福沢諭吉のみごとな論理とレトリック 5/5
福沢諭吉著『文明論の概略』(1875)の第一冊、第一章の「議論の本位を定る事」を分解しながら5/5までまいりました。古い本なので軽く見たり、はんたいに、字が難しいので敬遠する人も多そうです。また、一方で、「今にも通じる」というような言い方で福沢を持ち上げる人もいるようですが、今にも通じる、のではなく、今のいろいろな考え方は、福沢に基づいています。または、福沢を誤読、「論語読みの論語知らず」に陥ることで、尾を引きずっている問題も多いのです。そういう点にも触れたいですが、英語学習ブログの性格をあまり逸脱しないことを旨としていますので別の機会に譲ります。
しかし、英語学習についても福沢の著作はいろいろ考えさせてくれます。なにしろ、ごく最初期の英語学習者の一人なのですから。欧米語にあって日本語にない概念の翻訳の問題は、福沢のころから今までつづいています。たとえば、liberty、rightsなどの語の訳については福沢はたいへん悩んでいます。
さて、今回は、「議論の本位を定る事」のサマリーがわりに、いままでの論点、9のタイトルを再録します。しっかりと構成されているのを再度確認してください。
その前、この章の最期に、議論を紛糾させないためには「学者」はいかにあるべきかを三点述べるているのを見てみます。まず、7で、「交際」の必要を述べた部分と論理的に並列できる二点、それに、議論の内容に関わる点が一点です。
論点10: 世間で異端、妄説と言われようと、恐れず自論を述べるべき。
論点11: 自分と異なる意見の理解にも努め、自説で画一化を図ろうとしない寛容さが必要。
論点12: 議論の焦点は利害ではなく、「軽重」、言い換えると「質」である。
論点12の、三点目は、8で触れた「深く考えられた意見」から導き出されます。「深く考えられた意見」は、1から6までの論理的な点と異なり、古今東西あらゆる学説を研究し、偏見に陥らず、世間の迫害を排して、追及していかなければならない。それは、論点3において、「城を攻める方か、守る方か」の比喩でのべたような、利害目的による意見の相違に比べ、判別はとても難しい。福沢はそれを「利害」ではなく「軽重」の議論と呼びます。量の議論ではなく「質」の議論であると言えるのではないかと考えます。この議論は、しかし、いかに難しいからと言ってその追及を怠れば、「一年の便不便を論じて百歳の謀を誤る」という事態を招くと福沢は警告するのです。
さて、ようやく12の論点を概説してまいりましたが、各論点ではなく、それぞれの関係、繋がりをよく見ていただきたいと思います。
ところで、これだけの前提を踏まえた上で、福沢は、最期にほんとうに言いたかったことを述べます。議論の真の焦点は、「文明を追及するか野蛮の戻るか」に尽きるということです。いままでの12点はすべてここに読者を導く前提だったことが明かされます。「しからば、貴殿の文明論とやらを拝読してみん」と読者に思わせれば福沢さんの勝利です。例の西郷さんも読まれたそうですよ、福沢さん。(「乃公も聞いたことがあるノー」福沢さんの陰の声)
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いままでのサマリーに代えて:
各区分を、A: 理論的主張 / B: 実際への適用 / C: 比喩や例示の繰り返しとして見てまいりましたが、ここに挙げるのは各区分のAです。概観したあと原文にあたってみると分かりやすいと思います。
基準について論点3点:
1.基準が必要である。
2. 一般的なものとしての基準が必要である。
3. 目的としての基準が必要である
議論を紛糾させる論点3点:
4. 一見同じ意見に見えるが、じっさいの帰結は違う場合ある。
5. 極端な例を持ち出すとして、相手をそしる場合がある。
6. 長所を見ず欠点のみに注目して、相手をそしる場合がある。
7.「交際」が実際の上記の紛糾を避け、言語活動を向上させていく手段である。
8. 浅い考えを持つ者は深く考えられた意見を毛嫌いする。
(番外) 世論とは何か?の議論
9. 世論、つまり、通常の人物の狭量な意見が智者の活動を妨害する。
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岩波文庫 p.24-24 今回も小見出しを付けました。
■学者の心得
故に昔年の異端妄説は今世の通論なり、昨日の奇説は今日の常談なり。然(しから)ば則(すなわ)ち今日の異端妄説もまた必ず後年の通説常談なるべし。学者宜(よろ)しく世論の喧(かしま)しきを憚(はばか)らず、異端妄説の譏(そしり)を恐るゝことなく、勇を振て我思ふ所の説を吐くべし。あるいは又他人の説を聞て我持論に適せざることあるも、よくその意の在る所を察して、容るべきものはこれを容れ、容る可らざるものは暫くその向ふ所に任して、他日双方帰する所を一にするの時を待つべし。すなわち是れ議論の本位を同ふするの日なり。必ずしも他人の説を我範囲の内に籠絡(ろうらく)して天下の議論を画一ならしめんと欲するなかれ。
■利害の諭から価値の諭へ
右の次第を以て事物の利害得失を論ずるには、先づその利害得失の関る所を察してその軽重是非を明にせざるべらず。利害得失を論ずるは易しと雖(いへ)ども、軽重是非を明にするは甚(はなは)だ難し。一身の利害をもって天下の事を是非すべからず、一年の便不便を論じて百歳の謀を誤るべからず。多く古今の論説を聞き、博く世界の事情を知り、虚心平気もって至善の止まる所を明にし、千百の妨碍(ぼうがい)を犯して世論に束縛せらるゝことなく、高尚の地位を占めて前代を顧み、活眼を開て後世を先見せざるべからず。
蓋(けだ)し議論の本位を定めてこれに達するの方法を明にし、満天下の人をして悉皆(しっかい)我所見に同じからしめんとするは、もとより余輩の企る所に非ずと雖(いへ)ども、敢て一言を掲て天下の人に問はん。今の時に当て、前に進まん歟(か)、後に退かん歟、進て文明を逐(お)はん歟、退て野蛮に返らん歟、唯進退の二字あるのみ。世人もし進まんと欲するの意あらば余輩の議論もまた見るべきものあらん。それ、これを実際に施すの方法を説くはこの書の趣旨に非ざればこれを人々の工夫に任するなり。
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