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★『はだしのゲン』撤去要請、お前が言うか杉原誠四郎

故中沢啓治氏が広島での被爆体験を基に描いた漫画『はだしのゲン』が今ごろ問題になっています。当ブログは中沢氏の体験と核兵器使用への怒りを重く受け止めますが、米国による戦争犯罪である原爆投下への非難が反日、反天皇、原爆容認に転化する思考や感情は非常に歪んだものであり、教育現場で推奨すべき刊行物ではないと考えます。
さて、教科書採択で惨敗し、運動目標探しを続ける「新しい歴史教科書をつくる会」は11日、『はだしのゲン』を有害図書として教育現場から撤去するよう下村博文文部科学相宛に要請書を提出しました。
有害図書は都道府県青少年保護育成条例に基いて都道府県が指定するものであって、要請先が間違っています。国に陳情するにしても青少年育成の所管は内閣府です。
それはともかく、「新しい歴史教科書をつくる会」が『はだしのゲン』の撤去を要請する理由が①日本軍による残虐行為②天皇の戦争責任③原爆容認論―が描かれているから、とあるのを見て「お前が言うか!」と叫んでしまいました。
 
当ブログで指摘してきた通り、「新しい歴史教科書をつくる会」会長、杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は①南京攻略の際に日本軍による不法殺害があった②昭和天皇に戦争責任がある③原爆の犠牲に意味があった―と主張してきたのです。改めてまとめてみました。
 
 ■南京で不法殺害があったと主張する杉原誠四郎
 
杉原誠四郎は南京攻略について、著書で「不法殺害された中国の兵士、一般市民がまったくなかったとはいえない」「婦女子暴行、窃盗などの不祥事が多く起こった」「日本兵によって不法に、かつ残虐に殺害された者がいるであろう」「南京事件は、不名誉な事件であった」などと主張してきました。 
ドイツのユダヤ人虐殺に比較されるものとして、昭和12年(1937年)に起きた南京事件があるが、この場合、日本軍兵士の乱暴狼藉、それゆえの中国兵や中国民間人に対する不法殺害がまったくないわけではなかったが、(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』大正出版p57)

たしかに、1937年(昭和12年)日中戦争のさなか、日本軍の南京攻略において、不法殺害された中国の兵士、一般市民がまったくなかったとは言えない。(中略)
日本軍には、捕虜を収容する準備がほとんどなく、戦闘行為のなかでの中国兵の大量殺害に対して無遠慮で過酷であったことはたしかである。また、いったん捕えた捕虜に対して日中双方で殺害する例がひんぱんにあったようだから、このときも捕虜で殺害された者もいることは想像できる。
計画をこえて多くの日本兵が南京城内に入り、軍紀が乱れ婦女子暴行、窃盗などの不祥事が多く起こったことも事実である。司令官松井石根が泣いて怒ったというエピソードがあるぐらいだから相当のものだったようだ。東京の参謀本部から本間雅晴少将が、1938年(昭和13年)2月日本軍の暴行を問題にして南京に出張したというのであるから、日本軍の不祥事件があったことはたしかだ。(中略)
しかしそれにしてもこれだけの人数の民間人や兵士が殺害されたのだから、そのなかに日本兵によって不法に、かつ残虐に殺害された者がいるであろうことは想像に難くない。日本軍は明治の建軍以来、勇敢で軍律のきびしいことでは世界的に高く評価されてきた軍隊であったが、その日本軍にとっても、この南京事件は、不名誉な事件であったと言わなければならないのである。(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』亜紀書房p191~200)

 ■昭和天皇に戦争責任があると主張する杉原誠四郎
 
杉原誠四郎は先の大戦について、東条英機らの政治的責任に加え昭和天皇に道義的責任があり、昭和天皇は退位すべきだったのに吉田茂がさせなかったのはけしからん。だから日本は昭和天皇の道義的責任を明示できないできた…と主張してきました。
日本は歴史の清算、総括をしていないとよく言われるが、実は昭和天皇はそのために退位を望んだことがあった。占領初期はその退位が契機となって天皇制が崩壊する可能性があり、軽はずみには退位できなかった。が、占領解除が明らかになった時点では、天皇制崩壊の恐れもなくなって、昭和天皇は改めて退位を希望した。この誠実な天皇は、法的には戦争責任がないとはいえても道義的には責任があることを十分に承知していた。かの失敗の歴史を反省する意味において昭和天皇の退位には意味がでてくる。
しかし、時の総理大臣吉田茂がそれを喜ばず、退位を認めなかった。昭和天皇としてはもっと強く退位を主張すべきだったともいえるが、天皇が退位すれば吉田も首相を辞めなければならなくなるから、吉田としては認めるはずはなかった。
誠実な昭和天皇の下に繰り広げられた昭和の失敗の歴史を、同じく昭和天皇の下で復興繁栄の時代に変えてあげたいという国民の潜在的願いもさることながら、昭和天皇の道義的責任も明示することなく進んだ結果は、日本という国は戦争責任を明確化する機会をもたず、戦争責任を明確にしてこなかったということを意味する。吉田茂は国民に対してそのようなことをしたのである。(杉原誠四郎『保守の使命』自由社p141~142。『民主党は今こそ存在感を示す時』文化書房博文社p239~240にも同様の記述)

 ■原爆の犠牲に意味があったと主張する杉原誠四郎

杉原誠四郎は「ポツダム宣言をすぐに受諾しなかったから原爆が落ちた」「原爆で亡くなった人たちは、ポツダム宣言受諾を引き出したということにおいては犬死にではなかった」つまり、降伏するための「意味のある死」だったと原爆容認論を主張してきました。
しかしこの宣言(引用者注:ポツダム宣言)のできていく過程をみていくと、これはそのとき「壊滅」に向かって進んでいた日本を救出しようとして出されたものであることがよくわかります。
残念ながらポツダム宣言が出たとき日本はすぐには受諾しませんでしたので、原爆が落ち、ソ連参戦となりました。(『教科書が教えない歴史』産経新聞ニュースサービス p45~46 杉原誠四郎「分断国家化から救ったポツダム宣言」)

けれども、グルーを応援していたスチムソンという、これは戦争の時開戦から終戦まで陸軍長官でしたんですけれども、そのスチムソンという人が、原爆実験成功の情報が入ってきて、日本がこのポツダム宣言を受けなかったら原爆を落とすという手段があるのだから、今出してもいいではないかというように言ったために、ポツダム宣言を出すことになったんです。出して、日本はまだ軍部が実権をにぎっていましたから、すぐに受けなかったんですね。それで、原爆が落ちたわけです。
そこから言うと、原爆で死んだ人も、ポツダム宣言受諾を引き出したということにおいては犬死にではなかったんですね。私は広島出身ですけれども、このことを、広島で言ったら原爆投下を肯定したと言って、ずいぶん責められました。もう少し、客観的にものを見なければいけないと思うんですけれども残念です。死んだ人はかわいそうだし、原爆というのが許される兵器ではないことは分かります。けれども、そういう状況の中で落ちたということも知らなければならないと思いますね。(杉原誠四郎『日本外交の無能と戦争責任』國民會館p24~25)

 
では、『はだしのゲン』の原爆観と「新しい歴史教科書をつくる会」会長、杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)の原爆観を並べてみましょう。

原爆の破壊力と惨状が天皇はじめ戦争狂の指導者をふるえ上がらせ 自らも原爆で殺されると慌てて無条件降伏のポツダム宣言を受けとって戦争はおわったんじゃ 戦争をおわらせたのは広島、長崎約30万人以上の死者と生きのこった被爆者約37万人の姿じゃ… 日本人は広島、長崎の犠牲に感謝せんといけんわい(『はだしのゲン』)

ポツダム宣言を出すことになったんです。出して、日本はまだ軍部が実権をにぎっていましたから、すぐに受けなかったんですね。それで、原爆が落ちたわけです。そこから言うと、原爆で死んだ人も、ポツダム宣言受諾を引き出したということにおいては犬死にではなかったんですね。(杉原誠四郎)

どこが違うのでしょうか。
  
※杉原誠四郎の歴史観 詳細はこちら
 ★つくる会会長「南京事件あった」―杉原誠四郎の歴史観〈1〉
 ★つくる会会長「天皇に戦争責任」―杉原誠四郎の歴史観〈2〉
 ★つくる会会長「韓国併合は暴挙」―杉原誠四郎の歴史観〈3〉
 ★つくる会会長「民主党に期待」―杉原誠四郎の歴史観〈4〉
 ★つくる会会長「原爆の犠牲に意味あった」―杉原誠四郎の歴史観〈5〉
 ★つくる会会長「加瀬俊一は犯罪的」―杉原誠四郎の歴史観〈6〉
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