墨汁日記

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徒然草 第二百四十三段

2006-03-12 21:12:50 | 徒然草

 八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教え候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。

<口語訳>
 八つになった年、父に問いて言う事、「仏は如何なるものでございますか」と言う。父が言う事、「仏には、人が成ったのである」と。また問う、「人は何として仏には成りましたのか」と。父また、「仏の教によって成るのである」と答えた。また問う、「教えましたその仏を、何が教えました」と。また答える、「それもまた、先の仏の教えによって成られたのである」と。また問う、「その教え始めました、第一の仏は、如何なる仏にございますか」と言う時、父、「空より降ったか。土より湧いたか」と言って笑う。「問い詰められて、答え得なくなりました」と、諸人に語って興じた。

<意訳>
 八つになった年に、父に質問した。

「仏は、いかなるものでございますか?」

 と聞くと、父が言う事には、「仏とは、人が悟りをひらいて成ったものだ」と。

 また問う、

「人はどうして仏に成れたのですか?」

 父また、「仏の教によって成るのである」と答えた。

 また問う、

「その教えた仏を、なにが教えました?」

 また父は答える、「その仏もまた、前の仏の教えによって成られたのだ」と。

 また問う、

「その教えをはじめました第一の仏は、いかなる仏にございますか?」

 と聞けば、父は、「空より降ったか。土より湧いたか」と言って笑った。

「問い詰められて、答えられなくなりましたよ」と、父はみんなに語って面白がっていた。

<感想>
 まず、父は、8才の兼好がした最初の質問にちゃんと答えていない。
 兼好は「仏とは、如何なるものなのですか?」と聞いているのに、父の答えは「仏は、人が(悟りをひらいて)なるものだ」という答え。
 8才の兼好が父に聞いているのは、「仏とはなんなのか?」というもっと根本的な質問なのであるが、父は、仏の前身は人であるとしか答えていない。
 言い換えれば、子供に「ニワトリってなんなの?」と聞かれて、「ニワトリさんは卵から産まれたんだよ」と答えているようなものだ。
 まー、兼好の父も8才の子供に、そんな根本的で深い質問をされるとは思わなかったのだろう。
 その為に、話題はすり替わり、会話の方向はあさってへ行くが、最終的に、父は兼好の質問に答える事が出来なくなる。だが、そんな兼好の小賢しさをも父は許容して愛している。
 この段は、そういったお話だ。

 この段を書いたときの兼好の年齢を正確に推定する事は不能だが、40才をはるかに超えていた事は間違いない。
 兼好は、何十年も昔の、遠い過去を懐かしく思い出している。

 ところで、この段で『徒然草』は終わる。
 なんで、兼好はこの話を『徒然草』の最後に書いたのだろう。

 兼好法師は、父に「仏とは如何なるものか?」なんて、小賢しい質問をするような子供だった。理屈っぽくて可愛くないガキだったのだろう。
 そして、ガキの頃には、吉田神社の一族の、その息子である自分が、異教であるはずの仏教の僧として出家するなんてことは、夢にも思わなかっただろう。だが今、確かに出家して「兼好法師」である自分がここにいる。
 今になって思い出すと、理屈っぽくて小賢しい自分には、以外と「法師」はお似合いだったのかもしれない。
 自分は出家した事を悔やんではいないよ。自分には法師はお似合いだったのさと、兼好は自分の過去を容認して『徒然草』を終わらせている。

 こうして、未完成でぶっちゃけで、適当でいいかげんの書きなぐり、思いつきの鋭さでつれづれとした『徒然草』は幕を閉じる。

原作 兼好法師


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
分かりやすいですね! (まだまだstart)
2009-07-07 18:48:16
分かりやすいですね!

頑張ってください★
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ありがとうございます。 (protozoa)
2009-07-09 19:27:19
ありがとうございます。
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「なんで、兼好はこの話を『徒然草』の最後に書い... ()
2009-08-27 22:42:52
「なんで、兼好はこの話を『徒然草』の最後に書いたのだろう。」
この疑問は中学生の時にまさに私が感じた疑問でした。書き出しの序段に比べ、なんか締まらない終わり方....。
そらから○十年、今日の朝、仕事にいく車の中で、「八つになりし年」というフレーズが突然浮かんできて、何だっけ、なんだったかなあ、と思いながらも思い出せず、そのまま忘れ、夜になって、また気になって、googleってここにたどり着きました。
○十年前の疑問にも答えていただいたような気がしました。ありがとうございます。
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兼好のものの考え方の基本には神道がある。という... (protozoa)
2009-08-29 17:47:20
兼好のものの考え方の基本には神道がある。というのが、私の『徒然草』の読み方の基本です。当時の神道の家の人間が仏道に下るのは、今で言うならばお寺の子供がキリスト教に改宗するような事であったと私は考えました。彼は自分の実家に対して異端であったのです。
神道とはなにか?
もともとは日本の土着信仰であるものを、大和朝廷や明治政府などが宣伝に利用したという歴史こそありますが、日本の神道ほど日本とよばれる島国に深く根付いた宗教観はありません。
四季があり自然豊かな環境からしぜんと産まれた信仰心こそが神道だと私は思っています。
ちなみに政治的に私は左よりです。
でも、趣味的に零戦や日の丸は好きです。
自分の主義主張よりはその場の流れや雰囲気にのる事が尊い事だと私は考えます。
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