墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

ペコペコ様

2006-08-15 18:42:51 | 日本語

 俺は木村実。
 中学1年目の夏休みだってのに部活の夏期練習につきあわされて、午前中で終わるって話だったから、弁当も持たずに来たら解放されたのは昼過ぎの3時前。信じらんねぇ、腹減った。
 友人とトボトボ帰り道を歩いていたら、一緒に歩いてた友人のうっちんが言う。

「あー、腹へったな」

「うん、ペコペコ」

 さて、この場合、「うん、ペコペコ」だけ取り出すなら、お前は「ペコペコ様」かと突っ込みたくもなるが、どうやらそうではないらしい。
 彼は木村実だ。
 「うん、ペコペコ」を、英訳してみよう。

Yes, I am Pecopeco. (はい、私はペコペコです)

 もしくは、

Yes, my stomach is Pecopeco. (はい、私の胃はペコペコです)

 うーん。

 ペコペコが英語にならないので、英訳しにくいんだけど、あえて英訳するとすれば「うん、ペコペコ」は、「Yes, I starve, too. (はい、私も飢えています)」であろう。
 ようするに友人の「腹へったな」という言葉への同調である。
 それを、ペコペコで全てすませている。

 日本語はこんな言語なのである。「うん、ペコペコ」には、もはや主語も述語もない。他人が発した言葉を修飾しているだけだ。
 だから、日本語に「主語」は存在しないと言うのも分かっていただけるかと思う。もう1例あげてみよう。


俺はウナギ!

2006-08-15 17:59:09 | 日本語

 俺は木村実。昼飯を食いに、彼女とそば屋に来た。
 メニューを俺に見せながら彼女は聞く。

「実さんは何を食べる?」

「俺はウナギ!」

 「俺はウナギ!」という返事だけ取り上げると、お前はウナギかよとなるが、そうではない。
 彼は木村実だ。
 彼女の「何を食べる」という質問に対して出てきた答えが「俺はウナギ!」なのだ。

 しかし、英語であるなら、「俺はウナギ!」なんていうどっちつかずの言い回しはしない。

I am an eel. (私はウナギです)
I eat the eel. (私はウナギを食べます)

 英語ならどちらかしかない。しかし、「俺はウナギ!」だけ取り上げると、どちらにだって意味がとれる。
 だが、日本語を使う人間なら「なに食べる?」と聞いた返事が「俺はウナギ人間だ!(私はウナギです!)」と勘違いする人間はあまりいない。
 べつに「ウナギ」と言うだけだって、聡明な彼女なら、木村実はウナギを食べたいんだなと察してくれるだろう。逆を言うなら、「ウナギ!」ですむのに、わざわざ「俺は」なんて言い出すから話がややこしくなる。

 日本語に「主語」はない。
 この話は、「大野 晋」という先生の著作に多くを教えられて書く。文法の質が、そもそも「主語」→「述語」の英語とは、日本語はちがうのだ。
 なのに、英語的な文法で日本語の文法をくくろうとするからおかしなる。


ぶっちゃけ

2006-07-30 20:07:55 | 日本語
 片付けられない性格よりは、ぶっちゃけられない性格の方がまだマシだなと思うが、ぶっちゃけ言って「ぶっちゃけ」ってなんだ?

 「ぶっちゃけ」の「ぶっ」は、「ぶっ壊す」だとか「ぶっ飛ばす」などの「ぶっ」と同じくただの接頭語でグリコのオマケにすぎない。一粒100メートルの威力を持つ言葉の本体は「ちゃけ」にある。
 「ぶっ」てのは、とても力強い接頭語で、「ぶっちゃけ」という言葉を流行らせたのは関西人の岡村隆史であるが、どこか関東的なにおいのする言葉だなと思う。

 「打ち壊す」ってのが京都風な正統の日本語であるなら、「ぶち壊す」は田舎臭いが力のある表現だ。
 本来は「打ち」と言うべきがなまって「ぶち」になり、力強い「ぶち壊す」となる。
 気の短い関東の人によって「ぶち」さえも「ぶっ」と短縮され「ぶっ壊す」となると、さらにスピード感まで出てくる。

 ところで、山口県の人は形容詞のあたまになんでも「ぶち」をつける。
 たしか若いとき交遊のあった山口県人も「ぶち」を愛用していたと記憶している。「ぶちすごい」とか「ぶち美しい」とか「ぶち麗しい」とか言ってたような言ってなかったような曖昧な記憶がある。

 「ぶっちゃけ」の「ぶっ」が接頭語なのは解った。じゃあ「ちゃけ」ってなんなのと聞かれるならめんどくさいが説明せねばなるまい。
 「打ち明ける」というかなり正統な日本語が「ぶっちゃけ」の語源であろうと言うのがもっぱら巷の説だ。
 本当は「打ち明ける」をさらに強調した表現になりたかったので、それで「ぶちあける」になろうとしたが、なんとなく言いにくいので浸透しないうちに、「ぶちまける」や「ぶっ散らかす」のニュアンスなんかもなんとなく加わって「ぶっちゃけ」が完成したと思われる。
「この大バカヤロぉ! お前の馬鹿さかげんには父ちゃん情けなくて涙でてくらぁ」の『あばれはっちゃく』の自由奔放な悪ガキのイメージも「ぶっちゃけ」の成立にまた一役かっていると想像する。
 ようするに基本の意味は接頭語プラス動詞の「打ち明ける」のハイ・グレード版なわけなのだが、「ぶっちゃけ」の「ちゃけ」は雰囲気的な言葉でまったくどうしようもなく動詞なんかではない、いろんな意味や気持ちのつまった複合語だ。動詞でない証拠に命令形にできない。「ちゃけろ!」と命令されてもどうしていいのかまったくわからないはずだ。

 「ぶっちゃけ」の意味は「打ち明ける」的な告白よりも、さらにオープンに心のオブラード全解放せよという意味だ。
 何もかもを包み隠さず全開オープンが「ぶっちゃけ」の心だとおもう。
 少しも隠してはならぬ。
 それが「ぶっちゃけ」の意味だろう。だから、簡単に「ぶっちゃけ」とかいう連中がなんとなく許せない、ぜんぜんまったくぶっちゃけてもいないくせに平気でぶっちゃけとか言う。それでぶっちゃけているつもりなのかとイライラする。
 さらに自分はまったくぶっちゃけるつもりもないくせに、飲み会などで他人に「ぶっちゃけ」を強要する人間を見ると怒りを覚える。
 フルチンである。
 フルチンこそ「ぶっちゃけ」である。
 フルチンで泣きながら告白こそ真の「ぶっちゃけ」だ。
 それ以外は「ぶっちゃけ」と認めぬ。


徒然草

2005-07-24 19:17:37 | 日本語
 リンボウ先生こと、林望はドクトルまんぼうのファン。
 オー!俺も好きだよ、北杜夫。それだけでリンボウ先生のファンになった。
 でも俺、「楡家の人々」は完読してないんだよね。すいません。ごめんなさい。
 そのリンボウ先生の古典おすすめコースが、徒然草からはじまり、今昔物語、平家物語で源氏物語。
 正直、俺は落語が好きで江戸の戯作にもひかれるが、古典は時代別に攻めて行ったほうが良いらしい。同じ言葉であっても、時代により意味が違う事がありえる。
 例えばぜんぜん。
 あなたのお父さんは「ぜんぜん駄目だ!」と否定し、あなたは「全然いいじゃん!」と歓声をあげる。この二人の言語感覚の世代差はぜんぜんに全然だ!時代により言葉の意味が逆転する事がある。同時進行で紫式部と井原西鶴を読んでくとわけわかんなくなる。
 とりあえず、リンボウ先生の教えに沿い徒然草を読んでみる事にする。ヒマのマヒマヒだし。


読書

2005-07-24 18:40:31 | 日本語
 中高生の時分は本の虫で、いつかは日本の古典文学にも触れねばならないと思いつつSFを読んでた。俺は快楽主義者。快楽が大好き。この本を読めば頭が良くなると言われても、つまんない本なんか読みたくもないし、触れたくもない。読書は快楽の為にのみある。知識教養の補強の為だけに本を読むのはなんとなくあわれでものがなしい。大人になって、本を読まなくなった。仕事で忙しいんだ。本なんて悠長なもん読んでるヒマがあるか。ベラボーめ、こちとら宵越の銭はもたねー。ってか宵越の銭すらもたねー江戸っ子でぃ。いや、ホントは多摩っ子だけど。生まれは神奈川ね。
 最近、自分の作文に疑問を持ち、わかってもらえているんだろうかと不安になった。そして、俺はちゃんと人様にわかってもらえる作文を書けてるのかと不安になる。てゆーか、今の俺の作文では理解するのに読解力だけでは不足だ。正確に理解するには推理力と優しいまなざしが必要となる。