上させていく手段である。

福沢交際昔封建の時に大名の家来、江戸の藩邸に住居する者と国邑(こくいふ)に在る者と、その議論常に齟齬(そご)して同藩の家中殆(ほとん)ど讐敵(しゅうてき)の如くなりしことあり。これまた人の真面目を顕(あら)はさゞりし一例なり。是等の弊害はもとより人の智見の進むに従て自から除くべきものとは雖(いへ)ども、之を除くに最も有力なるものは人と人との交際なり。その交際は、あるいは商売にても又は学問にても、甚しきは遊芸酒宴或は公事訴訟喧嘩戦争にても、唯人と人と相接してその心に思ふ所を言行に発露するの機会となる者あれば、大に双方の人情を和はらげ、所謂(いはゆる)両眼を開て他の所長を見るを得べし。人民の会議、社友の演説、道路の便利、出版の自由等、すべて此類の事に就て識者の眼を着する由縁も、この人民の交際を助るがために殊に之を重んじるものなり。

「交際」とは、現代私たちが使う「不純異性交際」、とか「交際の範囲が広い」という使い方よりずっと広い意味で使われています。上で「その交際は、あるいは商売にても又は学問にても、甚しきは遊芸酒宴或は公事訴訟喧嘩戦争にても、唯人と人と相接してその心に思ふ所を言行に発露するの機会となる者あれば、大に双方の人情を和はらげ、所謂(いはゆる)両眼を開て他の所長を見るを得べし。」と述べているように、友好だろうと敵対であろうと、他者と直接接して自分の考えを述べることを言います。あえて言えば「引きこもり」の反対。「相接して」というところが重要ですから、現代のスマホ、ラインの類は、福沢さんに言われせれば本当の交際ではないでしょう。一方、この間の「福沢の英文手紙」には、少しぐらい間違ってもいいから交際への意思をはっきり示したい、という意図が現れていると思いませんか。

ここで一言しておきたいのは、福沢が新しい語、とりわけ翻訳語を作り出すとき、その語の定義にはとても用心深いということです。上に述べたように具体例の提示も怠りません。演説、討論、競争など多く私たちが使う語は福沢の発明によるものが多いのですが、liberty、rightsなど現代社会の土台を支える語の訳にはことのほか腐心しています。『翻訳語成立事情』の著者、柳父章は、「福沢の、思想の道具としてのことばに対する感覚の鋭さは群を抜いていた」(岩波新書p.154)と述べています。近いうちに別のブログで扱いたいと思います。

この「交際」という語は、soicityの訳語を見出す過程で生まれました。福沢ものちに社会という語を使い始めますが、西欧的な概念である社会に対応する考え方は日本になく翻訳には苦労したようです。江戸末期の日本において存在する概念は藩であり、国にとどまりました。以下にsocietyの出てくる英文を福沢がどう日本語に移したかを見てみましょう。

Society is, therefore, entitled by all means consistent with humanity to discourage, and even to punish the idle.

故に人間交際の道を全(まっとう)せんには、懶惰を制して之を止(とど)めざるべからず。あるいはこれを罰するもまた仁の術と云うべし。(『西洋事情外編』)

threforeそれゆえ、(be) entitled to~する資格がある、means手段、(be) cnsisitent with~と矛盾しない  discourageやる気をなくさせる、punish罰する、 the idle怠け者

福沢夫妻「それゆえ、社会というものは、人間性と矛盾しないあらゆる手段を用いて、怠惰な人に注意を促し、罰することさえ許されるのである」というぐらいが、現代の人の訳でしょうが、名詞としての「社会」が日本語にないので、品詞の対応を捨て、状態を表す表現を動作の表現に変えて、文全体で主旨を伝えようとしています。ここでは、societyのもつ、「つきあい」というもう一つの意味の語感が福沢の念頭にあったと思います。

今回、「交際」という福沢がよく使うキーワードとでも呼ぶべき単語に拘泥して、少し話をずらしてみました。次回、論理とレトリックに戻ります。前回までは、「必要条件」について論じていましたが、論理の問題とはいえ、よのなか、十分条件でも必要条件でもないけれど、注意しなければならない点がたくさんあります。前回までのように明快というわけにはいきません。そこで福沢も最期にこれを持ってきたのでしょう。

4/5へつづく





 

 

 

 

 

 


福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 2/5

2018年10月10日 | 言葉について:英語から国語へ

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 2/5

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- 議論を紛糾させる三点について

文明論の概略2『文明論の概略』の文章はいかがでしたか。ある一流大卒の中年の方が「どうも漢字がね」とおっしゃっていましたので、少しかっこの仮名を増やしておきます。たとえば鰌(どじょう)はほとんどの方が読めません。しかし、三つの論点のリズムをあらかじめ予想して読めばそんなに難しいものではないと思います。ゆっくりと、話すスピードで読めばリズムの心地よさに乗って読み進めることができます。書き言葉が音声言語から乖離した現代の日本語では味わえない趣があります。

さて、その三点とは以下の通りでした。

A: 理論的主張

B: 実際への適用 

C:  比喩や例示

Cは、「たしかに~は正論だが、----」、「~でなければ----でない」というレトリックを多く用います。

前回では、「基準が必要」だということを三点について論じました。

論点1.A: 基準が必要である。

論点2.   A: 一般的なものとしての基準が必要である。

論点3.   A:目的としての基準が必要である

今回、続く個所では、議論を紛糾させる三点に注意を促します。

論点4.   A:一見同じ意見に見えるが、じっさいの帰結は違う場合ある。

論点5.   A:極端な例を持ち出すとして、相手をそしる場合がある。

論点6.   A:長所を見ず欠点にみに注目して、相手をそしる場合がある。

福沢 ペテルスブルグでは、前回と同じように、A、B、Cがどういう具合で出てくるか見てみましょう。今回の三項目では、Bの実際例、Cのたとえにおいても、おもしろいレトリックを繰り広げます。その点も詳しく分解してみます。少し長くなります。

論点4. 

A:一見同じ意見に見えるが、じっさいの帰結は違う場合ある。

B : 頑固者も学のある者も外国人嫌いという点では同じ意見に見えるが、その理由を尋ねれば、頑固者は単に異質なものを嫌悪するのに対し、学のある者は、利害、不公平など少し広い立場で判断している。

B:開国派も攘夷派も、表面的な結論は同じことを言うが、根本的な発想が違う。

C:宴会、行楽などでも仲良く楽しんでいるように見えるが、好みが異なっていることが多い。

A:人の表面的な挙動でその人の考えを即断してはいけない。

論点5.

A:極端な例を持ち出すとして、相手をそしる場合がある。

B: 伝統派は、同権主義者を我が国体を破壊し国難を招くとそしり、同権がどういうものかを考えもしない。一方、同権主義者は伝統派を不倶戴天の敵とみなす。

C:仮に酒飲みと甘党の議論があったとする。双方とも、相手はこちらの側の極端な害を持ち出して攻撃していると憤慨する。

甘党の意見:酒飲みは、正月にはお茶漬けを食べ、餅屋を廃業し、もち米作りを禁止せよ、などと勝手なことを言う。

酒飲みの意見:甘党は、酒屋を壊し、酔っ払いを厳罰に処し、薬用アルコールの代わりに甘酒を使い、婚礼には水盃を使えなどと勝手なことを言う。

B:古今東西、極端な議論が不和を生じ、大きな害を生じた例は多い。インテリがそれを行う場合はアジテーションになり、無学な者がそれを行う場合、暴力、暗殺につながる。

論点6.

A:長所を見ず欠点にみに注目して、相手をそしる場合がある。

C:田舎ものと都会の市民は互いの弊害のみ見て、美徳は見ない。

それぞれ弊害、美徳がある:

田舎ものの弊害:頑固、無学   田舎ものの美徳:正直

都会市民の弊害:軽薄   都会市民の美徳:頭の回転が速い

しかし...、

田舎ものいわく:市民は軽薄だ!。

都会市民いわく:田舎ものは頑固だ!。

A:相手の長所と短所を両眼で見れば争いも消え、自分の欠点を直すことで、お互いの利益となろう。

B1:現在、言論界は改革派と伝統派に分かれている。改革派は進取の気性があるが軽率に流れる欠点があり、伝統派は地道だが頑迷に陥る欠点があるが、必ずしも、地道が頑迷を伴うわけでもないし、進取の気性が軽率に流れるわけでもない。

C:酒飲みは必ずしも酩酊するわけでなく、餅好きが必ずしも腹をこわすわけではない。酒は酩酊の十分条件ではなく、餅が腹痛の十分条件ではない。要は節制するか否かである。

B2: 改革派も伝統派もB1で述べた短所をあげつらうと敵意が増すばかりだが、長所を認め合えば双方の本質が見えて来て親しみも湧くであろう。

● 7に移る前に。

さて、議論の基準と注意点を2回にわたって分解しつつ、ここまできましたが、よりよい議論をするためには具体的に何をしたらいいか。これを7で論じます。次回は少し短くなります。

では、4、5、6の三点に該当する部分を原文でみてみましょう。

岩波文庫:p.17-p.21

又議論の本位を異にする者を見るに、説の末は相同じきに似たれども中途より互に枝別してその帰する所を異にすることあり。故に事物の利害を説くに、その、これを利としこれを害とする所を見れば両説相同じと雖(いえ)ども、これを利としこれを害とする所以(ゆえん)の理を述るに至れば、其説、中途よ生麦事件り相分れて帰する所同じからず。たとえば頑固なる士民は外国人を悪(にく)むをもって常とせり。又学者流の人にても少しく見識ある者は外人の挙動を見て決して心酔するに非ず、これを悦ばざるの心は彼の頑民(がんみん)に異なることなしと云ふも可なり。この一段までは両説相投ずるが如くなれども、その、これを悦ばざるの理を述るに至て始て齟齬(そご)を生じ、甲は唯(ただ)外国の人を異類のものと認め、事柄の利害得失に拘はらずしてひたすらこれを悪むのみ。乙は少しく所見を遠大にして、唯これを悪み嫌ふには非ざれども、その交際上より生ずべき弊害を思慮し、文明と称する外人にても我に対して不公平なる処置あるを忿(いか)るなり。双方共に之を悪(にく)むの心は同じと雖ペリー来航(いえ)ども、之を悪むの源因を異にするが故に、之に接するの法もまた一様なるを得ず。即(すなわち)これ攘夷家と開国家と、説の末を同ふすれども中途より相分れてその本を異にする所なり。すべて人間万事遊嬉宴楽のことに至るまでも、人々その事を共にしてその好尚を別にするもの多し。一時その人の挙動を皮相して遽(にわか)にその心事を判断するべからざるなり。


 また、あるいは事物の利害を論ずるに、その極度と極度とを持出して議論の始より相分れ、双方互に近づくべからざることあり。その一例を挙て云はん。今、人民同権の新説を述る者あれば、古風家の人はこれを聞て忽(たちま)ち合衆政治の論と視做(みな)し、今我日本にて合衆政治の論を主張せば我国体を如何せんと云ひ、遂には不測の禍(わざわい)あらんと云ひ、その心配の模様はあたかも今に無君無政の大乱に陥らんとてこれを恐怖するものゝ如く、議論の始より未来の未来を想像して、未だ同権の何物たるを糺(ただ)さず、その趣旨の在る所を問はず、ひたすらこれを拒むのみ。又彼の新説家も始より古風家を敵の如く思ひ、無理を犯して旧説を排せんとし、遂に敵対の勢を為(な)して議論の相合ふことなし。畢竟(ひっきょう)双方より極度と極度とを持出だすゆゑこの不都合を生ずるな酔っ払いり。手近くこれをととへて云はん。爰(ここ)に酒客と下戸と二人ありて、酒客は餅を嫌ひ下戸は酒を嫌ひ、等しくその害を述てその用を止めんと云ふことあらん。然(しか)るに下戸は酒客の説を排して云く、餅を有害のものと云はゞ我国数百年来の習例を廃して正月の元旦に茶漬を喰ひ、餅屋の家業を止めて国中に餅米を作ることを禁ず可きや、行はるべからざるなりと。酒客は又下戸を駁(はく)して云く、酒を有害のものとせば明日より天下の酒屋を毀(こぼ)ち、酩酊する者は厳刑に処し、薬品の酒精には甘酒を代用と為し、婚礼の儀式には水盃を為す可きや、行はる可らざるなりと。かくの如く異説の両極相接するときはその勢必ず牡丹餅相衝(つき)て相近づくべからず、遂に人間の不和を生じて世の大害を為すことあり。天下古今にその例少なからず。この不和なるもの学者君子の間に行はるゝときは、舌と筆とを以て戦ひ、あるいは説を吐きあるいは書を著し、いわゆる空論をもって人心を動かすことあり。唯無学文盲なる者は舌と筆とを用ること能(あた)はずして筋骨の力に依頼し、動(やや)もすれば暗殺等を企ること多し。

city slickers 又世の議論を相駁するものを見るに、互に一方の釁(きん)を撃て双方の真面目を顕(あらわ)し得ざることあり。其釁とは事物の一利一得に伴ふ所の弊害を云ふなり。たとえば田舎の百姓は正直なれども頑愚なり、都会の市民は怜悧なれども軽薄なり。正直と怜悧とは人の美徳なれども、頑愚と軽薄とは常に之に伴ふ可き弊害なり。百姓と市民との議論を聞くに、その争端この処に在るもの多し。百姓は市民を目して軽薄児と称し、市民は百姓を罵(ののしり)て頑陋(がんろう)物と云ひ、その状情あたかも双方の匹敵各片眼を閉じ、他の美を見ずしてその醜のみを窺(うかが)ふものゝ如し。若しこの輩(やから)をしてその両眼を開かしめ、片眼以て他の所長を察し片眼以てその所短を掩(おお)ひ、その争論止むのみ

上京ならず、遂には相友視して互に益を得ることもあるべし。世の学者もまたかくの如し。たとへば方今日本にて議論家の種類を分てば古風家と改革家と二流あるのみ。改革家は穎敏(えいびん)にして進て取るものなり、古風家は実着にして退て守るものなり。退て守る者は頑陋に陥るの弊(へい)あり、進て取る者は軽率に流るゝの患あり。然りと雖(いえ)ども、実着は必ずしも頑陋に伴はざるべからざるの理(ことわり)なし、穎敏は必ずしも軽薄に流れざるべからざるの理なし。試に見よ、世間の人、酒を飲て酔はざる者あり、餅を喰ふて食傷せざる者あり。酒と餅とは必ずしも酩酊と食傷との原因に非ず、その然(しか)ると然らざるとは唯これを節する如何に在るのみ。然(しから)ば則(すなわ)ち古風家も必ず改革家を悪むべからず、改革家も必ず古風家を侮るべからず。ここに四の物あり、甲は実着、乙は頑陋、丙は穎敏、丁は軽率なり。甲と丁と当り乙と丙と接すれば、必ず相敵して互に軽侮せざるを得ずと雖ども、甲と丙と逢ふときは必ず相投じて相親まざるを得ず。既に相親むの情を発すれば初て双方の真面目を顕(あら)はし、次第に其敵意を鎔解するを得べし。

3/5につづく

 

 

 



福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 1/5

2018年10月04日 | 言葉について:英語から国語へ

福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 1/5

解説+原文の一部のセットと言う形をとります。

考えられる形としては、現代語訳や、註を付ける、というやり方がありますが、「解説+原文」という形での本はないのではないでしょうか。原文は文語とはいえ、普通の日本人にも十分分かると思います。

文明論の概略英訳福沢諭吉さんの英語修行について「日本人の英語シリーズ」で扱うつもりでしたが、その前に、『文明論之概略』の第一章、「議論の本位を定る事」の論理とレトリックを分解することにしました。文庫本で10ページほどですが、数回に分けます。下に福沢のテキストも少しづつ挙げますので、福沢の論理展開をゆっくり読む手助けとしてください。古い日本語が不得意という方もぜひ原文に触れてもらいたいと思います。イラストもたくさん入れました。

とても古い書であるので、たいしたことあるまいとたたをくくっている人が多いと思いますが、現在の評論家でもこれだけ、論理的で説得力のある議論を進める人はあまりいないのではないでしょうか。加えてもう一つ、現在の文章にはない大きな特徴があります。それは、音読に耐えるということです。漢語が多いので決して口語ではないのですが、文にリズムがあり、読者の頭だけではなく、耳にも訴えるのです。文明論の概略

第一章の「議論の本位を定る事」では、議論とはこのようにするのだという原則を述べます。

各論点を次の3つの要素で組み立て、それを繰り返します。三拍子の論理のリズムが心地よく響きます。例えば、A→C→B→C→Bという具合です。論理の展開が速いのでゆっくり読むことを進めます。

とりわけ、Cの比喩は、「~でなければ---である」という裏からの論理、「たしかに~は一理あるが、----」という譲歩の論理を多用します。

A: 理論的主張

B: 実際への適用 

C:  比喩や例示

冒頭3ページ分解に先立って、Cの「例示」の一例を挙げてみましょう。「A:目的としての基準が必要である」の例です。神道と仏教の論争を想定してください。現在でもテレビの「討論番組」で扱うかもしれないテーマです。福沢は神道は「現在」、仏教は「未来」を目指すとうい点で目的が違うので議論にならないと、一刀両断に切り捨てます。ある条件付きで...。あまりに乱暴だと思いますか。無知から来る即断だと思いますか。しかし、現代の討論番組であったなら、かみ合わない主張を繰り返したあと、それぞれいい点もあるね、でしゃんしゃんと終わるのではないでしょうか。福沢は、そういう状況をきらいます。福沢の主張は、唯一議論が成り立つためには、両者の主張を越えた「目的」が基準になる場合のみだということです。マスコミに登場する現在の論者たちは、これだけの論理的整合性を落ち合わせているでしょうか。きっと、福沢は、当時、議論と称して勝手なことを言い合っている状況にあいそがつきていたのではないかと想像します。

では、文庫本11ページほどの内容ですが、上の3点で分解してみましょう。今回は、冒頭3ページ弱です。

論点1.

A: 基準が必要である。

定義:「相対して重と定り善と定りたるものを議論の本位と名づく。」

C1:軽重、長短、善悪、是非

C2:背に腹。小の虫、大の虫。鶴と鰌

B: 日本国と諸藩による旧制度のどちらが大切かという基準が必要(維新はたんなる権力奪取ではないということ)

論点2.

A: 一般的なものとしての基準が必要である。

C:ニュートンの法則がなければ、船の動き、車の動きなど、ただただ箇条が増えるばかり。(法則は「本位」と同じ意味にとることができる)

論点3.

A:目的としての基準が必要である

C1:城を攻める側、守る側、敵のためか味方のためか、往く者のためか来る者のためか、目的がなければ利害得失を論じることができない。

B:現在の議論の混乱の原因は最初の目的が違うのに無理やり結果を同じようにするからである。

C2:神道は現在を説き、仏教は未来を説くのが「本位」であるので議論はかみ合うはずがない。

C3:儒学者は政権の奪取を「本位」として、和学者は「一系万代」を「本位」とするので議論がかみ合うはずがない。

C4:戦う場合、弓矢、剣の特質を論じるのも目的があいまいなので議論はかみ合わないが、小銃が現れて以来、その議論は消えた。

B:議論を解決するためには、より高次の目的を目指す新説を示し新旧の得失を判断させるしかない。

ここまでで、文庫本3ページ目(全体のp.17)です。

では、福沢さんの原文です。読みやすくするため原文にない段落を設けました。小見出しはないですが、上の分解例を読み直してから進めると分かりやすいです。

註:原文の漢字を多くかなに改めました。之(これ)、其(それ)、斯く(かく)、都て(すべて)、恰も(あたかも)、只管(ひたすら)など、論理的表現です。かなに改めることで古典への距離ができてしまいますが、昨今、はやりの現代語訳より距離が短いかと思います。その他、鰌(どじょう)のような現代ではあまり使われない漢字はかっこでかなをしめしてあります。

 

巻之一

第一章 議論の本位を定る事

 軽重長短善悪是非等の字は相対したる考より生じたるものなり。軽あらざれば重あるべからず。善あらざれば悪あるべからず。故に軽とは重よりも軽し、善とは悪よりも善しと云ふことにて、これと彼と相対せざれば軽重善悪を論ずべからず。かくの如く相対して重と定り善と定りたるものを議論の本位と名(なづ)く。

鰌 鶴諺(ことわざ)に云く、腹は脊(せ)に替へ難し。又云く、小の虫を殺して大の虫を助くと。故に人身の議論をするに、腹の部は脊の部よりも大切なるものゆゑ、むしろ脊に疵を被るも腹をば無難に守らざるべからず。又動物を取扱ふに、鶴は鰌(どぜう)よりも大にして貴きものゆゑ、鶴の餌には鰌を用るも妨(さまたげ)なしと云ふことなり。

背に腹たとへば日本にて封建の時代に大名藩士無為にして衣食せしものを、その制度を改めて今の如く為したるは、徒(いたづら)に有産の輩(やから)を覆(くつがへ)して無産の難渋に陥れたるに似たれども、日本国と諸藩とを対すれば、日本国は重し、諸藩は軽し、藩を廃するは猶腹の脊に替へられざるが如く、大名藩士の禄(ろく)を奪ふは鰌を殺して鶴を養ふが如し。

都(すべ)て事物を詮索するには枝末を払てその本源に遡り、止る所の本位を求めざる可らず。かくの如くすれば議論の箇条は次第に減じてその本位は益確実なる可し。「ニウトン」初て引力の理を発明し、凡(およ)そ物、一度び動けば動て止まらず、一度び止まれば、止まニュートンりて動かずと、明にその定則を立てゝより、世界万物運動の理、皆これに由らざるはなし。定則とは即ち道理の本位と云ふも可なり。もし運動の理を論ずるに当(あたり)て、この定則なかりせば其議論区々にして際限あることなく、船は船の運動をもって理の定則を立て、車は車の運動をもって論の本位を定め、徒(いたづら)に理解の箇条のみを増してその帰する所の本は一なるを得ず、一ならざれば則ち亦確実なるを得ざるべし。

 議論の本位を定めざればその利害得失を談ずべからず。城郭は守る者のために利なれども攻る者のためには害なり。敵の得は味方の失なり。往者の便利は来者の不便なり。故にこれらの利害得失を談ずるた城めには、先づそのためにする所を定め、守る者のため歟(か)、攻る者のため歟、敵のため歟、味方のため歟、何れにてもその主とする所の本を定めざる可らず。古今の世論多端にして互に相齟齬(そご)するものも、其本を尋れば初に所見を異にして、その」末に至り強ひてその枝末を均ふせんと欲するによって然(しかる)ものなり。

たとへば神仏の説、常に合はず、各その主張する所を聞けば何れももっともの様に聞ゆれども、その本を尋れば神道は現在の吉凶を云ひ、仏法は未来の禍福を説き、議論の本位を異にするをもって両説遂に合はざるなり。

神仏漢儒者と和学者との間にも争論ありて千緒万端なりと雖(いえ)ども、結局その分るゝ所の大趣意は、漢儒者は湯武(殷の湯王と周の武王)の放伐(追放)を是とし、和学者は一系万代を主張するに在り。漢儒者の困却するは唯この一事のみ。かくの如く事物の本に還らずして末のみを談ずるの間は、神儒仏の異論も落着するの日なくして、その趣はあたかも武用に弓矢剣槍の得失を争ふが如く際限あるべからず。

刀と銃若しこれを和睦せしめんと欲せば、その各主張する所のものよりも一層高尚なる新説を示して、自から新旧の得失を判断せしむるの一法あるのみ。弓矢剣槍の争論も嘗(かつ)て一時は喧(かしま)しきことなりしが、小銃の行はれてより以来は世上にこれを談ずる者なし。

《神官の話を聞かば、神官にも神葬祭の法あるゆゑ未来を説くなりと云ひ、又僧侶の説を聞かば、法華宗などには加持祈祷の仕来もあるゆゑ仏法に於ても現在の吉凶を重んずるものなりと云ひ、必ず込入たる議論を述るならん。されども是等は皆神仏混合の久しきに由り、僧侶が神官の真似を試み、神官が僧侶の職分を犯さんとせしのみにて、神仏両教の千年来の習慣を見て明なり。今日又喋々の議論を聞くに足らず。》

文庫本p.17

2/5につづく