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徒然草 第十四段 和歌

2006-05-19 19:33:38 | 新訳 徒然草

 和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしず・山がつのしわざも、言ひ出でつればおもしろく、おそろしき猪のししも、「ふす猪の床」と言へば、やさしくなりぬ。
 この比の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外に、あはれに、けしき覚ゆるはなし。貫之が、「糸による物ならなくに」といへるは、古今集の中の歌屑とかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、姿・ことば、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかく言ひたてられたるも、知り難し。源氏物語には、「物とはなしに」とぞ書ける。新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞいふなるは、まことに、少しくだけたる姿にもや見ゆらん。されど、この歌も、衆議判の時、よろしきよし沙汰ありて、後にも、ことさらに感じ、仰せ下されけるよし、家長が日記には書けり。
 歌の道のみいにしへに変わらぬなどいふ事もあれど、いさや。今も詠みあへる同じ詞・歌枕も、昔の人の詠めるは、さらに、同じものにあらず、やすく、すなほにして、姿もきよげに、あはれも深く見ゆ。
  梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただ、いかに言ひ捨てたることぐさも、みな、いみじく聞ゆるにや。

<口語訳>

 和歌こそ、なお おかしいものである。賤しの賤・山賤のしわざも、言い出ればおもしろく、おそろしい猪も、「ふす猪の床」と言えば、優しくなる。
 この頃の歌は、一節おかしく言いかなえてると見えるはあるが、古き歌どものように、いかにだか、ことばの外に、哀れに、気色覚えるはない。貫之が、「糸による物ならなくに」と言えるは、古今集の中の歌屑とかよ言い伝えてるけど、今の世の人の詠めるはず事柄とは見えない。その世の歌には、姿・ことば、この類いのみ多い。この歌に限ってこう言いたてられてるも、知り難い。源氏物語には、「物とはなしに」だと書かれる。新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」と言う歌をだ 言うのは、まことに、少しくだけた姿にも見えようか。されど、この歌も、衆議判の時、よろしい由 沙汰あって、後にも、ことさらに感じ、おっしゃられ下された由、家長の日記には書かれる。
 歌の道のみ古に変わらないなど言う事もあるが、どうか。今も詠みあう同じ詞・枕詞も、昔の人が詠むは、さらに、同じものにあらない、安く、素直にして、姿も清らかに、哀れも深く見える。
  梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、また、哀れである事は多いよう。昔の人は、ただ、どのように言い捨ててる言葉も、みんな、すばらしく聞こえるかな。

<意訳>

 和歌こそ最高だ!
 下々の下々の者や、いやしい山男の仕業ですら、歌にすれば面白い。
 こわいイノシシだって「臥す猪の床」と言えば、優しくもなろう。

 近頃の歌は、一節ぐらいは面白く言い得ているなと思うのもあるけど、古い歌のようにはいかない。言葉の端に、哀れに思える情緒がないのだ。
 紀貫之が関東に下る時に詠んだ「糸による 物ならなくに 別れ路の 心ぼそくも 思ほゆるかな」という歌は『古今和歌集』の中のクズ歌と言い伝えられている。だがこの歌は、今の人間に詠めるような歌とは思えない。昔の歌は、詩の形も言葉もこのようなのが多く、この歌ばかり何故そんなにけなされるのか分からない。ただ『源氏物語』では、この歌の「物ならなくに」の部分を、「物とはなしに」と書き換えて引用している。
 『新古今和歌集』では、源 家長の「冬の来て 山もあらはに 木の葉ふり 残る松さへ 峰にさびしき」という歌がけなされている。本当に、この歌が少しくだけすぎた歌に見えるのだろうか。この歌は、『新古今』入選のとき選考会から「よろしい」と入選を伝えられ、後に後鳥羽院からも「ことさら」って誉められたと家長の日記に書いてある。
 歌の道のみは昔と変わらないと言う人もいるが、そうだろうか。今でも使うおなじことば、おなじ枕ことばでも、昔の人が詠むのと今の人間が詠むのでは全くおなじではない。昔の歌は、安らかで素直で形も整い、哀れも深い。

 『梁塵秘抄』に載る流行歌にすら哀れな言葉があふれている。昔の人の言葉は、ただ言い捨てた言葉さえ素晴らしく聞こえる。

<感想>

 二度と同じ感性の持ち主などあらわれないように、去年と同じように見えても景色は微妙に変わり続けるように、同じ言葉であるから、常に同じ力を持つとは限らない。昔と同じ言葉を詠み込んだからといって昔の歌と同じにはならないよと、兼好は言っている。

 『徒然草』第1段の冒頭「いでやこの世に生まれては、願はしかるべき事こそ多かめれ」から始まった「願はしかるべき事」の検証は12段まででだいたい一区切りついたようだ。前の13段とこの14段では、読書や和歌といった兼好が好む事が書かれている。
 出世欲などの世俗への望みから、男女の恋愛や性欲に住みたい住居、友を求める心と、兼好は第1段から自分が何を望んでいるのかをえんえんと書き続けてきた。これは、兼好が出家するにあたり、出家する為には何を捨て去らねばならないのかを書き並べてみたのだと俺は読む。
 その作業は12段まででだいたい区切りがついたのだろう。あるいは、「願はしかるべき事」を書き続けるのに飽きちゃったのかもしれない。なんにしろ『徒然草』の話題は飛んだ。


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