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外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

カタカナ英語は是か非かの問題の背景に潜むもの

2015年11月26日 | 言葉について:英語から国語へ


カタカナ英語は是か非かの問題の背景に潜むもの

老教師英語教育をはじめとして、教育の議論は一定の関心を呼ぶものとして、つまり書籍や雑誌の購入の動機となるものなので、これからも続々と行われるでしょう。しかし、議論と行っても、何か現実を変えるために、文殊の知恵を期待して行われているか、と一つ一つ問いかけてみると、ほとんどの議論に疑問符がつけたくなります。

つまり、大衆受けするから、題目だけ見て買ってくれるからという理由で行われている気配が濃厚です。いや、大衆社会のことですから、そういう面も否定できないでしょうが、「そうだ、そのとおりだ」と溜飲を下げることだけにかまけて、さて、ではどうするの、というと、もう別の話題に気を取られて、何も変化が起きない、ということが大半です。

英語教育については、古くは、平泉、渡部論争、近くは、藤原正彦の提案した、「国語教育優先論」です。 藤原さんの議論など、まことに正論だとは思うのですが、それで、文科省の方針が変わるかというとそんなことは期待薄です。そこで、私は、あちこぢで「理想と実際論の対立は、実際論が最期に勝利を収める」と皮肉に書きました。

最近の「論争を呼ぶ」著作は『教育の経済学』でしょうか。この本が提起する問題についてはいずれ触れたいと思います。それは、さておき、ここでは、「カタカナ英語」について、人々が話していることに耳を傾けてみましょう。

意見は二つに分かれます。是か非か。

「カタカナ英語はいかん」という意見の根拠は、「正しい英語」でなければならない、と要約できるでしょうか。

「カタカナ英語でもよい」派は、「学習に壁を設けるな」という議論です。

アイロン両者とも、主張する時は、上に書いてある二つの括弧の中身で頭を一杯にして、それにあったことを引っ張り出して議論する、という趣です。頭が一杯ですから、相手の言い分に耳を傾け、よりよい意見に自説を修正するという動機はあまりないようです。

そこで、まずは、「カタカナ英語」とは何か、考えて見ましょう、いや思い出してみましょう。思い出すというのは、私たちはだれでもうっすらとそのことが分かっているのですから。

それは何か。英語と日本語の音韻構造が違うのに、なんとか日本語の音韻構造で英語を発音しようとするから「カタカナ英語」になるのです。母音については、日本語には5つしかありません。英語には、13あるそうです。例えば、英語は、ほかの欧米語よりずっと「二重母音」というのが発達していますが、日本語では「長母音」でも「二重母音」でも意味の区別には繋がりません。

おっと、「二重母音」という「専門用語」を使ってしまいました。「オウ」とか「エイ」という音のつながりです(辛うじてこれはカタカナで表記できます!)。これらは、「オー」と言っても「エー」といっても雰囲気の違いこそ出ますが、意味の違いには繋がりません。ですから、court(宮廷、法廷)なのか、coat(服の一種)なのか日本語では区別して表わすことができないのです。どちらも、「コート」。しかたありません。

そう。しかたないのです。日本人が英語を発音したいと思った場合、少なくとも最初は、日本語の音韻を使うしかないのです。とりわけ、第3者の日本人から「今の異人はなんと申したのじゃ」と聞かれた場合、「こーと」でござります、と言うしかないのです。最初の学習者が耳の良い人で、...えっと、「カタカナ」ではなかなか表記できませんが...、まあ、「コウトゥで御座りまする」、と申し上げても、第三者は、「ふむ、こーとじゃな」となるでしょう。江戸末期にかぎらず今でも同じことです。

メリケン波止場もう一つカタカナの問題を言い添えましょう。それは日本人の外国語学習が文字中心だったことです。アルファベットで入ってくる情報をいわゆるローマ字の体系に近づけようとしたことです。Americanなら、「ア・メ・リ・カ・ン」となります。そこには英語の音声に特有なアクセントは反映されません。まだローマ字が定着せず、音だけ直接カタカナに移そうとした頃の方がもとの英語に近かったかもしれません。Americanは、「メリケン」でした。メリケン粉、メリケン波止場のメリケンです。たしかにアメリカ人が発音しているのを聴くと、アメリカンとうより、メリケンに聞えます。

ともあれ、カタカナを経由しなければ、私たちは英語に近づくことが困難なのです。その存在を「いかん」と、全否定するのは、今の流行語を使えば、「上から目線」の批判は免れません。

しかし、それにも拘わらず、「正しい英語派」の先生は、正確な発音教育のために情熱を燃やします。たしかに、native speakerのように話す必要がないのでは、とみなうっすらと思っていはいるのですが...。

そんなことをわざわざ言うというのも、日本では、柔道とか、書道のような「英語道」みたいな気分が存在するように思うからです。小林克也のように話すのが目標になったり、白州次郎のように「英国貴族の英語」を仰ぎ見たりするとういのうが、英語学習の文化になっている気配があるからです。柔道や将棋にに何段とか名人がありますが、それを目指すのとパラレルに英語学習を捉える傾向があるのかもしれません。英検をはじめ、あらゆる検定流行る背景にはこういう歴史があるように思うのですが、いかがでしょう。

ところで、英語ですが、そんな名人にあこがれる必要はありません。安倍首相の米国議会での演説は、そのような神話から醒めるためによいきっかけだったのではないでしょうか。サッカーの本田選手のミラノにおける記者会見、建築家の板茂や、手塚貴晴たちのあっぱれな英語でのプレゼンテーション、最近のこうした人たちの姿をテレビで見た人たちのなかには、英語学習についてのイメージが変わった人も多いのではないでしょうか。安倍首相の英語...、たしかに日本人の英語です。「カタカナ」かもしれません。即席の学習だったかもしれません。「英語力」だけ捉えれば宮沢喜一元首相の方がずっと上でしょう。が、りっぱに米国人に伝えるべきことを伝えることができました。板茂さんについてはTEDなどでぜひ見ていただきたいですが、RとLの違いなどほとんどしていないようですが、構文と論理をを明快に構成し、相手の言葉に的確に対応します。

安倍首相 米国議会いや、彼らの英語は、もうカタカナ英語とはいうのは適切ではないでしょう。ここで「カタカナ英語」の問題点を述べましょう。それは音韻上の問題ではありません。英語という外国の言葉を日本語の世界で理解しようとしていることです。異なる言語なのですから、異なることを異なっていると認めなければならないのはあたりまえのことなのですが、日本人は、それを日本語の言葉の枠のなかに無理やり当てはめようとする傾向があります。その象徴がカタカナ英語だとしたら、それはやはり大問題なのです。私は江戸時代以来の漢文の読み方が影響しているのではないかともにらんでいますが。異なったものを異なったものとして受け取ることの訓練を日本人は怠ってきたのかもしれません。これは急速な外来文化の受け入れと裏腹の関係にあると考えるべきでしょう。

ここまで見てくると、カタカナ英語を忌み嫌う派も、カタカナ英語に居直る派も、同じ問題を抱えていることに気がつきます。前者も後者も、外国語を日本内部での問題としてみているということです。言語は、己と異なる人を理解し、己の考えを理解させるための架け橋です。外国語を学び、使うということは、外国人を理解し、外国人に己を理解させるということです。ところが、日本人同士でこれは完璧な発音だなどと褒めあったりしても意味がありません。もちろん、「カタカナ英語」で、分かった気になる、分からせた気になるというものせんないことです。

はろーでは、どうすればよいのか。こと、発音の教育に関しては、「習得」するというより、日本語の音韻から英語の音韻へ「移る」という側面に重点を置くべき、とういのも一案です。日本語の音韻を無視して、ひたすらnative speakerのまねをするより(時間があればよいですが)、すでに日本語の音韻を意識化できる大人には、コートはcoatかcourt、またはcaughtだよと、間違えると意味が通じなくなる点を優先して教えるような教育体系を作る必要があると思います。じっさい、court、caughtの「長母音」は発音するだけでなく、日本人の耳では判別しにくいということは教室で日々経験しています。とりわけ、thoughtは分かりにくいですね。

そして、なにより、他者の言語である英語で話している人間を理解する、理解させるという基本的姿勢が第一です。実を言うと、首相の英語スピーチなどが昨年来、公表されてから、「カタカナ英語」についての議論が少なくなったような気がするのです。カタカナ英語は是か非かなどという議論が無意味であるということに日本人がようやく気がつきだしたのかもしれません。



<旧>プレキソ英語、NHKの秀逸な英語番組をネット上で見る方法

2015年10月05日 | 言葉について:英語から国語へ

<旧>プレキソ英語、NHKの秀逸な英語番組をネット上で見る方法

☆以下のURLの「~を見る方法、続き」で、各週のタイトルを見つけ、それを下記のNHKの検索ボックスに入れてください。(2016/9/16)

http://blog.goo.ne.jp/quest21/e/0f3eab0a9fa35fbccde364308c8df113

プレキソ A ZNHKの小学生向け英語番組、『プレキソ英語』が始まって数年がたちますが、最初の1年間に放送された10分間のシリーズは、とても優れたものでした。

しかし、その後更新されず、昨年まではネットでなんとか見ることができましたが、今年からはネット上でも簡単に見ることができなくなってしまいました。しかし、玉大の生徒さんに教えてもらった方法で、見ることができることが判明しました。ぜひ見てみて下さい。

プレキソ アニメ 4月子供だけでなく大人にこそ見てもらいたい番組です。英語の初心者でも、上級者にもお奨めします。

10分間の中間に来るアニメーションによる『マイクロストーリー』は、美術的にもとてもよいもので、日本のデザイン、美術の水準の高さを見直すと思います。日本のアニメーション界の第一人者、山村浩二さんによるものです。日本語で詩を書くアサー・ビナードさんのせりふも、深みがあります。

なにより、監修者の語学学習についてのセンスがとてもよいのです。昭和女子大学附属昭和小学校校長の小泉清裕さんによるもの。小泉さんは、、「エンジョイ・イングリッシュ」という言い方には疑問を感じると言います。言葉は、「何かを伝え、理解するためにある」ので、言葉自体をエンジョイするというのはおかしいということです。具体的にはどういうことか。まだぴんと来ない方は、ぜひ、4月のヴァージョンからご覧になってください。

プレキソプラネットじつは、昨年から始まったニューヴァージョンには、小泉さんの当初の発想がないように思われます。比べてみても、英語番組はこんなもんだという先入観がある私たちは、最初は、新旧の違いが分からないかもしれません。しかし、じっくりと見比べると、いかに旧プレキソが秀逸なものか分かると思います。語学学習は、こういうものなんだ!、と目から鱗が落ちる経験をされるでしょう。

 まず、サーチエンジンで「プレキソ・プラネット」を調べてください。地球が現われますが。いろいろなところにドラッグすると英語の単語が聞こえてきます。クリックするとさまざまなゲームの画面に映ります。

「プレキソ」のURL: http://www.nhk.or.jp/prekiso/

さて、プログラム全体は、以下の方法で見ます。

昔のプレキソをみる方法:

♪動画の検索方法
 ①下記リンクにアクセスしてください。
  http://www.nhk.or.jp/school/
 ②右上の検索ワード入力欄 『 キーワードを入れてね 』の欄に、見たいエピソードのタイトル(e.g.What color is this? など)を入力して検索してください。
  エピソードのタイトルはこちらで確認できます。
  http://www.nhk.or.jp/prekiso/movie/index.html

皆さんのご感想をお寄せください!.




小林秀雄の新発見評論

2015年09月22日 | 言葉について:英語から国語へ

小林秀雄の新発見評論

小林秀雄の全集未収録エッセイが見つかり、『新潮』9月号に掲載されたと、産経新聞が報じていました(9月20日福島俊雄)。

http://www.sankei.com/column/news/150920/clm1509200005-n1.html

まだ、『新潮』掲載のエッセイは読んでいませんが、このエッセイ、および福島さんの評論を読んでいただくよう促すために、ここで紹介します。

最初に掲載されたのは昭和22年8月、九州の地方紙でした。小林は、政治を「複雑膨大で不安定な対象」を扱っていて、「それを扱う人間の健全な精神能力を大きく超え、「凶暴な怪物」のようになってしまった」と述べています。

小林秀雄「健全な精神能力」ということの根底には、理系、文系を越えたところで事実と真実を追究する、小林自身の姿勢があると私は思います。健全な精神能力が機能している場合、結論が間違っていることが分かれば、それに耳を傾け、新しい仮説を立て、粘りよく真理を追究します。そこには、完全な真理、完全な誤謬だけではく、「ある程度本当らしいこと」も、そういうものとして認識する精神力が必要です。ところが、政治の世界では、概して「ある程度本当らしいこと」はふっとんでしまい、一部の事実を誇張されて、それが複雑に紛糾し、自動的に誰も望むことのない大戦争が起きることがあります。そのことを小林は「凶暴な怪物」と読んだのでしょう。

それに対し、小林は「民主主義」をこう捉えます。

「怪物に食い殺されぬためには、民主主義という自己防衛策を講じなければならなかったが、わが国では、これがはなはだ立ち遅れた。「ぼく等」はこの防衛策を行使して、「大臣という才腕ある事務員」を支配者として選べばいいだけであって、それ以上ではないー。」

小林は「民主主義」を意味のあるものとしてしていますが、「それ以上ではない」という部分を注意深く読む必要があります。

「民主主義とは人民が天下をとることだなどと馬鹿げたことを考えていると、組織化された政治力は第二の怪物となって諸君を食い殺しかねまい。ムッソリーニは、ファシズムとは進歩した民主主義だと主張した。」

リヴァイアサンこの点で、民主主義の到来を寿ぐ当時の他の知識人と大きく考えを異にします。福島さんは国家をリヴァイアサン(凶暴な怪物)とするホッブスの思想との共通性を指摘しています。しかし、政治思想家のホッブスと異なるのはこの先です。福島さんも「その醒め方は、いささか尋常でない深度を持っている」と述べられていますが、小林の目的とするのは精神の自由でしょう。政治に精神を食い荒らされないようにするにはどうするか。小林には、全体主義に民主主義を対置する知識人の態度はおめでたい、と写るだけでなく、はなはだ危険なものに見えたに違いありません。「民主主義」のお題目を唱えるうちに、足をすくわれる恐ろしさまで小林には見えていたのです。政治を「人間の健全な精神を大きく超えた「凶暴な怪物」」と呼んだ所以です。

10年後、「戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった。」と、母親の死に際し、小林は述べていますが、小林の精神を動かしたのは何か。小林の精神を凶暴な政治から護ったのなにか。それは「悲しみ」という感情だったのでしょう。敗戦の悲しみを素直に感じ取ることが小林における精神の自由の根底にあるように思います。



英語deクッキングは、語学学習に有効か?

2015年06月25日 | 言葉について:英語から国語へ

英語deクッキングは、語学学習に有効か?

 

自分で使っていながら、こういうのはナンですが、いったい、この"de"何を意味するのでしょう。が、まあ、日本語の「で」の意味と理解しておきましょう。

英語学習とクッキング。この二つを並行させるのは、よく行われていますが、なぜ行われているか、というと、たぶん、次の2つの意味で、人々が関心を持つからでしょう。

① 楽しそう。

② 一挙両得。

英語でお菓子私の印象では、習う側も、教える側も、これ以上のことは考えていないようです。じつは、その点については、私はそんなに関心を持っていませんでした。そんなものかなという印象しかありません。

しかし、ここ数年、小学生の英語学習の一環として、お菓子の作成も導入する過程で、いろいろ考えることがありました。何を作ったか?。各種クッキーを初めとして、カスタード・プリン、ガトー・オ・ショコラ、ティラミス、シュークリーム、マドレーヌ、などなど。材料を計り、原価計算も行い、お店を出すとしたらいくらで売りますか、いうところまで考えた場合もありました。途中、倍量にして対応できるかどうかも試練でした。

なにより、大切なのは、「片付ける」ことです。

お菓子作りの英語レッスンでは、3つの段階があるとその子に言いました。

①は、食べながら英語のレッスン→楽しい。②作りながら英語のレッスン→楽ししい。 しかし、片付けるのは→楽しい...かな、と。

作る過程では、出来上がったお菓子の味や食べる人を思い浮かべてがんばることができますが、片付 ける時、どのような目的を思い浮かべればよいのか、イメージが湧きません。ですから、誰でも片付けが嫌いなのは納得のいくことです。しかし、片付けないとどうなるか。あとの人が台所を使うことができません。私たちがケーキ作りができるのも、誰 かが片付けておいてくれたからです。ほかの誰が使うか分からなくても、キッチンを綺麗しておいてはじめてケーキ作りが「完成」するのです...、と言い聞かせたわけではないのですが、いつかそれに気がついてもらいたいと思います。 つまり「社会」というものの理解の入り口として「片付ける」という過程を考えたわけです。

料理 失敗

最近になって、初めて大人一人を対象にマドレーヌを試みました。仕事のストレスでその方は大変な時期でしたが、仕事のことはすっかり忘れて、英語はともかく楽しく2時間を過ごされたようです。

その過程で、英語deクッキングは、案外、大人の英語学習にとって意味があるのではないかと思うようになりました。なぜか?。世間の「英語deクッキング」を試みている方はどう考えているか知りませんが、①楽しそう、②一挙両得だけでもナイゾと思っています。

理由は3つあります。一つめは、目の前に目的がはっきりしているということ。概して英語教育がうまくいかないのは何のために英語を勉強するか分からないからです。だからといってゲームであれ試験であれ人工的な目的を設定してもそれがウソっぽかったらいずれは飽きられます。しかし、2時間後にはケーキが食べられるのですから、これには現実味があります。

二つ目には、体を使うということ。教室で座って学習していてはいくら「双方向」とか「発信」とか標語をかかげても、掛け声だけに終わるのではないでしょうか。新式のインタネットを使った学習法でも変わりがありません。じつはその背景には、言語活動の「深い真実」が隠されているのではないかと考えています。それは何か。面と向かった対話とインタネットによる「対話」はどこが違うのでしょう。それは、インタネットや、電話などの会話においては、相手に肉体的に攻撃される可能性がないということ、もっと根本的に言えば相手に殺される可能性がない、ということです。「何をそんな極端な...」と思われるかもしれません。たしかに、殺し合いと、ケーキ作りに間には大きな距離があります。しかし、距離があっても「連続」していることだと思います。 和気藹々とケーキ作りを愉しんでいるときも、人は相手にけっこう気遣っているものです。それが、言葉の習得にも深いところで関係があると思います。

料理 軽量三つ目は、ケーキ作りには、失敗は許されないということです。そのために、分量や、焼く時間を間違えなく伝えなければなりません。米国や英国のレシピーをインタネットから参照するので、温度も華氏(Fahrenheit)から摂氏(Selcius)に変換する必要が生じることもあります。華氏から32を引いて5/9を掛けるのです。大人も、子供も、最初は、「ええ~!」と声を上げますが、ほっておけば、皆さんスマホを取り出し計算しはじめます。人間、だれも、目のまえに問題があれば解決しようという本能を持っているものです。逃げるようになるのは、その問題が、ウソっぽい場合です。試験がそうですね...。

最後に、英語deクッキングの進める段取りを紹介しましょう。

3段階に分かれます。

①レシピーの検討と段取りの確認。

② キッチンにおいて命令と実行。

③焼いている間に総復習。

マドレーヌ 円形①では、口頭で、全てのレシピーを段取りを言えるようにします。この過程では、早い速度で、質問と答えを繰り返します。何度も繰り返してだんだんスムーズに言えることを実感します。

②では、誰かが命令者、後の者どもは、兵隊です。そのとき、命令者は、分量を突然変えることがあります。そこで、参加者は即座に計算、英語で確認します。これは子供のクラスで実際試みたことがありますが、じっさいに、足し算と引き算を間違えたり、掛け算と割り算を間違えたりすることがありました。あまりの粉の多さに私が気がついて、そのときは大過なく済んだのですが。

③では、もう一度、レシピーと段取りを復習。ここでは、すでに習った単語と文の形を繰り返すのですから、スムーズです。しかし、30分前に習ったことでもすぐ口からでないということも経験します。語学学習ではいかに繰り返すかが大事ですが、ふつうならたいくつになる繰り返し学習を意識しないでできるというメリットがあります。

もいろん④つめの過程もありますが、それは言うまでもないでしょう。達成感を体で味わうのですから、きっと覚えることもふつうの教室よりずっと多いことでしょう。

 

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前回の試み:マドレーヌのレシピー:

マドレーヌ レシピーIngredients.
Original recipe makes 1 dozen.
Change Servings.

2 eggs.
Three fourth of a teaspoon vanilla extract.
Half of a teaspoon salt.
One third of one cup white sugar.
Half of one cup all-purpose flour.
One tablespoon of lemon zest.
One fourth of a cup butter.
One third of one cup granulated sugar for decoration.

dozenダース servingsテーブルに出す量  extract抽出物   all-purpose flour全目的小麦粉
zest(果物の)皮   granulated sugarグラニュー糖 ingredient材料


Directions 9 processes
1. Preheat oven to 375 degrees F (190 degrees C). Butter and flour 12 (3 inch) madeleine molds; set aside.

2. Melt butter and let cool to room temperature.

3. In a small mixing bowl, beat eggs, vanilla and salt at high speed until light.
150602マドレーヌ学習 2 in 7.

Directions. 9 processes.
Today, we are going to send the first 3 processes.

4. Preheat the oven to 375 degrees Fahrenheit, or 190 degrees Celsius. Butter and flour 12 madeleine molds; set aside.

5. Melt butter and let it cool to room temperature.

6. In a small mixing bowl, beat eggs, vanilla and salt at high speed until light.

単語です。Directionは、指図。processは、過程。Preheat、あらかじめ熱する。 Mold、型。melt、溶かす。 1では、butterとflourが、バターを塗り、小麦粉をまぶすという動詞として使われています。 Beatは、あわ立てる。
Set asideは、The molds are set asideの短縮形です。「型は横に置いておかれる。」
Until lightは、「軽くなるまで」です。
Fahrenheit、つまり華氏をCelsius、つまり摂氏に変える式は以下のとおり。
まず、華氏から32を引いてください。それに9分の5をかけます。
度C=(5÷9)×(華氏-32)

7. Beating constantly, gradually add sugar; and continue beating at high speed until mixture is thick and pale and ribbons form in bowl when beaters are lifted, 5 to 10 minutes.

● 冒頭、Beating constantly, gradually add---:beatingとaddの形に注意。Beatingは、while you are beatingの省略。「絶えずかき混ぜながら」。addは命令形です。
pale:色が薄くなること He is pale.は「顔が青ざめる」という意味。
Constantly絶えず  gradually徐々に   continueを続ける  thick濃い、厚い、ribbons form:へらから垂れるくらいの形  lift取り上げる、上げる  beater泡だて器    
8. Sift flour into egg mixture 1/3 at a time, gently folding after each addition.
sift flour into---:小麦粉をふるって~に入れる  at a timeいちどきに  gentlyやさしく fold折る、織り込むように混ぜる  after each addition加えるごとに

9. Add lemon zest and pour melted butter around edge of batter. Quickly but gently fold butter into batter. Spoon batter into molds; it will mound slightly above tops.


lemon zestレモンの皮  pour注ぐ  melted溶けた  around edge of batter:生地の端の周りに  fold折る、(料理用語)混ぜ合わせる  spoon A into B:AをスプーンでBに入れる  mold型   mound盛り上がる  slightlyかすかに
★ butterとbatter(生地)の発音に気をつけよう。

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「情報発信」の大変さ:佐瀬昌盛さんのためいき

2014年05月20日 | 言葉について:英語から国語へ

「情報発信」の大変さ:佐瀬昌盛さんのためいき

ともだち作戦数回前に、佐瀬昌盛さんが日本国憲法の英訳について書いた記事を扱いました。今日(5月20日火)の産経新聞『正論』欄に、佐瀬さんが「集団的自衛権」について書いています。ここでは、政治的立場とは無関係に、この記事で扱っている、「情報発信の難しさ」について触れたいと思います。

「情報発信の重要さ」は昨年来、マス・メディアの「定番」となった主張で、なんとなく「そのとおりだ」という空気が醸成されてきていると思います。しかし、それをどうするか、どの点が大変なのか、という議論がなかったので、佐瀬さんのこの記事は、私にはとても意義を持つものだと思われました。ここでは、「集団的自衛権」の容認に関する賛成、反対とは別に、佐瀬さんの苦労を追ってみたいと思います。


タイトルと著者名を見て、集団的自衛権行使容認賛成の論陣を張っているのかなと、思う人も多いでしょう。しかし、卓越したコミュニケーション論だということにどれだけの人が気づくことか。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140520/plc14052003100005-n1.htm (最終閲覧:14/05/21)

 

この記事によると、ここのところ、佐瀬さんは、講演会に招かれ、「集団的自衛権」について語る機会を多く持ちました。しかし、どうも、聴衆が、集団的自衛権が何か分かっていないのではないかと疑い、集団的自衛権が何であるかを言ってほしいと、参加者に起立、発言を求めました。ところが、だれも「う~ん」と言ったきり絶句するばかり。

「参加者は、これから政界にで活躍するような人で、集団的自衛権についても関心の高い人たちばかり」でした。しかし、「採点すればほぼ全員が0点に近い落第点。なぜ?下駄の履かせようもない。」

「市井の人」については...、「間違いなく有権者の99%は「集団的自衛権? それって何のこと?」の世界にいる。」と佐瀬さんは述べています。

ところが、世論調査ではもっともらしい数値が並んでいます。それに対して佐瀬さんは、「残酷な光景集団的自衛権毎日だ」。そうなった理由は、「 「消費税引き上げ」とか「一票の格差」とか皮膚感覚でつかめる具体性の域にはない」からだと<仮説>を立てます。

そして、そのあとで、その証拠となるものとして、二つの新聞の世論調査を比較します。

目に見える具体的なものがない状況では、誘導尋問のような世論調査によって、「世論」は操作できます。このことを佐瀬さんは確かめました。以下は、朝日と読売の、世論調査の設問の比較です。

朝日は、「日本にとっての集団的自衛権とは、同盟国やその軍隊が攻撃されたときに、日本が攻撃されていなくても、日本に対する攻撃と見なして一緒に戦う権利」のこと」 。(佐瀬さんは、「一緒に戦う権利」のところに傍点を打っています。)

読売では、密接な関係にある国を「攻撃した相手に反撃する権利」。(「反撃」集団的自衛権読売に傍点。)

なるほど、朝日の設問では、「戦争に巻き込まれる」という意味がより強く伝わります。読売の設問は、「友を助ける」という意味に取れます。

朝日の場合は、反対論は63%。読売は、反対論は43%だそうです。なお、さらなる証拠として、読売が具体的な設問にした問いでは、肯定論が圧勝した例も挙げています。

以上、佐瀬昌盛さんの論文から、多く引用させていただきましたが、3つのポイントがありました。

① 意見を伝えることがいかに難しいことか。

② その理由は、抽象的はことは人々は理解しようとしないからだ。

③ 抽象的な問題では、世論の誘導は易しい。

薩長同盟以上のことが、主張、理由、そして、結果と証拠という三段構えでしっかり構築された小論文です。佐瀬さんの主張の証拠となることは記事の最後にもうひとつ挙げられています。それについては記事本体をお読みください。

それにしても、このような説得力がある評論でも、これがどれだけ読む人に訴えるか...。力強さとともに、「ためいき」も行間に伺えます。