「仮に映画を観に行ったら、今年の夏休みの人気作品だけあって、客の入りは上々だ。
明かりが消えると『禁煙』の灯りがうざい。
開演のブザーが鳴る。
幕が空いてスクリーンに明かりが投射され映画がはじまる。
長い広告に、長いテロップ。飽きかけた頃にやっと本編がはじまる」
「なんの映画?」
「推理サイコサスペンスだ。犯人が誰なのかは最後まで分からない。
ズシャー!
シャワーの吹き出す音と、湯に揺れる女体。いわゆる『シャワー・シーン』だ。女優はブロンドの絶世の美女。
あらわにたわわにゆさゆさと恥ずかしげもない豊満なナイス・バディー」
「うーん、栄養ゆきわたってるぅってかんじだね!」
「そこで場面転換。ヒロインの部屋の前に男が立っている。
男は黒いコートに黒い中折れ帽。
サングラスにマスクという異様な風体。
男は、ポケットからキーホルダーにも繋がれていないむき出しの鍵を取り出す。男の手には白い棉製の手袋。
鍵はギラリと反射するとスルリと彼女の部屋のドアノブの鍵穴に収まる。
ガチャリ!
ドアは音もなく開いた」
「ちょっと待って、音もなくって、今ガチャリいうたじゃん」
「コマケェな。このガチャリは心の音だ。ほぼ、無音ということで了解しろ」
「了解」
「異様な男は、室内に入るとザバザバと水音のするバスルームに足音もたてずに近寄る。もちろん、この時の足音もたてずは、ほぼ無音ということだ。
歩きながら男はコートから凶器を取り出した。
それは、あまりに禍々しい凶器。
木製の柄に重たい刃のついた斧。
斧の刃は、上半分を赤く塗られ、禍々しさのみがイヤにも目につく」
「斧はイヤだねぇ」
「まさにオーノーみたいなかんじだな」
「いや、シャレはいいから」
「男はバスルームの前に到着した。
手袋をたくし上げ、帽子を深くかぶり直し、右手の斧を高々と振り上げる。
そして、ゆっくりと扉を開ける。
ヒロインはギョッとしてバスタブの中から男を見上げる。彼女の額には多数のしわが寄り、目は大きく見開かれているが、状況を理解する間もなかった。
悲鳴をあげる間もないほど素早く男の斧は彼女の頭頂に到達した。
ガゴ!
一瞬で頭は割れくだけ、斧の先は面白いように頭蓋骨を砕きつつやっと鼻の上で止まった、彼女は脳をバスルームにぶちまけながらたちまちに息絶える。
場面転換、夕闇の町を早足で歩く男の後ろ姿。
男は黒いコートに黒い中折れ帽。何を急ぐのか脇目もふらずに闇の中に消えて行く。
ところで、この急いでいる男はどこの誰だろう?」
「どこの誰だか知らないけど、彼女を殺した犯人でしょ?」
「そうだな。そこで映画館という現実に戻る。
彼女を殺した犯人の後ろ姿が映る画面が流れる中、1人の中年サラリーマンが営業中の空き時間のひまつぶしに映画館に入ってきた。
この中年サラリーマンが、この映画ではじめて見た場面は、黒いコートに黒い中折れ帽の男の後ろ姿だ。誰か親切な人が、あの劇中の黒い男は女を殺した犯人ですよと教えてあげない限り、中年サラリーマンは、黒い男を犯人だとは思わないだろう。ただの男の後ろ姿にしか見えない。
はじめから見ていた人間にとっては、犯人の後ろ姿以外ではない場面でも、その場面から見はじめた人間にしてみりゃ単なる男の後ろ姿だ。
その後ろ姿を犯人だと思ってもらいたいと監督は演出したんだろう。
だが、その場面の後ろ姿を犯人だと意味づけるのは観客だ。どんなに素晴らしい演出だろうと途中からじゃ意味は分からない」
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