「子猫は確かに可愛い。
だが、虫を殺すのも子猫を殺すのも罪は同じだ。
居間にあらわれたゴキブリをスリッパで叩き潰して平然としているくせに、子猫を殺す事だけを『残酷』だとか『可哀想』だなんて非難するなら、それは単なる人間の身勝手さから出る勝手な思い込みだ。
だいたい、子猫にしたって飼いきれないからと捨てられ野良になるよりは、とっとと殺されちゃったほうがラクチンだと思わないかね?
さて、可愛い子猫を殺すのは残酷だという視点を捨てて、避妊と子猫殺しの違いを考えてみよう。
子猫の生まれる可能性を根こそぎ奪う避妊手術も、産まれた子猫を殺すのも『子猫がいない』という結果では同じだ。
結果が同じであるなら同罪なのではなかろうか?
避妊手術も子猫殺しも、ただの飼い主の都合だ。
都合だから、『子猫がいない』という結果に対していろいろな『方法』があってしまうのは当然のこと。
方法を選択するには、それぞれの飼い主の経済的な理由や、自由に使える持ち時間などがかかわりあってくる。
時間がなくて金があるなら避妊手術は経済的だ。金さえ出せば『子猫が生まれる可能性』を根こそぎ否認してくれるんだから。
金が無くて暇があるなら、不経済だが生まれてきた子猫を殺したほうが金を使わなくていい。
避妊も子猫殺しも単なる個人の経済やら時間の問題で、飼い主の都合だ。
他人が口を挟むべき事柄ではない。
真に訴えられるは、生まれた子猫を殺せずに野良にしちまう飼い主だと思う。
だが、悲しいかな。
この世には、仕方なしの『子猫殺し』を快楽と誤解する連中が多い。
勘違いした連中は、気持ちいいから殺したんでしょとゲスの勘ぐりをして、『子猫殺し』の飼い主を、『快楽殺人犯』に仕立てあげて嫌悪し罵倒する。
こんな事を言う連中の頭の中には『子猫は可愛いから殺す奴は悪人だ!』という程度の単純な考えしかないが、快楽で子猫を殺せるのなんか、ごく一部の、いや、やめておこう。
『子猫殺し』を快楽だと考える連中は、セックスという快楽を知らないガキがセックスって気持ちいいのかなと思いつつも嫌悪するのと同じだ。
実体を知らない周囲がワイワイ騒いでいるだけだ。
自分の飼い猫が産んだ子猫を快楽で殺す奴なんかいるかっ?
いるかもしれないが、でも、ほとんどは『ごめんなさいっ』て思いながら殺しているはず。
なぜ、『子猫殺し』が快楽と誤解されるのか?
嫌いなゴキブリや蚊を叩き殺した時に人は快感を感じるからだ。
魚釣りも狩猟も快感をともなう。
なら、可愛い子猫ちゃんを殺したら、さぞかし気持ちいいんでしょうねと考えつつ、自分が知らない快楽を味わった者に嫉妬し、まだ知らぬ快楽に怖れを抱きつつも、『子猫は可愛いから殺す奴は悪人だ!』という単純な思え方で自分は正義だと信じて子猫を殺した者を罵倒する。
自分の醜さを知れ。
他人をせめる前に、子猫殺しを快楽で行っているという醜い考えかたをしてしまう自分をせめろ。
俺は死神である。
死んでしまえば、寒くも暑くもない。
空腹も感じない。
まったく苦しくない。
これこそ最高の救いである。
死は生きる者にとって最期の慈悲である。
我等死神は死の慈悲を信じ死に全てをゆだねる者。
死こそが最期にたどりつく生命の安息地であり、死のみが救いである。
その観点に立つ時、全て人の思いは身勝手な妄執であると知るだろう。
人間は決定確実、平等に与えらえた死に従うだけの迷える生者だ。
安息は死以外には求められない、あろうはずもない。
地獄あるなら生こそが地獄だ。
極楽あるならそれこそが死だ。
死神はやがて死んじまう生者を応援する、迷える生者のパートナーなのである!」
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