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★『はだしのゲン』撤去要請、お前が言うか杉原誠四郎

故中沢啓治氏が広島での被爆体験を基に描いた漫画『はだしのゲン』が今ごろ問題になっています。当ブログは中沢氏の体験と核兵器使用への怒りを重く受け止めますが、米国による戦争犯罪である原爆投下への非難が反日、反天皇、原爆容認に転化する思考や感情は非常に歪んだものであり、教育現場で推奨すべき刊行物ではないと考えます。
さて、教科書採択で惨敗し、運動目標探しを続ける「新しい歴史教科書をつくる会」は11日、『はだしのゲン』を有害図書として教育現場から撤去するよう下村博文文部科学相宛に要請書を提出しました。
有害図書は都道府県青少年保護育成条例に基いて都道府県が指定するものであって、要請先が間違っています。国に陳情するにしても青少年育成の所管は内閣府です。
それはともかく、「新しい歴史教科書をつくる会」が『はだしのゲン』の撤去を要請する理由が①日本軍による残虐行為②天皇の戦争責任③原爆容認論―が描かれているから、とあるのを見て「お前が言うか!」と叫んでしまいました。
 
当ブログで指摘してきた通り、「新しい歴史教科書をつくる会」会長、杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は①南京攻略の際に日本軍による不法殺害があった②昭和天皇に戦争責任がある③原爆の犠牲に意味があった―と主張してきたのです。改めてまとめてみました。
 
 ■南京で不法殺害があったと主張する杉原誠四郎
 
杉原誠四郎は南京攻略について、著書で「不法殺害された中国の兵士、一般市民がまったくなかったとはいえない」「婦女子暴行、窃盗などの不祥事が多く起こった」「日本兵によって不法に、かつ残虐に殺害された者がいるであろう」「南京事件は、不名誉な事件であった」などと主張してきました。 
ドイツのユダヤ人虐殺に比較されるものとして、昭和12年(1937年)に起きた南京事件があるが、この場合、日本軍兵士の乱暴狼藉、それゆえの中国兵や中国民間人に対する不法殺害がまったくないわけではなかったが、(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』大正出版p57)

たしかに、1937年(昭和12年)日中戦争のさなか、日本軍の南京攻略において、不法殺害された中国の兵士、一般市民がまったくなかったとは言えない。(中略)
日本軍には、捕虜を収容する準備がほとんどなく、戦闘行為のなかでの中国兵の大量殺害に対して無遠慮で過酷であったことはたしかである。また、いったん捕えた捕虜に対して日中双方で殺害する例がひんぱんにあったようだから、このときも捕虜で殺害された者もいることは想像できる。
計画をこえて多くの日本兵が南京城内に入り、軍紀が乱れ婦女子暴行、窃盗などの不祥事が多く起こったことも事実である。司令官松井石根が泣いて怒ったというエピソードがあるぐらいだから相当のものだったようだ。東京の参謀本部から本間雅晴少将が、1938年(昭和13年)2月日本軍の暴行を問題にして南京に出張したというのであるから、日本軍の不祥事件があったことはたしかだ。(中略)
しかしそれにしてもこれだけの人数の民間人や兵士が殺害されたのだから、そのなかに日本兵によって不法に、かつ残虐に殺害された者がいるであろうことは想像に難くない。日本軍は明治の建軍以来、勇敢で軍律のきびしいことでは世界的に高く評価されてきた軍隊であったが、その日本軍にとっても、この南京事件は、不名誉な事件であったと言わなければならないのである。(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』亜紀書房p191~200)

 ■昭和天皇に戦争責任があると主張する杉原誠四郎
 
杉原誠四郎は先の大戦について、東条英機らの政治的責任に加え昭和天皇に道義的責任があり、昭和天皇は退位すべきだったのに吉田茂がさせなかったのはけしからん。だから日本は昭和天皇の道義的責任を明示できないできた…と主張してきました。
日本は歴史の清算、総括をしていないとよく言われるが、実は昭和天皇はそのために退位を望んだことがあった。占領初期はその退位が契機となって天皇制が崩壊する可能性があり、軽はずみには退位できなかった。が、占領解除が明らかになった時点では、天皇制崩壊の恐れもなくなって、昭和天皇は改めて退位を希望した。この誠実な天皇は、法的には戦争責任がないとはいえても道義的には責任があることを十分に承知していた。かの失敗の歴史を反省する意味において昭和天皇の退位には意味がでてくる。
しかし、時の総理大臣吉田茂がそれを喜ばず、退位を認めなかった。昭和天皇としてはもっと強く退位を主張すべきだったともいえるが、天皇が退位すれば吉田も首相を辞めなければならなくなるから、吉田としては認めるはずはなかった。
誠実な昭和天皇の下に繰り広げられた昭和の失敗の歴史を、同じく昭和天皇の下で復興繁栄の時代に変えてあげたいという国民の潜在的願いもさることながら、昭和天皇の道義的責任も明示することなく進んだ結果は、日本という国は戦争責任を明確化する機会をもたず、戦争責任を明確にしてこなかったということを意味する。吉田茂は国民に対してそのようなことをしたのである。(杉原誠四郎『保守の使命』自由社p141~142。『民主党は今こそ存在感を示す時』文化書房博文社p239~240にも同様の記述)

 ■原爆の犠牲に意味があったと主張する杉原誠四郎

杉原誠四郎は「ポツダム宣言をすぐに受諾しなかったから原爆が落ちた」「原爆で亡くなった人たちは、ポツダム宣言受諾を引き出したということにおいては犬死にではなかった」つまり、降伏するための「意味のある死」だったと原爆容認論を主張してきました。
しかしこの宣言(引用者注:ポツダム宣言)のできていく過程をみていくと、これはそのとき「壊滅」に向かって進んでいた日本を救出しようとして出されたものであることがよくわかります。
残念ながらポツダム宣言が出たとき日本はすぐには受諾しませんでしたので、原爆が落ち、ソ連参戦となりました。(『教科書が教えない歴史』産経新聞ニュースサービス p45~46 杉原誠四郎「分断国家化から救ったポツダム宣言」)

けれども、グルーを応援していたスチムソンという、これは戦争の時開戦から終戦まで陸軍長官でしたんですけれども、そのスチムソンという人が、原爆実験成功の情報が入ってきて、日本がこのポツダム宣言を受けなかったら原爆を落とすという手段があるのだから、今出してもいいではないかというように言ったために、ポツダム宣言を出すことになったんです。出して、日本はまだ軍部が実権をにぎっていましたから、すぐに受けなかったんですね。それで、原爆が落ちたわけです。
そこから言うと、原爆で死んだ人も、ポツダム宣言受諾を引き出したということにおいては犬死にではなかったんですね。私は広島出身ですけれども、このことを、広島で言ったら原爆投下を肯定したと言って、ずいぶん責められました。もう少し、客観的にものを見なければいけないと思うんですけれども残念です。死んだ人はかわいそうだし、原爆というのが許される兵器ではないことは分かります。けれども、そういう状況の中で落ちたということも知らなければならないと思いますね。(杉原誠四郎『日本外交の無能と戦争責任』國民會館p24~25)

 
では、『はだしのゲン』の原爆観と「新しい歴史教科書をつくる会」会長、杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)の原爆観を並べてみましょう。

原爆の破壊力と惨状が天皇はじめ戦争狂の指導者をふるえ上がらせ 自らも原爆で殺されると慌てて無条件降伏のポツダム宣言を受けとって戦争はおわったんじゃ 戦争をおわらせたのは広島、長崎約30万人以上の死者と生きのこった被爆者約37万人の姿じゃ… 日本人は広島、長崎の犠牲に感謝せんといけんわい(『はだしのゲン』)

ポツダム宣言を出すことになったんです。出して、日本はまだ軍部が実権をにぎっていましたから、すぐに受けなかったんですね。それで、原爆が落ちたわけです。そこから言うと、原爆で死んだ人も、ポツダム宣言受諾を引き出したということにおいては犬死にではなかったんですね。(杉原誠四郎)

どこが違うのでしょうか。
  
※杉原誠四郎の歴史観 詳細はこちら
 ★つくる会会長「南京事件あった」―杉原誠四郎の歴史観〈1〉
 ★つくる会会長「天皇に戦争責任」―杉原誠四郎の歴史観〈2〉
 ★つくる会会長「韓国併合は暴挙」―杉原誠四郎の歴史観〈3〉
 ★つくる会会長「民主党に期待」―杉原誠四郎の歴史観〈4〉
 ★つくる会会長「原爆の犠牲に意味あった」―杉原誠四郎の歴史観〈5〉
 ★つくる会会長「加瀬俊一は犯罪的」―杉原誠四郎の歴史観〈6〉
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★つくる会会長「加瀬俊一は犯罪的」―杉原誠四郎の歴史観〈6〉

今回はこの問題を取り上げます。

 
杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)が「新しい歴史教科書をつくる会」の会長に就任したとき「えっ? いいの?」と思った人もいると思います。自由社の加瀬英明社長の父君との因縁があるからです。
 
加瀬英明氏の父君、加瀬俊一氏は誰もが知る元外交官で、日ソ中立条約の締結時に随行し、ミズーリ号での降伏文書調印にも立ち会い、戦後は初代国連大使などを務めました。退官後、日本会議の前身である日本を守る国民会議の初代議長を務め、高校教科書「新編日本史」の発行などに尽力した憂国の士です。
 
杉原誠四郎は一連の著作で、先の大戦の戦争責任は外務省(そして昭和天皇)にあり、中心人物は加瀬俊一氏だとしつこく述べています。「諸君!」の平成10年1月号には「真珠湾 外務省の責任カクシはいつまでつづく―加瀬俊一氏への公開質問」と題した文章を書きました。この公開質問は『杉原千畝と日本の外務省』に収録されています。
そこでいまなお健在の加瀬俊一に公開質問をすることになる。
加瀬は、外相松岡洋右の秘書官を務め、日米交渉のクライマックス時の外相東郷茂徳のもとでも、秘書官兼主管課長を務め、前記、井口武夫が本省の責任を問うとしたとき、東郷のもとでもっとも責任のある部署にいた人物である。そして終戦後、この時点で情報局第三部長を務めていた。
重光葵はその手記で、真珠湾攻撃は昭和天皇も知らないところのものであることに驚き、「事の重大なるを以て加瀬君を招致し移牒研究せしむ」とこの件に関し、加瀬との関わりを述べている。そして重光辞任後の吉田茂外相のもとで行われた天皇謁見に関する右の新聞記者クルックホーンが『ニューヨーク・タイムズ』に載せた記事では、吉田が天皇の手渡した回答書に外務大臣として承認したことを、加瀬から聞いたと伝えている。
加瀬には、この時点で真珠湾「騙し討ち」の真相がわかっていなかったからとは言わせない。このとき立ち会った奥村はアメリカ英語が不得意にもかかわらず、そして吉田を知らないのにかかわらず吉田によって指名されたと、後に述べているからである。
すなわち、真珠湾「騙し討ち」はワシントンの日本大使館の事務執行の失態によって起こったことを十分に知りながら、計をめぐらし、「騙し討ち」は東條がしたのだと嘘の回答を天皇にさせた者が外務省の中にいる。加瀬か、加瀬でなければ、加瀬の見届けられるところにいたはずである。加瀬はこの深刻にして重大な史実に関し、ことの真相を証言する義務がある。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p7~8)

これに対し「諸君!」3月号で加瀬俊一氏に代わって英明氏が簡単な反論を書きました。「論旨がきわめて薄弱であって、要領をえない内容である」とした上で「その後、杉原氏は父のもとへ手紙を寄せて、先の『公開質問状』に答えることを要求している。杉原氏の手紙は横書きのワープロで打ったもので、冒頭に季節の挨拶もない。(中略)もし回答がなかった場合は『一方的に加瀬様への批判をさせていただく』というものである。杉原氏はこれまで父に何回か質問状を送ったという。父のもとには多くのマニアのような街の歴史研究家から奇矯な手紙が寄せられるが、そのままにしている。なぜ、しかるべき紹介者をたてて、教えを乞わなかったのか」と、杉原誠四郎はストーカー扱いされています。
 
杉原誠四郎はこの加瀬英明氏による反論が不満で、「犯罪的」「しらばくれている」などと加瀬俊一氏に対する非難のトーンを上げました。この『杉原千畝と日本の外務省』はほとんど加瀬俊一批判のための本です。
加瀬俊一が真珠湾の「騙し討ち」に関する外務省の責任の隠蔽工作に重要なかかわりをもっているというのは明白なことではないか。しかるに加瀬俊一はこの史実に対して証拠をもって指摘されるまで、50年以上沈黙してきた。そのことについて責任を問うているのである。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p21)

(引用者注:加瀬俊一氏の昭和24年の著書『Journey to the “Missouri”』について)それでもこの本は犯罪的である。この時点でこの本のもつ許しがたい犯罪的とも言える問題点は、この本が外務省の戦争責任を問うことについて、回避していることである。日米戦争にかかわる日本側の戦争責任をすべて軍部に押し付けて、外務省の責任をすべて抜き取っているのである。(中略)その観点からすれば、加瀬がこの本を書いた時点では、そこまで意図したものではなかったとしても、その後の展開からすれば、この本の果たした役割は犯罪的であったということになる。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p109~p112)

(引用者注:加瀬俊一氏の著書にある)「外務省以外の諸官庁は多く軍部の言ふところに習慣的に追随したが、ひとり外務省だけは時には敢然として軍部に挑戦し、侵略政策に反対する勇気を示した」というのは、少しでも外務省の歴史を調べた者なら思わず「よく言うよ」と唸ってしまう言い草である。(中略)右のような加瀬の言い草は、原本をアメリカで英語で発行し、そして日本では占領下という特異な状況のもと歪んだ言語空間のなかで初めて言える言い草であると言うよりほかはない。
(中略)要するに、あるときは明らかに軍国主義に積極的に加担し、その一方で軍部が暴走すると、それを差し止めるだけの世界の情勢に関する情報と、その分析結果をもっておらず、したがって将来を展望した効果的な説得ができず、結局は軍部に追随していくよりほかにすることがなかったというのが実相ではないか。そして外務省の専管事項である外交の場では、肝心なところでつねに失態を重ねたのではないか。こうして結果として途方もなく日本国民に災厄をもたらしたというのが、戦前の日本の外務省の実体ではないのか。加瀬のこの本はこうした外務省の戦争責任を完全に回避して、しらばくれているのだ。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p114~117)

「騙し討ち」の責任者を外務次官にし、そのことによって真珠湾の「騙し討ち」の失態を国民から隠してしまった吉田茂を讃えることは、吉田に重用され、恩のある身であるとは言え、研究者の取るべき態度ではなかろう。それとも、加瀬はその責任隠しに積極的に加担、共犯の立場に立つことを覚悟したのか。そこに加瀬の研究者としての矛盾がある。
結局、総じて言えば、加瀬の外交史の研究は外務省の戦争責任隠しの研究であるということになる。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p134)

加瀬俊一は少なくとも日米交渉の研究者になるべきではなかった。(中略)当事者たる加瀬が、これらについて、知っておりながら、研究書でいっさい触れていないからである。いずれも加瀬にとって都合の悪いことばかりである。
要するに加瀬の日米交渉史の研究では、加瀬の個人的都合も反映させながら、日米交渉における外務省の責任がすっぽりと抜け落ちている。日米開戦という結果に終わり、しかも未曾有の悲惨に日本国民を陥れた外務省の責任をすっぽり抜かしてあるのである。
(中略)加瀬も嘆くこのような日本になったのは、この前の戦争、とくに日米戦争に対する誤った認識が大きく影響している。なぜそのような誤った戦争認識が形成されたのか、加瀬の誤った歴史記述が大きく起因してはいないか。外務省の反省がすっぽり抜け落ちた歴史記述によって、真には戦前への反省のない反国民的外交が引き継がれてきたのではないか。東京裁判を批判しながらも、現実には東京裁判判決が垂れ流され、いわゆる東京裁判史観が流布する社会構造を作り上げてしまったのは、加瀬自身の日米交渉史にも大きく因っているのではないか。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p144~148)

この連載で杉原誠四郎が「南京事件は、不名誉な事件であった」と書いた『日米開戦以降の日本外交の研究』を英語や支那語(繁体字)に翻訳して世界に発信しているとお伝えしましたが、杉原はこの『杉原千畝と日本の外務省』も英語版を出版しています。「加瀬のこの本はこうした外務省の戦争責任を完全に回避して、しらばくれているのだ」の部分は次の通りです。
Kase's book completely avoids and feigns ignorance of the Foreign Ministry's war responsibility. (杉原誠四郎『Chiune Sugihara and Japan's Foreign Ministry: Between Incompetence and Culpability 』p73)

杉原誠四郎は「加瀬俊一はfeign ignoranceだ」と世界中に言いふらしているのです。

平成12年には産経新聞のコラム「斜断機」で「加瀬俊一氏に問う」という文章を書いています。
時の外務大臣松岡洋右の責任は大きいけれども、その次に事実上大きな責任をもつのは、松岡の秘書をしていた加瀬俊一氏である。
加瀬氏は右の真珠湾「騙し討ち」は東条がしたという嘘の報告にも内閣情報局第三部長として関与している。
そしてその加瀬氏が、戦後、日米交渉史研究の第一人者となる。日米交渉において最大の判断ミスを犯した者が日米交渉史研究の第一人者になる? なれる? 全く奇怪千万な話である。そのために日本の日米交渉史の研究はどれだけ歪んでいることか。
私はこの疑問を「諸君!」平成10年1月号で公開質問してみたが、加瀬氏からは子息英明氏を通して断片的な返答はあったものの、研究者(?)として明らかに不十分なものであった。日米交渉史の権威者として、日本外交の大御所として、回答すべきではないかと、改めてご質問申し上げる。(産経新聞平成12年9月23日付 杉原誠四郎「斜断機」加瀬俊一氏に問う)

杉原誠四郎は加瀬俊一氏を完全に馬鹿にしきっています。さらにその1年半後には「正論」平成14年3月号に「日米開戦の重大事実とその後の悲喜劇」という文章を書き、「腹を切っても償いきれない」と自決を命じています。
加瀬氏は日米和解の最大の好機をつぶした責任者である。そして同年10月東条内閣が成立するや、大臣秘書官および日米交渉主管の北米課長を務め、結局、失敗に終わった日米交渉の最大の責任者の一人となるのである。
その加瀬氏が戦後になって日米交渉の研究者になった。私は、右の『杉原千畝と日本の外務省』でその責任を問うた。つまり失敗に終わった日米交渉の直接の責任者が、戦後になって日米交渉の研究を主導したことの責任である。
加瀬氏は戦後、初代国連大使となって華々しい活躍をするのであるが、その加瀬氏が昭和45年、日米交渉の研究書『日米交渉』(日本外交史全34巻+別巻4巻のうちの第23巻=鹿島出版会)を出した。要するに加瀬氏は自ら失敗した日米交渉の研究を先導し、主導し、自己の失敗の責任とともに外務省の責任を隠す日本外交史を作り上げてしまったのである。これを追認した日米交渉の研究者、学界にも責任があるのであるが、ともかく日米交渉の研究は、加瀬氏の先導、主導のもとに重要な事実が隠され、外務省の責任が見えない外務省正当化のための歴史研究となり、日本国民は外務省の責任が見えないような日米交渉史研究に導かれたのである。
(中略)外務省は自ら失敗した日米交渉に関する史料を正々堂々と公表せず、日米交渉史の研究を主導し、誘導し、外務省の戦争責任を見えないものにしてしまったのである。その第一人者が先に述べた外相松岡洋右の秘書官、外相東郷茂徳の秘書官兼主管課長を務めた加瀬俊一氏である。
加瀬氏の日米交渉における失敗は決定的である。特に先に述べたように昭和16年4月日ソ中立条約を締結以後、独ソ戦争が始まるまでの「日米諒解案」をめぐる処理に関する責任は最高度に決定的である。
これは私の『杉原千畝と日本の外務省』に詳しく書いたことだが、杉原千畝は、当時、ドイツのケーニヒスペルグにいて、そこから5月9日の時点で、ドイツ軍が物資を集め、ソ連領内の地名を読む訓練をしていることを突き止め、これを本省に通報している。独ソ戦争不可避の情報である。しかしこのときの外相松岡と秘書官加瀬氏はこれをまったく考慮しないで、何の策も立てないままに6月22日の独ソ戦争を迎え、日米和解の最大の好機をつぶしてしまったのである。加瀬氏が杉原の電報を直接手にして読んだかどうかは分からないが、当時、独ソ戦争不可避の情報は他からも頻繁に届いており、それを無視した責任は腹を切っても償いきれない責任である。
さらに加瀬氏には、日本の外交電報がアメリカ政府によって解読され続けたという事実についても特段の責任がある。
(中略)そうした加瀬氏が、戦後、先導し、主導した日米交渉史が歪まないはずはない。自己の責任と外務省の戦争責任を隠した歪んだ日米交渉史ができあがることは必定である。(「正論」平成14年3月号 杉原誠四郎「日米開戦の重大事実とその後の悲喜劇」)

同じような文章は自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)のサイト←クリック にも掲載されています。

加瀬俊一氏は平成16年、101歳で他界しました。「新しい歴史教科書をつくる会」と自由社は、杉原誠四郎会長と加瀬英明社長による公開討論会を行い、加瀬俊一氏の戦争責任の有無に決着をつけてほしいと思います
 
安倍政権のとき、杉原誠四郎が日本教育再生機構が関係する勉強会で講師を務め謝礼を受け取ったことが「新しい歴史教科書をつくる会」理事会で問題になった―と当ブログへの情報提供者である「つくる会」関係者(故人)から聞きました。そして杉原が再生機構側との合流を仲介者を通じて模索しているという噂が流れました。
 
絶対にお断りします。正統保守陣営に杉原誠四郎は不要です。そちらにいてください。
 
加瀬俊一氏を非難する杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は、日本会議を宗教右翼と中傷する元会長や会員がいる「新しい歴史教科書をつくる会」の会長にふさわしい人物です。
 
※これまでの連載
 ★つくる会会長「南京事件あった」―杉原誠四郎の歴史観〈1〉
 ★つくる会会長「天皇に戦争責任」―杉原誠四郎の歴史観〈2〉
 ★つくる会会長「韓国併合は暴挙」―杉原誠四郎の歴史観〈3〉
 ★つくる会会長「民主党に期待」―杉原誠四郎の歴史観〈4〉
 ★つくる会会長「原爆の犠牲に意味あった」―杉原誠四郎の歴史観〈5〉

※つくる会と日本会議批判
 ★朝敵・西尾幹二「天皇の存在必要ない」
 ★「国際謀略」妄想に基づく言いがかり訴訟―藤岡信勝さんの大敗北
 ★西尾幹二「日本会議はカルト教団」-つくる会と反天皇<上>
 ★「キリストの幕屋」最高指導者が死去
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★つくる会会長「原爆の犠牲に意味あった」―杉原誠四郎の歴史観〈5〉

このブログの読者の皆さんはご存知でしょうが、自虐教科書には、日本はなかなかポツダム宣言を受け入れないから原爆を落とされた―という原爆容認論が書かれています。例えばこの春から使われている帝国書院の中学校歴史教科書には「ポツダム宣言を日本が黙殺したため、アメリカは、戦争の早期終結とともにソ連に対して優位にたつため、8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾を投下しました」とあります。
 
ところが自虐史観を批判しているはずの「新しい歴史教科書をつくる会」の会長、杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)も同じことを書いています。
しかしこの宣言(引用者注:ポツダム宣言)のできていく過程をみていくと、これはそのとき「壊滅」に向かって進んでいた日本を救出しようとして出されたものであることがよくわかります。
残念ながらポツダム宣言が出たとき日本はすぐには受諾しませんでしたので、原爆が落ち、ソ連参戦となりました。(『教科書が教えない歴史』p45~46 杉原誠四郎「分断国家化から救ったポツダム宣言」)

『教科書が教えない歴史』は「藤岡信勝/自由主義史観研究会著」となっていますので、これは藤岡信勝の見解でもあります(『教科書が教えない歴史』に自虐史観が混入していることは、気付いている人は気付いています)。
 
ポツダム宣言が出されたのは1945年7月26日ですが、トルーマンが原爆投下命令に署名したのはその前日です。アメリカがせっかくポツダム宣言を出してくれたのに、もたもたしていたから「原爆が落ち」(杉原誠四郎の言い方は「落とされ」ではなく「落ち」)という問題ではありません。
 
ポツダム宣言は日本が必ず「黙殺」するよう、天皇の地位保全条項を削り、最後通告という認識を持たせないように細工されていました。『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』の著者、鳥居民氏は「正論」の平成17年9月号の櫻井よしこさんとの対談で「アメリカ合衆国大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズの2人は、原爆の威力を実証するために手持ちの2発の原爆を日本の2つの都市に投下し終えるまで日本を降伏させなかった」と総括。櫻井さんは「ポツダム宣言までに原爆を完成させていたアメリカが、ソ連の対日参戦(満洲侵攻)がなくとも日本を制圧できるとして急ぎ原爆を投下したというのが歴史の真実でしょう。さらに、新兵器の効果を試すというのもそうでしょう」と応じています。これが保守派の共通認識ではないでしょうか。
 
ところがポツダム宣言の専門家を気取る杉原誠四郎は恐ろしいことを言います。
けれども、グルーを応援していたスチムソンという、これは戦争の時開戦から終戦まで陸軍長官でしたんですけれども、そのスチムソンという人が、原爆実験成功の情報が入ってきて、日本がこのポツダム宣言を受けなかったら原爆を落とすという手段があるのだから、今出してもいいではないかというように言ったために、ポツダム宣言を出すことになったんです。出して、日本はまだ軍部が実権をにぎっていましたから、すぐに受けなかったんですね。それで、原爆が落ちたわけです。
そこから言うと、原爆で死んだ人も、ポツダム宣言受諾を引き出したということにおいては犬死にではなかったんですね。私は広島出身ですけれども、このことを、広島で言ったら原爆投下を肯定したと言って、ずいぶん責められました。もう少し、客観的にものを見なければいけないと思うんですけれども残念です。死んだ人はかわいそうだし、原爆というのが許される兵器ではないことは分かります。けれども、そういう状況の中で落ちたということも知らなければならないと思いますね。(杉原誠四郎『日本外交の無能と戦争責任』p24~25)

これは杉原誠四郎が平成13年4月21日に大阪の國民会館で講演したときの発言です(このときも原爆が「落ちた」という表現)。原爆で亡くなった人たちは「ポツダム宣言受諾を引き出したということにおいては犬死にではなかった」つまり、降伏するための「意味のある死」だったというのです。言うまでもなく、原爆死没者や被爆者は国際法違反の無差別殺戮の犠牲者以外の何物でもありません。おかげで降伏できたという認識は、歴史観以前に人間性に問題があります。
 
「久間発言」というのがありました。平成19年6月、当時の久間章生防衛相が「原爆を落とされて本当に悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている」と発言し、激しい批判を受けて辞任に追い込まれました。それと全く同じ原爆容認論を言っている人間が、今の「新しい歴史教科書をつくる会」会長、杉原誠四郎です。
 
杉原誠四郎の原爆容認論のパターンは、自虐教科書と同じ“ポツダム宣言をすぐに受諾しなかったから原爆が落ちた"、久間発言と同じ“原爆が落ちたおかげで戦争が終わった"のほかに、“在米大使館の失態で真珠湾攻撃が騙し討ちになったから原爆が落ちた"というのがあります。
アメリカの大統領F・ルーズベルトは、この「結果としての騙し討ち」を戦意昂揚に最大限利用しました。そのためにアメリカ国民は戦争が終わるまで「リメンバー・パールハーバー」と叫んで日本を憎悪しました。原爆投下もソ連参戦も彼らの目からは当然のことでした。(『教科書が教えない歴史4』p225 杉原誠四郎「無神経だった占領下の外交」)

ソ連の対日侵攻も真珠湾の「騙し討ち」の当然の報いと言っています。平成13年に産経新聞に載った中條高徳著『魂を抜かれた日本人』への書評でも杉原誠四郎はこう書いています。
第一次世界大戦中、対支二十一カ条要求をした日本の外交の失敗を指摘しないで十分なのか。アメリカの原爆投下を非難するとき、ワシントンの日本大使館の失態によって日米戦争が真珠湾の「騙し討ち」によって始まり、アメリカ国民をして「リメンバー・パールハーバー」と怒り狂わしめたことを指摘しなくてよいのか。(平成13年1月27日付産経新聞 杉原誠四郎「見逃せない自身の責任」)

杉原誠四郎は、原爆投下を非難するときは「騙し討ち」とセットで論じよと言います。この後、「○○を指摘しなくてよいのか」を繰り返して中條高徳氏を責め、最後は「日本人は魂を抜かれたのではなく、自らの手で魂を抜いたのである。そこには日本人自身の自己責任があるのだ」と本のタイトルにケチを付けています。
 
この書評は当時、保守派の間で大変不評でした。こんなにけなしている書評は見たことありません。
 
けなされた中條高徳氏は昨年「新しい歴史教科書をつくる会」の顧問に就任しました。会長の杉原誠四郎はどのツラ下げて顧問就任を依頼したのでしょうか。
 
どのツラ下げてと言えば、杉原誠四郎は自由社の加瀬英明社長の父君、加瀬俊一氏を「犯罪的」などと激しく非難してきました。次回はその問題をお伝えします。
 
ところで、昨年12月1日付←クリック で「新しい歴史教科書をつくる会」会長の杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)が自由社の取締役に就任していたとお伝えしましたが、その6日後にあわてて辞任を登記しました。代わりに「つくる会」副会長の高池勝彦が取締役になっています。杉原取締役と加瀬社長の間に何があったのでしょうか。
 
それにしても、原爆投下を容認する杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は、歴史観を失った「新しい歴史教科書をつくる会」の会長にふさわしい人物です。
 
(つづく)
 
※これまでの連載
 ★つくる会会長「南京事件あった」―杉原誠四郎の歴史観〈1〉
 ★つくる会会長「天皇に戦争責任」―杉原誠四郎の歴史観〈2〉
 ★つくる会会長「韓国併合は暴挙」―杉原誠四郎の歴史観〈3〉
 ★つくる会会長「民主党に期待」―杉原誠四郎の歴史観〈4〉

※つくる会と原爆
 ★自由社の雑誌「被爆の強調は軍国主義者の恨み」
 ★「ポツダム宣言様ありがとう」の自由社版教科書
 ★長崎の原爆写真を「広島」と説明する自由社版教科書
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★つくる会会長「民主党に期待」―杉原誠四郎の歴史観〈4〉

「新しい歴史教科書をつくる会」会長の杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)が
 南京事件はあった。不名誉な事件だった←クリック
 日本は侵略戦争をした。昭和天皇に戦争責任がある←クリック
 韓国併合は暴挙←クリック
と主張してきたことをお伝えしてきました。
 
そこで引用した杉原誠四郎の著書に『民主党は今こそ存在感を示す時』という本があります。題名の通り民主党に期待する内容で、郵政選挙の直後の平成17年11月に出版されました。
 
右の写真には「謹呈 著者」という短冊が付いていますが、この本は杉原誠四郎からもらったわけではなく古本屋で買ったものです。もらった人が、つまらないので古本屋に売ったのです。
 
杉原誠四郎の期待通り、民主党は次の総選挙で政権を取りました。どんなことが書いてあるのでしょうか。はしがきを見てみましょう。
<日本を、あきらめない>とは、平成17年(2005年)の9月11日に行なわれた総選挙における民主党の岡田克也前代表の唱えるキャッチワードだった。また、<日本人には力があります。それを引き出すのが、政治です>ともあった。
この総選挙で自民党は大勝したが、それは郵政民営化一点張りで得た大勝である。通常でいけば、これから4年間、この大勝の形であらゆる政治問題を解決していかなければならないわけだから、この大勝がかえって自民党を縛り続けることになるのではないか。総選挙の問題は郵政民営化の問題だけではないと愚直なまでに叫び続けた岡田前代表の発言が、やがて燦し銀のように光ってくるのではないか。
(中略)民主党員に自覚してほしい。たとえ政権に与っていなくても、民主党は政治にそれ相当の影響を及ぼし、国民に貢献していることを。そして選挙に大敗したとしてもその存在感を訴えていかなければならないことを。
(中略)ところで、本書は、そうした民主党が政権を取るにあたって基本政策を明示しておかなければならないのではないかと、戦後60年間、事実上、現在の自民党の政治の中で、行なわれたところの負の遺産の累積について明らかにした本である。あまり言われていないことではあるが、考えてみると自民党政治にはたくさんの失政があり、そしてそれが今まで修正されることなく負の遺産として引き継がれ、今日の日本を大きく歪めているのである。
さらに、21世紀の日本及び世界に向かっても、民主党は自民党と政策を競わなければならないのであろう。
<日本を、あきらめない><日本人には力があります。それを引き出すのが、政治です>のキャッチワードは、選挙の凄惨さ、泥臭さからするといささか高踏ではあったが、しかしこのキャッチワードには、私が本書を執筆する動機に呼応するものがあった。
岡田前代表は、その延長にあるのであろう、記者会見の中で、歴史問題に関して「民主党政権ができれば、政府として、どこで間違って戦争に至ったのか、誰に責任があるのかなどを検証し、総括する事業を立ち上げたい」と発言していた。具体的にはどのようなことをイメージして言っているのか知らないが、実は私が本書を書く動機の最大のものは、この岡田前代表の言った言葉に対する、私から見たところの額面どおりに受け取れるところの意味にある。
言うまでもなく、岡田前代表の言うごとく、日本の歴史の中での最大の悲劇と言うべきかの戦争について、どこで間違って戦争に至ったのか、誰に責任があるのかを、日本は未だ国家的に総括していないのである。
かくして、戦後の日本も、戦前の日本と同様に歴史の問題で躓き、国家をして半国家と化しめ、日本をして小沢一郎の言うように「普通の国」ではなくしてしまっているのである。
このような大きな失政が、実は現在の自民党の濫觴の時期に行なわれ、そしてそれがそのまま負の遺産として現在の自民党に根幹として引き継がれているのである。
(中略)ともかく、民主党は今こそその存在感を示す時である! 政権交代の日は、いつの日か必ず来る。そのために、政権を取った時の基本政策を明示しておかなければならないのである。(杉原誠四郎『民主党は今こそ存在感を示す時』p~)

説明の必要はないと思います。「新しい歴史教科書をつくる会」会長が7年前に、民主党政権=日教組政権の誕生を待望し、戦争責任を解明してほしいと要望していたのです。
 
日教組といえば、杉原誠四郎は『日米開戦以降の日本外交の研究』の中で、平成7年に日教組が打ち出した文部省との「協調路線」について驚くべき認識を示しています。
戦後50年、日教組はやっと不毛なイデオロギー対立を避けて、健全な教員組合、あるいは教員という専門職団体になろうとしている。そして行政機関と一緒になって教育を守り育てようという気になっている。(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』p260)
 
当時、日教組にそんな期待を抱いた「保守派」は杉原誠四郎だけです。「協調路線」が日教組と文科省、教育委員会の癒着を生んだことは周知の通りです。
 
『民主党は今こそ存在感を示す時』に戻ります。この連載で引用した通り、対華二十一か条要求さえなければ日本と中国様はずっと仲良くできたのに(p46~47)、先の大戦に道義的責任がある昭和天皇が退位されようとしたのに吉田茂がさせなかったのはけしからん(p239~240)、韓国併合は暴挙だった(p249~250)と主張しているのが杉原誠四郎著『民主党は今こそ存在感を示す時』です。
 
占領憲法についてはこう書いています。
憲法改正はもちろん大切であるが、憲法改正論議の下でかえって見落とされるのが、現行憲法に対してどう対応するかの問題である。言うまでもなく、現行憲法は占領時に占領軍によって押しつけられた憲法である。それゆえに、学説的には現行憲法無効論も成り立つのであるが、施行以来半世紀を経たとすれば、学説的に成り立つ無効論も、時効という法理によって無効論自体が無効になっていると言うよりほかはない。法理的にも無効論は成り立たなくなっていると言うしかない。のみならず、現実問題としてまさに現実的でなければならない政治の世界で無効論は現実的でなく、政治の世界では無効論は考慮しようにも考慮のしようがないのである。(杉原誠四郎『民主党は今こそ存在感を示す時』p102)
 
占領憲法無効論は「無効」で「考慮しようにも考慮のしようがない」と批判しています。名指しを避けていますが、ある人のことです。
 
平成14年に『「日本国憲法」無効論』という本を出した小山常実という人です。 小山常実という人は現在「新しい歴史教科書をつくる会」の理事です。彼は杉原誠四郎に批判されていることを知らないのでしょうか。
 
杉原誠四郎が反日宗教・世界基督教統一神霊協会(統一教会)の日刊紙「世界日報」の常連執筆者であることは何度もお伝えしていますが、杉原は昨年、『民主党は今こそ存在感を示す時』について世界日報にこんなことを書いています。
私は平成17年『民主党は今こそ存在感を示す時』という本を出版したことがある。世間からは少しも反響はなく無視された。それどころか、当の民主党からもこれという反応はなかった。私がこの本で書いたことを少しでも参考にしてくれていたら、今のような民主党の体たらくはなかったであろうに、と時折思うことがある。
当時は前原誠司が代表で、そのときは民主党も政権党になれるのではないかと、いささか期待もできるときだった。(昨年3月8日付世界日報 杉原誠四郎「ビューポイント」)

前原誠司が代表だったから民主党に期待したんだという、なんとも間抜けな言い訳です。杉原誠四郎は『民主党は今こそ存在感を示す時』で、岡田克也の主張が執筆の動機だとはっきり書いています。前原など出てきません。ともかく、「新しい歴史教科書をつくる会」会長が前原誠司を評価しているということは覚えておきましょう。
 
杉原誠四郎は東大大学院時代、日教組講師団のボス宗像誠也に師事し、後に宗像の弟子である持田栄一の研究生となっています。昔のことはいいではないかと言われるかもしれませんが、杉原は今でも「宗像さんはマルクス主義者ではなく自由主義者だ」と言っているそうですから、やはりこの経歴は重要でしょう。
 
民主党や日教組に期待する杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は、左傾化した「新しい歴史教科書をつくる会」の会長にふさわしい人物です。
 
(つづく)
 
※これまでの連載
 ★つくる会会長「南京事件あった」―杉原誠四郎の歴史観〈1〉
 ★つくる会会長「天皇に戦争責任」―杉原誠四郎の歴史観〈2〉
 ★つくる会会長「韓国併合は暴挙」―杉原誠四郎の歴史観〈3〉

※つくる会と民主党
 ★自由社発行雑誌に小宮山洋子インタビュー
 ★菅談話と自由社版教科書の記述は同じじゃないか
 ★自由社・石原萠記-中国共産党-東京電力の赤いトライアングル
 ★反日・江田五月に献金を続ける自由社創業者
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★つくる会会長「韓国併合は暴挙」―杉原誠四郎の歴史観〈3〉

この連載で「新しい歴史教科書をつくる会」会長の杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)が「南京事件はあった」←クリック 「昭和天皇に戦争責任がある」←クリック と主張してきた―とお伝えしてきました。今回は杉原がわが国の朝鮮統治をどう見ているかを取り上げます。
 
杉原誠四郎は反日宗教・世界基督教統一神霊協会(統一教会)の日刊紙「世界日報」の常連執筆者で、「新しい歴史教科書をつくる会」会長就任後も頻繁に登場しています。

 
会長就任後、少なくとも下記の4回が確認できました。
 ・昨年10月20日付「ビューポイント」 非常に問題ある教科書制度 
 ・今年1月9日付「教育」欄 教科書制度の問題点 「新しい歴史教科書をつくる会」杉原誠四郎会長に聞く
 ・3月5日付「インタビュー」欄 保守の使命 「新しい歴史教科書をつくる会」会長 杉原誠四郎氏に聞く
 ・4月4日付「ビューポイント」 生活文化を保障するTPPを
 
「世界日報」だけでなく、国際勝共連合機関誌「世界思想」にも今年1月号の4ページにわたるインタビューに登場しています。

 
「新しい歴史教科書をつくる会」の歴代会長で、「つくる会会長」の肩書で世界日報や世界思想に登場したのは杉原誠四郎だけです。
 
杉原誠四郎はこれまでにも、統一教会傘下の学者組織「世界平和教授アカデミー」の機関誌「世界平和研究」に頻繁に執筆。世界平和教授アカデミー発行・世界日報社発売の本『「新しい道徳教育」への提言』←クリック も執筆しました。
統一教会の国民思想教育運動団体「東西南北統一運動国民連合(NCU―NEWS)」の機関誌「En-ichi(圓一)」にも何度も登場し、昨年1年間で2回(4月号と8月号)もメイン記事になっています。
 
保守系言論人と統一教会系との関係は冷戦時代にはありましたが、今でも親密な関係がある人はわずかです。杉原誠四郎の場合はいくら何でも付き合い過ぎで、「統一教会系学者」との指摘は甘受すべきでしょう。
  
そういえば杉原誠四郎の“日本は、左翼が言うほどではないけど相当悪かったのは事実だ”という歴史観は、昨年11月12日付←クリック で取り上げた世界日報1面コラムと同じです。
 
それでは、杉原誠四郎の朝鮮統治に関する見解を掲げましょう。
1910年(明治43年)、歴史的には仏教や儒教を伝えた先輩国でもある韓国をこともなげに併合するとはどういうことか。(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』p219)

韓国と日本は近現代史においてあまりにもいわくがありすぎる。1910年(明治43年)、韓国のような古い歴史をもった国を併合するとは、日本の明治政府の傲慢そのものである。日韓併合時代の日本の統治は、教育水準の向上(内容には問題があるとしても)、産業基盤の整備など、ヨーロッパ諸国のアジアに対する植民地支配とはたしかに質的にちがい、つまり自国のためのみの搾取の支配でなかったこともたしかであるが、しかし「創氏改名」など韓国国民の誇りと感情を無視した政策等は許されるべきではなかった。(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』p225~226)

朝鮮統治での教育水準向上を言うときにわざわざ「内容には問題がある」と付け加えています。韓国併合は「傲慢」で「『創氏改名』など韓国国民の誇りと感情を無視した政策等は許されるべきではなかった」。菅談話の歴史認識と同じです。
明治9年(1867年)に韓国と結んだ日朝修好条約は、近代国家成立のための日韓にとって不幸な条約だった。日本が欧米に対して条約改正を求めてやまないでいる不平等条約を、李氏朝鮮の韓国に対して押しつけたのだった。天皇制の下、武士道の精神が強かったにもかかわらず、対韓国に対しては、日本が改正を願ってやまないでいる不平等条約を韓国に押しつけ、大いなる不徳を犯した。
そして明治43年(1910年)、ついに韓国を併合した。韓国の歴史を振り返った時、いかにこれが暴挙であり、徳のない行為であったかが容易に分かる。韓国は、あの元に対してすら独立を守った。その見返りに元の命を受けて日本に侵攻し、日本からすれば蒙古襲来という不徳の行為を韓国から受けたことになるが、しかし、それまでして守った独立を日本の手によって侵されたわけで、少し長い時間で考えれば、韓国民が再び独立を目指す道を歩むであろうことは必定であった。(杉原誠四郎『民主党は今こそ存在感を示す時』p249~250)

「1867年」は1876年の誤り、「韓国と結んだ」は李氏朝鮮と結んだの誤り、「日朝修好条約」は日朝修好条規の誤りです。いい加減な学者です。

「新しい歴史教科書をつくる会」の一部会員は「日韓併合は日本の誇り」と言ってきましたが、会長の杉原誠四郎は「暴挙」で「徳のない行為であった」と糾弾しているのです。
 
杉原誠四郎はよほど韓国がお好きなようで、こんな本まで出しています→
 
『日本の道徳教育は韓国に学べ―道徳教育教科化への指針』。この本の存在を知ったとき、驚きで気を失いそうになりました。反日韓国の道徳教育を素晴らしいと絶賛し、それが日本の道徳教育の「指針」とは…。
 
日本教育再生機構(八木秀次理事長)と道徳教育をすすめる有識者の会(渡部昇一代表世話人)が作った『13歳からの道徳教科書』(育鵬社)はものすごい売れ行きで、増刷を重ねています。
 
わが国の歴史、伝統文化に基づく道徳教育に取り組む日本教育再生機構。韓国の道徳教育を日本に導入せよと言い、統一教会系の道徳教育の本を執筆する「新しい歴史教科書をつくる会」会長。両者の違いは歴然としています。
 
そして、韓国併合を暴挙と非難する杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は、朝鮮迎合に傾いた「新しい歴史教科書をつくる会」の会長にふさわしい人物です。
 
(つづく)
 
※これまでの連載
 ★つくる会会長「南京事件あった」―杉原誠四郎の歴史観〈1〉
 ★つくる会会長「天皇に戦争責任」―杉原誠四郎の歴史観〈2〉

※つくる会と統一教会
 ★統一教会は公安警察の監視対象
 ★「国際謀略」妄想に基づく言いがかり訴訟…代理人は福本修也弁護士
 ★扶桑社を訴えた提訴の代理人も福本修也弁護士
 ★杉原誠四郎「つくる会」新会長は世界日報執筆メンバー
 ★世界日報が育鵬社を「極右教科書」、大東亜戦争を「侵略戦争」と非難

※つくる会と朝鮮半島
 ★自由社創業者、竹島を「独島」「石ころ」
 ★加瀬英明氏と「韓国人元ホステス」報道
 ★自由社創業者と北朝鮮シンパ
 ★自由社役員「慰安婦は強制連行された」
 ★安重根を取り上げ志士と称える自由社版教科書
 ★秀吉の朝鮮出兵を「侵略」と書く自由社版教科書
 ★あくまで「安重根は韓国独立の志士」の自由社版教科書
 ★菅談話と自由社版教科書の記述は同じじゃないか
 ★平成13年夏…金鍾泌と「西尾つくる会」が残した禍根
 ★支那・朝鮮の地名を現地読みで読ませる自由社版教科書


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★つくる会会長「天皇に戦争責任」―杉原誠四郎の歴史観〈2〉

前回←クリック 紹介した「新しい歴史教科書をつくる会」会長の杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)が「南京事件は、不名誉な事件であった」と書ている『日米開戦以降の日本外交の研究』という本は平成9年に出版され今でも売っています。杉原は昨年自由社から出した『保守の使命』では南京事件はなかったと書いていますが、これは「南京事件」の定義を大虐殺に変えたからです。学者の態度としてどうでしょうか。
 
「新しい歴史教科書をつくる会」の会長が満州事変以降を「十五年戦争」という左翼用語で呼び、南京事件はあった、不名誉だったと著書に書いているという事実に対し、善良な「つくる会」会員から「驚きました」という反響を数多くいただきました。驚くのはまだ早いです。杉原は先の大戦全般について同じような認識を示しています。まずこれをお読みください。
中国や韓国および東南アジアの諸国に、太平洋戦争にかかわって謝罪すべき行為があったことは事実だ。(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』p118)

日本が軍国主義で悪徳の国家であったというアメリカの解釈、見方はまったく根拠のないものであったとは言えないが、(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p55)

日本が侵略戦争をしたと非難されたとき、総じては侵略戦争であると言われても仕方ないとしても、(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p62)

日本の為した戦争を総じては侵略戦争であったと言ってもよいが、(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p178)

著書を読むと分かりますが、杉原誠四郎は先の大戦を大東亜戦争と呼びません。「太平洋戦争」「十五年戦争」であり、そして「中国や韓国および東南アジアの諸国に謝罪すべき行為があった」「日本が軍国主義で悪徳の国家であったという見方はまったく根拠のないものであったとは言えない」「総じては侵略戦争であったと言ってもよい」と断言しているのです。
東条英機等、東京裁判でのA級戦犯が祀られていることに違和感が抱かれることも多いが、しかし第6章でも述べたように、ある基準からすれば彼らも戦争犠牲者として位置づけられる。そのために靖国神社に祀られることになる。しかしそのことと東条英機らの、日本を「完全ナル壊滅」になるかもしれない戦争に引き込んだ政治責任を問わないこととはちがう。いかに靖国神社に祀ったからと言って、それが直接彼らの政治責任を免責するわけではない。すでに彼らが政策決定にかかわる機関に就任したときには、すでに政策決定の範囲は狭かったと言えるとしても、アジア、太平洋に向けて侵略戦争と言われても仕方のない軍の侵攻につながる決定をしたことの、その責任を不問に付すこととはちがう。(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』pxix~xx←伏せ字ではなく序文のページ

「太平洋戦争」は侵略戦争と言われても仕方なく、東条英機らはA級戦犯であり戦争責任があると言っています。
 
自衛戦争だと言い張るのは「能天気」だと、次のように書きます。
それほど簡単に自衛戦争だと言ってすませてよいのか。日米戦争は、推移によっては日本がさらに何倍かの犠牲者を出し、国家として崩壊し、したがって天皇制も崩壊し、今頃分断国家になっていた可能性もあった。そのような日本国がなくなるような戦争に踏み切っておいて、それでも自衛戦争だった、というだけですませていてよいのか。自衛戦争ならば、むしろ避けなければならない戦争であったろう。少なくとも、戦うとしても、日本が敗れた時の和平交渉をも不可能にするような、真珠湾の「騙し討ち」のような開戦は絶対に避けるべきであったろう。だとしたら、日本は自衛戦争であったという言い分にも甘さが含まれているということになる。侵略戦争の側面があるとしても、侵略戦争の面しか認めず、かの戦争は侵略戦争だとだけしか認めようとしない侵略戦争主義者に対して、自衛戦争だったという反論には一定の説得力が含まれているけれども、しかし侵略戦争の面をまったく認めず、自衛戦争とだけしか認めない考え方にも、何という甘さ、能天気振りがあることか。つまりは認識における怠慢である。(杉原誠四郎『民主党は今こそ存在感を示す時』p54)

このように杉原誠四郎は皇室の存在を「天皇制」というコミンテルン用語で語ります。そして、アメリカに感謝し韓国に謝るのが天皇の仕事だと、こう書きます。
昭和50年、昭和天皇が訪米し、アメリカ国民に、敗戦後の日本に対してアメリカ国民の差し延べてくれた好意と援助に対し、直接に感謝の言葉を言いたかったと言って感謝の言葉を送った。昭和59年、韓国全斗煥大統領の来日に際し、天皇は宮中晩餐会で日韓の両国の不幸な過去に遺憾の意を表明した。天皇が直接に言葉を示すことによって、日本国及び日本国民が、アメリカ国民に感謝の意を表すことができること、天皇の遺憾の意の表明によって日本国及び日本国民の反省悔悟の意を韓国国民に伝えることができること、こうしたことから考えて、やはり天皇は、日本国及び日本国民統合の厳粛なる象徴なのである。
しかしながら、天皇制に反対する人々の力は根強い。我が国におけるいつまでも続くこだわりであろうが、そのために天皇制を支持する側も防戦いっぽうで、日本の天皇制はいまだ日本国の倫理の根源になりえていない。例えば、国際協力事業とか、地球環境を守ろうという精神が、いまだ、天皇制から出ていない。天皇制なるがゆえにこうした精神が出てこなければならないはずである。天皇制をその存続のために糊塗するだけでは、日本の国家、社会のエゴをそのまま外に出すのみで、それを正す力は出てこない。(杉原誠四郎『保守の使命』p119~120)

天皇、皇后が1994年(平成6年)6月10日から2週間あまりアメリカを訪問することになった。「天皇訪米」は1975年(昭和50年)の昭和天皇以来19年ぶりである。(中略)天皇、皇后が快く訪米できるように条件を整えていかなければならないだろう。
ところでこの訪米の際、天皇、皇后は、ハワイの真珠湾を訪問し、アリゾナ記念館を訪ね、日本海軍の真珠湾攻撃による犠牲者の慰霊を行うとのことがとりざたされている。(中略)
さまざまな問題から判断すれば、天皇夫妻のアリゾナ記念館訪問の際、(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』p127~128)

両陛下を「天皇、皇后」と呼び捨てにし、「訪問する」「慰霊を行う」などとと敬語なしで通しています。さらに「天皇夫妻」と呼んでいます。両陛下を「天皇夫妻」を呼ぶ自称「保守」は杉原誠四郎しかいないでしょう。不敬です。
日本は歴史の清算、総括をしていないとよく言われるが、実は昭和天皇はそのために退位を望んだことがあった。占領初期はその退位が契機となって天皇制が崩壊する可能性があり、軽はずみには退位できなかった。が、占領解除が明らかになった時点では、天皇制崩壊の恐れもなくなって、昭和天皇は改めて退位を希望した。この誠実な天皇は、法的には戦争責任がないとはいえても道義的には責任があることを十分に承知していた。かの失敗の歴史を反省する意味において昭和天皇の退位には意味がでてくる。
しかし、時の総理大臣吉田茂がそれを喜ばず、退位を認めなかった。昭和天皇としてはもっと強く退位を主張すべきだったともいえるが、天皇が退位すれば吉田も首相を辞めなければならなくなるから、吉田としては認めるはずはなかった。
誠実な昭和天皇の下に繰り広げられた昭和の失敗の歴史を、同じく昭和天皇の下で復興繁栄の時代に変えてあげたいという国民の潜在的願いもさることながら、昭和天皇の道義的責任も明示することなく進んだ結果は、日本という国は戦争責任を明確化する機会をもたず、戦争責任を明確にしてこなかったということを意味する。吉田茂は国民に対してそのようなことをしたのである。(杉原誠四郎『保守の使命』p141~142。『民主党は今こそ存在感を示す時』p239~240にも同様の記述)

日本人は普通、天皇陛下のことを「この」とは言いません。この杉原誠四郎は先の大戦について、東条英機らの政治的責任に加え昭和天皇に道義的責任があり、昭和天皇は退位すべきだったのに吉田茂がさせなかったのはけしからん。だから日本は昭和天皇の道義的責任を明示できないできた…と言っています。
 
この『保守の使命』の発行元は「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書発行元である自由社(加瀬英明社長)です。
 
先の大戦をわが国による侵略戦争だと言い、先帝陛下に戦争責任があると主張する杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は、反日・自虐に傾いた「新しい歴史教科書をつくる会」の会長にふさわしい人物です。
 
(つづく)
 
※これまでの連載
 ★つくる会会長「南京事件あった」―杉原誠四郎の歴史観〈1〉
※つくる会と反天皇
 ★自由社創業者「天皇の戦争責任を明確にしないから総懺悔になる」
 ★自由社創業者「戦争責任とらせないでなぜ天皇を象徴にする」
 ★自由社創業者「天皇が責任をとらないのはどう考えてもおかしい」
 ★自由社創業者「天皇の戦争責任を明確にしない限り靖国問題は続く」
 ★朝敵・西尾幹二「天皇の存在必要ない」
 ★西尾幹二「日本会議はカルト教団」
 ★女系天皇容認本を出版する自由社
 ★ニセ「宮様」をありがたがる西尾・藤岡信者
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★つくる会会長「南京事件あった」―杉原誠四郎の歴史観〈1〉

河村たかし名古屋市長の発言を機に南京攻略をめぐる出来事についての議論が再燃しています。私たちは「新しい歴史教科書をつくる会」の自由社版中学校歴史教科書が「なお、この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点が出され、今日でも研究が続いている」という南京事件への疑問を削除したことを1年前に紹介しました。
 
 ★南京事件への疑問を削除した自由社版教科書-記述検証〈1〉
 
そのとき藤岡信勝の言い訳を次のように予測しました。
 
<「ああ言えばこう言う」の藤岡信勝客員教授のことですから、こう反論するかもしれません。「虐殺はなかったのだから、疑問の余地はなく、もう研究することはない。だから削除した。これは画期的な記述なのだ」と>
 
その予測通りのことを藤岡信勝は「WiLL」6月号に書いています。それなら「南京占領の際に、日本軍によって中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)」という記述自体が不要です。
 
ところで、「振り込め」口座名義が「新しい歴史教科書をつくる会」事務局長、越後俊太郎になっている「河村発言を支持し『南京』の真実を究明する国民運動」ですが、「つくる会」会長、杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は消極的に見えます。3月6日の「緊急国民集会」での杉原のあいさつの歯切れの悪さに気付いた人も多いでしょう。
 
皆さんは杉原誠四郎にどんなイメージを持っていますか? 「教育基本法などを研究する教育学者で、日米開戦などに関する本も書いている保守系の学者」と思っている人が多いでしょう。
 
大きな誤解です。杉原誠四郎はこれまで「(30万人は殺していないが)南京事件はあった」「昭和天皇に戦争責任がある」「韓国併合は暴挙だった」などと自虐的な見解を示し続けてきました。また、自由社の加瀬英明社長の父君で日本を守る国民会議(今の日本会議)議長だった加瀬俊一氏を「犯罪的」と非難しています。そうした杉原誠四郎の歴史観を連載でお届けします。
 
南京攻略について杉原誠四郎は著書で次のように書いています。 
ドイツのユダヤ人虐殺に比較されるものとして、昭和12年(1937年)に起きた南京事件があるが、この場合、日本軍兵士の乱暴狼藉、それゆえの中国兵や中国民間人に対する不法殺害がまったくないわけではなかったが、(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p57)

たしかに、1937年(昭和12年)日中戦争のさなか、日本軍の南京攻略において、不法殺害された中国の兵士、一般市民がまったくなかったとは言えない。(中略)
日本軍には、捕虜を収容する準備がほとんどなく、戦闘行為のなかでの中国兵の大量殺害に対して無遠慮で過酷であったことはたしかである。また、いったん捕えた捕虜に対して日中双方で殺害する例がひんぱんにあったようだから、このときも捕虜で殺害された者もいることは想像できる。
計画をこえて多くの日本兵が南京城内に入り、軍紀が乱れ婦女子暴行、窃盗などの不祥事が多く起こったことも事実である。司令官松井石根が泣いて怒ったというエピソードがあるぐらいだから相当のものだったようだ。東京の参謀本部から本間雅晴少将が、1938年(昭和13年)2月日本軍の暴行を問題にして南京に出張したというのであるから、日本軍の不祥事件があったことはたしかだ。(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』p191~194)

この後、板倉由明ら「中虐殺派」が依拠するスミス(スマイス)報告の「日本軍および日本兵によって不法に殺害された民間人」の数と南京衛戍戦史話の「日本軍および日本兵によって殺害された兵士」の数を挙げて、次のように書きます。
しかしそれにしてもこれだけの人数の民間人や兵士が殺害されたのだから、そのなかに日本兵によって不法に、かつ残虐に殺害された者がいるであろうことは想像に難くない。日本軍は明治の建軍以来、勇敢で軍律のきびしいことでは世界的に高く評価されてきた軍隊であったが、その日本軍にとっても、この南京事件は、不名誉な事件であったと言わなければならないのである。(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』p200)

大虐殺はなかったものの「不法殺害された中国の兵士、一般市民がまったくなかったとはいえない」「中国兵の大量殺害に対して無遠慮で過酷であった」「捕虜で殺害された者もいる」「婦女子暴行、窃盗などの不祥事が多く起こった」「相当のものだったようだ」「日本兵によって不法に、かつ残虐に殺害された者がいるであろう」「南京事件は、不名誉な事件であった」…つまり、南京事件はあった、日本軍による戦時国際法違反の不法殺害はあった―というのが「新しい歴史教科書をつくる会」会長、杉原誠四郎の見解です
 
杉原誠四郎はこの『日米開戦以降の日本外交の研究』を、ご苦労なことに英語や支那語(繁体字)に翻訳して出版しています。「日本軍にとっても、この南京事件は、不名誉な事件であったと言わなければならないのである」の部分は次の通りです。
Therefore, it must be noted that the Nanking incident brought great discredit upon the Japanese army.(杉原誠四郎『Between Incompetence and Culpability: Assessing the Diplomacy of Japan's Foreign Ministry from Pearl Harbor to Potsdam』p121)

所以南京事件的發生對日本軍而言,是很不光彩的事。(杉原誠四郎『搞垮日本的日本外交:二次大戰的日本外交情結』p193)

杉原誠四郎は、南京事件は「great discredit」で「很不光彩」だと世界に発信しているのです。
 
杉原誠四郎は、対華二十一か条要求さえなければ日本と中国様はずっと仲良くできたのに…という支那迎合史観をいろんな本に書いています。
大正4年(1915年)、第一次世界大戦の最中、誕生したばかりの新生中国に対して、日本外交は何ら軍部から圧力があったわけでもないのに二十一か条の要求を突き付けた。第一次世界大戦は、それまでの世界各国が推し進めてきた帝国主義政策の終焉という意味を持っているのであるが、そのとこが分からなかったとしても、日本として新生中国を助ければ、中国は日本に恩義を感じ、半永久的な極めて良好な日中関係を築けるということがなぜ分からなかったのか。
この大切な時機に、欧米諸国が中国問題に関心を寄せる余裕がなくなっていることを逆に契機として、日中関係を半永久的に悪くするようなことをしたのである。これも、日本の外務省が本当の意味での世界情勢の分析ができず、長期的な構想を持つことができなかったことを意味する。新生中国を助ければ、中国が安定した国になって、東アジアで戦争の火種がなくなり、それは日本にとっても中国にとっても、否、世界にとってよいことだという極めて、単純な計算が、日本の外務省において認識されえなかったのである。(杉原誠四郎『民主党は今こそ存在感を示す時』p46~47。『日米開戦以降の日本外交の研究』p219、『杉原千畝と日本の外務省』p114~115にも同様の記述)

かつて半分、欧米の植民地と化した清王朝を廃して近代国家が生まれようとしたとき、それを助けるための日本の有志は多数いた。しかしそれが外交として一貫していなかった。日本はこれを助けるどころか、苦しめる側で行動したといってよかろう。このとき、これまでの有史以来の長い関係でみれば、日本が欧米諸国と同じことをしていても、中国国民からは、欧米諸国以上に敵意を買うことになる。新しい中国と手を取り合って中国の半植民地状態からの脱却を助ければよいのに、反対に欧米の帝国主義諸国の仲間入りをし、時代遅れの帝国主義政策を推進し、中国人民の憎悪を一身に受けてしまった。(杉原誠四郎『保守の使命』p133)

「時代遅れの帝国主義政策」で中国様に恨まれてしまったと反省しています。昔の主張ではありません。この『保守の使命』は昨年、自由社から出版されたばかりの本です。
 
「帝国主義政策」の源流は明治維新にあると杉原誠四郎は言います。 
しかし合わせて日本の反大義とは何か。その究極は、日本が他国から植民地支配を受けることを極度に恐れていながら、アジアの諸国に対しては逆に植民地支配を行ったことである。それは何も昭和時代からのことではない。明治時代から、厳密には日本の独立を何とか守ろうとした明治維新のなかにすでに胚胎していた。当時は世界的にも帝国主義外交が常套化しており、日本のみの問題ではなかったけれども、自分の欲しないことを他に行うのは、まさに不徳の最たるものである。
究極は日本、日本国民の傲慢ということなのだが、その傲慢に基づいて日本は、明治以来、対外政策で重大な誤りを犯してきた。その誤りの累積のうえに今次の日中十五年戦争があり、日米戦争がある。
したがって、今次の戦争において、いかに大義があろうとも、裏面に日本の不徳があることはたしかである。(杉原誠四郎『日米開戦以降の日本外交の研究』p208~209)

「傲慢に基づいて日本は、明治以来、対外政策で重大な誤りを犯してきた」と坂の上の雲を目指したわが国の先人を否定し、「日中十五年戦争」という算数上も歴史学上も間違っている左翼用語を使い、日米戦争とともに「日本の不徳」と断罪しているのです。
 
「十五年戦争」で「南京事件はあった」と主張する杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は、親支那に傾いた「新しい歴史教科書をつくる会」の会長にふさわしい人物です。
 
(つづく)
 
※つくる会と支那
 ★自由社版 そんなに支那が 好きですか
 ★自由社・石原萠記-中国共産党-東京電力の赤いトライアングル
 ★南京事件への疑問を削除した自由社版教科書
 ★魏志倭人伝への疑問を削除し、ありがたがる自由社版教科書
 ★支那・朝鮮の地名を現地読みで読ませる自由社版教科書
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