正統保守の敵「つくる会」一部首脳を追撃します
「新しい歴史教科書をつくる会」が自由社から出した教科書は反日自虐。 フジサンケイグループ育鵬社こそが正統保守教科書です
★つくる会会長「加瀬俊一は犯罪的」―杉原誠四郎の歴史観〈6〉
今回はこの問題を取り上げます。

杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)が「新しい歴史教科書をつくる会」の会長に就任したとき「えっ? いいの?」と思った人もいると思います。自由社の加瀬英明社長の父君との因縁があるからです。
加瀬英明氏の父君、加瀬俊一氏は誰もが知る元外交官で、日ソ中立条約の締結時に随行し、ミズーリ号での降伏文書調印にも立ち会い、戦後は初代国連大使などを務めました。退官後、日本会議の前身である日本を守る国民会議の初代議長を務め、高校教科書「新編日本史」の発行などに尽力した憂国の士です。
杉原誠四郎は一連の著作で、先の大戦の戦争責任は外務省(そして昭和天皇)にあり、中心人物は加瀬俊一氏だとしつこく述べています。「諸君!」の平成10年1月号には「真珠湾 外務省の責任カクシはいつまでつづく―加瀬俊一氏への公開質問」と題した文章を書きました。この公開質問は『杉原千畝と日本の外務省』に収録されています。
これに対し「諸君!」3月号で加瀬俊一氏に代わって英明氏が簡単な反論を書きました。「論旨がきわめて薄弱であって、要領をえない内容である」とした上で「その後、杉原氏は父のもとへ手紙を寄せて、先の『公開質問状』に答えることを要求している。杉原氏の手紙は横書きのワープロで打ったもので、冒頭に季節の挨拶もない。(中略)もし回答がなかった場合は『一方的に加瀬様への批判をさせていただく』というものである。杉原氏はこれまで父に何回か質問状を送ったという。父のもとには多くのマニアのような街の歴史研究家から奇矯な手紙が寄せられるが、そのままにしている。なぜ、しかるべき紹介者をたてて、教えを乞わなかったのか」と、杉原誠四郎はストーカー扱いされています。
杉原誠四郎はこの加瀬英明氏による反論が不満で、「犯罪的」「しらばくれている」などと加瀬俊一氏に対する非難のトーンを上げました。この『杉原千畝と日本の外務省』はほとんど加瀬俊一批判のための本です。
この連載で杉原誠四郎が「南京事件は、不名誉な事件であった」と書いた『日米開戦以降の日本外交の研究』を英語や支那語(繁体字)に翻訳して世界に発信しているとお伝えしましたが、杉原はこの『杉原千畝と日本の外務省』も英語版を出版しています。「加瀬のこの本はこうした外務省の戦争責任を完全に回避して、しらばくれているのだ」の部分は次の通りです。
杉原誠四郎は「加瀬俊一はfeign ignoranceだ」と世界中に言いふらしているのです。
平成12年には産経新聞のコラム「斜断機」で「加瀬俊一氏に問う」という文章を書いています。
杉原誠四郎は加瀬俊一氏を完全に馬鹿にしきっています。さらにその1年半後には「正論」平成14年3月号に「日米開戦の重大事実とその後の悲喜劇」という文章を書き、「腹を切っても償いきれない」と自決を命じています。
同じような文章は自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)のサイト←クリック にも掲載されています。
加瀬俊一氏は平成16年、101歳で他界しました。「新しい歴史教科書をつくる会」と自由社は、杉原誠四郎会長と加瀬英明社長による公開討論会を行い、加瀬俊一氏の戦争責任の有無に決着をつけてほしいと思います。
安倍政権のとき、杉原誠四郎が日本教育再生機構が関係する勉強会で講師を務め謝礼を受け取ったことが「新しい歴史教科書をつくる会」理事会で問題になった―と当ブログへの情報提供者である「つくる会」関係者(故人)から聞きました。そして杉原が再生機構側との合流を仲介者を通じて模索しているという噂が流れました。
絶対にお断りします。正統保守陣営に杉原誠四郎は不要です。そちらにいてください。
加瀬俊一氏を非難する杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は、日本会議を宗教右翼と中傷する元会長や会員がいる「新しい歴史教科書をつくる会」の会長にふさわしい人物です。
※これまでの連載
★つくる会会長「南京事件あった」―杉原誠四郎の歴史観〈1〉
★つくる会会長「天皇に戦争責任」―杉原誠四郎の歴史観〈2〉
★つくる会会長「韓国併合は暴挙」―杉原誠四郎の歴史観〈3〉
★つくる会会長「民主党に期待」―杉原誠四郎の歴史観〈4〉
★つくる会会長「原爆の犠牲に意味あった」―杉原誠四郎の歴史観〈5〉
※つくる会と日本会議批判
★朝敵・西尾幹二「天皇の存在必要ない」
★「国際謀略」妄想に基づく言いがかり訴訟―藤岡信勝さんの大敗北
★西尾幹二「日本会議はカルト教団」-つくる会と反天皇<上>
★「キリストの幕屋」最高指導者が死去

杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)が「新しい歴史教科書をつくる会」の会長に就任したとき「えっ? いいの?」と思った人もいると思います。自由社の加瀬英明社長の父君との因縁があるからです。
加瀬英明氏の父君、加瀬俊一氏は誰もが知る元外交官で、日ソ中立条約の締結時に随行し、ミズーリ号での降伏文書調印にも立ち会い、戦後は初代国連大使などを務めました。退官後、日本会議の前身である日本を守る国民会議の初代議長を務め、高校教科書「新編日本史」の発行などに尽力した憂国の士です。
杉原誠四郎は一連の著作で、先の大戦の戦争責任は外務省(そして昭和天皇)にあり、中心人物は加瀬俊一氏だとしつこく述べています。「諸君!」の平成10年1月号には「真珠湾 外務省の責任カクシはいつまでつづく―加瀬俊一氏への公開質問」と題した文章を書きました。この公開質問は『杉原千畝と日本の外務省』に収録されています。
そこでいまなお健在の加瀬俊一に公開質問をすることになる。
加瀬は、外相松岡洋右の秘書官を務め、日米交渉のクライマックス時の外相東郷茂徳のもとでも、秘書官兼主管課長を務め、前記、井口武夫が本省の責任を問うとしたとき、東郷のもとでもっとも責任のある部署にいた人物である。そして終戦後、この時点で情報局第三部長を務めていた。
重光葵はその手記で、真珠湾攻撃は昭和天皇も知らないところのものであることに驚き、「事の重大なるを以て加瀬君を招致し移牒研究せしむ」とこの件に関し、加瀬との関わりを述べている。そして重光辞任後の吉田茂外相のもとで行われた天皇謁見に関する右の新聞記者クルックホーンが『ニューヨーク・タイムズ』に載せた記事では、吉田が天皇の手渡した回答書に外務大臣として承認したことを、加瀬から聞いたと伝えている。
加瀬には、この時点で真珠湾「騙し討ち」の真相がわかっていなかったからとは言わせない。このとき立ち会った奥村はアメリカ英語が不得意にもかかわらず、そして吉田を知らないのにかかわらず吉田によって指名されたと、後に述べているからである。
すなわち、真珠湾「騙し討ち」はワシントンの日本大使館の事務執行の失態によって起こったことを十分に知りながら、計をめぐらし、「騙し討ち」は東條がしたのだと嘘の回答を天皇にさせた者が外務省の中にいる。加瀬か、加瀬でなければ、加瀬の見届けられるところにいたはずである。加瀬はこの深刻にして重大な史実に関し、ことの真相を証言する義務がある。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p7~8)
これに対し「諸君!」3月号で加瀬俊一氏に代わって英明氏が簡単な反論を書きました。「論旨がきわめて薄弱であって、要領をえない内容である」とした上で「その後、杉原氏は父のもとへ手紙を寄せて、先の『公開質問状』に答えることを要求している。杉原氏の手紙は横書きのワープロで打ったもので、冒頭に季節の挨拶もない。(中略)もし回答がなかった場合は『一方的に加瀬様への批判をさせていただく』というものである。杉原氏はこれまで父に何回か質問状を送ったという。父のもとには多くのマニアのような街の歴史研究家から奇矯な手紙が寄せられるが、そのままにしている。なぜ、しかるべき紹介者をたてて、教えを乞わなかったのか」と、杉原誠四郎はストーカー扱いされています。
杉原誠四郎はこの加瀬英明氏による反論が不満で、「犯罪的」「しらばくれている」などと加瀬俊一氏に対する非難のトーンを上げました。この『杉原千畝と日本の外務省』はほとんど加瀬俊一批判のための本です。
加瀬俊一が真珠湾の「騙し討ち」に関する外務省の責任の隠蔽工作に重要なかかわりをもっているというのは明白なことではないか。しかるに加瀬俊一はこの史実に対して証拠をもって指摘されるまで、50年以上沈黙してきた。そのことについて責任を問うているのである。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p21)
(引用者注:加瀬俊一氏の昭和24年の著書『Journey to the “Missouri”』について)それでもこの本は犯罪的である。この時点でこの本のもつ許しがたい犯罪的とも言える問題点は、この本が外務省の戦争責任を問うことについて、回避していることである。日米戦争にかかわる日本側の戦争責任をすべて軍部に押し付けて、外務省の責任をすべて抜き取っているのである。(中略)その観点からすれば、加瀬がこの本を書いた時点では、そこまで意図したものではなかったとしても、その後の展開からすれば、この本の果たした役割は犯罪的であったということになる。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p109~p112)
(引用者注:加瀬俊一氏の著書にある)「外務省以外の諸官庁は多く軍部の言ふところに習慣的に追随したが、ひとり外務省だけは時には敢然として軍部に挑戦し、侵略政策に反対する勇気を示した」というのは、少しでも外務省の歴史を調べた者なら思わず「よく言うよ」と唸ってしまう言い草である。(中略)右のような加瀬の言い草は、原本をアメリカで英語で発行し、そして日本では占領下という特異な状況のもと歪んだ言語空間のなかで初めて言える言い草であると言うよりほかはない。
(中略)要するに、あるときは明らかに軍国主義に積極的に加担し、その一方で軍部が暴走すると、それを差し止めるだけの世界の情勢に関する情報と、その分析結果をもっておらず、したがって将来を展望した効果的な説得ができず、結局は軍部に追随していくよりほかにすることがなかったというのが実相ではないか。そして外務省の専管事項である外交の場では、肝心なところでつねに失態を重ねたのではないか。こうして結果として途方もなく日本国民に災厄をもたらしたというのが、戦前の日本の外務省の実体ではないのか。加瀬のこの本はこうした外務省の戦争責任を完全に回避して、しらばくれているのだ。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p114~117)
「騙し討ち」の責任者を外務次官にし、そのことによって真珠湾の「騙し討ち」の失態を国民から隠してしまった吉田茂を讃えることは、吉田に重用され、恩のある身であるとは言え、研究者の取るべき態度ではなかろう。それとも、加瀬はその責任隠しに積極的に加担、共犯の立場に立つことを覚悟したのか。そこに加瀬の研究者としての矛盾がある。
結局、総じて言えば、加瀬の外交史の研究は外務省の戦争責任隠しの研究であるということになる。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p134)
加瀬俊一は少なくとも日米交渉の研究者になるべきではなかった。(中略)当事者たる加瀬が、これらについて、知っておりながら、研究書でいっさい触れていないからである。いずれも加瀬にとって都合の悪いことばかりである。
要するに加瀬の日米交渉史の研究では、加瀬の個人的都合も反映させながら、日米交渉における外務省の責任がすっぽりと抜け落ちている。日米開戦という結果に終わり、しかも未曾有の悲惨に日本国民を陥れた外務省の責任をすっぽり抜かしてあるのである。
(中略)加瀬も嘆くこのような日本になったのは、この前の戦争、とくに日米戦争に対する誤った認識が大きく影響している。なぜそのような誤った戦争認識が形成されたのか、加瀬の誤った歴史記述が大きく起因してはいないか。外務省の反省がすっぽり抜け落ちた歴史記述によって、真には戦前への反省のない反国民的外交が引き継がれてきたのではないか。東京裁判を批判しながらも、現実には東京裁判判決が垂れ流され、いわゆる東京裁判史観が流布する社会構造を作り上げてしまったのは、加瀬自身の日米交渉史にも大きく因っているのではないか。(杉原誠四郎『杉原千畝と日本の外務省』p144~148)
この連載で杉原誠四郎が「南京事件は、不名誉な事件であった」と書いた『日米開戦以降の日本外交の研究』を英語や支那語(繁体字)に翻訳して世界に発信しているとお伝えしましたが、杉原はこの『杉原千畝と日本の外務省』も英語版を出版しています。「加瀬のこの本はこうした外務省の戦争責任を完全に回避して、しらばくれているのだ」の部分は次の通りです。
Kase's book completely avoids and feigns ignorance of the Foreign Ministry's war responsibility. (杉原誠四郎『Chiune Sugihara and Japan's Foreign Ministry: Between Incompetence and Culpability 』p73)
杉原誠四郎は「加瀬俊一はfeign ignoranceだ」と世界中に言いふらしているのです。
平成12年には産経新聞のコラム「斜断機」で「加瀬俊一氏に問う」という文章を書いています。
時の外務大臣松岡洋右の責任は大きいけれども、その次に事実上大きな責任をもつのは、松岡の秘書をしていた加瀬俊一氏である。
加瀬氏は右の真珠湾「騙し討ち」は東条がしたという嘘の報告にも内閣情報局第三部長として関与している。
そしてその加瀬氏が、戦後、日米交渉史研究の第一人者となる。日米交渉において最大の判断ミスを犯した者が日米交渉史研究の第一人者になる? なれる? 全く奇怪千万な話である。そのために日本の日米交渉史の研究はどれだけ歪んでいることか。
私はこの疑問を「諸君!」平成10年1月号で公開質問してみたが、加瀬氏からは子息英明氏を通して断片的な返答はあったものの、研究者(?)として明らかに不十分なものであった。日米交渉史の権威者として、日本外交の大御所として、回答すべきではないかと、改めてご質問申し上げる。(産経新聞平成12年9月23日付 杉原誠四郎「斜断機」加瀬俊一氏に問う)
杉原誠四郎は加瀬俊一氏を完全に馬鹿にしきっています。さらにその1年半後には「正論」平成14年3月号に「日米開戦の重大事実とその後の悲喜劇」という文章を書き、「腹を切っても償いきれない」と自決を命じています。
加瀬氏は日米和解の最大の好機をつぶした責任者である。そして同年10月東条内閣が成立するや、大臣秘書官および日米交渉主管の北米課長を務め、結局、失敗に終わった日米交渉の最大の責任者の一人となるのである。
その加瀬氏が戦後になって日米交渉の研究者になった。私は、右の『杉原千畝と日本の外務省』でその責任を問うた。つまり失敗に終わった日米交渉の直接の責任者が、戦後になって日米交渉の研究を主導したことの責任である。
加瀬氏は戦後、初代国連大使となって華々しい活躍をするのであるが、その加瀬氏が昭和45年、日米交渉の研究書『日米交渉』(日本外交史全34巻+別巻4巻のうちの第23巻=鹿島出版会)を出した。要するに加瀬氏は自ら失敗した日米交渉の研究を先導し、主導し、自己の失敗の責任とともに外務省の責任を隠す日本外交史を作り上げてしまったのである。これを追認した日米交渉の研究者、学界にも責任があるのであるが、ともかく日米交渉の研究は、加瀬氏の先導、主導のもとに重要な事実が隠され、外務省の責任が見えない外務省正当化のための歴史研究となり、日本国民は外務省の責任が見えないような日米交渉史研究に導かれたのである。
(中略)外務省は自ら失敗した日米交渉に関する史料を正々堂々と公表せず、日米交渉史の研究を主導し、誘導し、外務省の戦争責任を見えないものにしてしまったのである。その第一人者が先に述べた外相松岡洋右の秘書官、外相東郷茂徳の秘書官兼主管課長を務めた加瀬俊一氏である。
加瀬氏の日米交渉における失敗は決定的である。特に先に述べたように昭和16年4月日ソ中立条約を締結以後、独ソ戦争が始まるまでの「日米諒解案」をめぐる処理に関する責任は最高度に決定的である。
これは私の『杉原千畝と日本の外務省』に詳しく書いたことだが、杉原千畝は、当時、ドイツのケーニヒスペルグにいて、そこから5月9日の時点で、ドイツ軍が物資を集め、ソ連領内の地名を読む訓練をしていることを突き止め、これを本省に通報している。独ソ戦争不可避の情報である。しかしこのときの外相松岡と秘書官加瀬氏はこれをまったく考慮しないで、何の策も立てないままに6月22日の独ソ戦争を迎え、日米和解の最大の好機をつぶしてしまったのである。加瀬氏が杉原の電報を直接手にして読んだかどうかは分からないが、当時、独ソ戦争不可避の情報は他からも頻繁に届いており、それを無視した責任は腹を切っても償いきれない責任である。
さらに加瀬氏には、日本の外交電報がアメリカ政府によって解読され続けたという事実についても特段の責任がある。
(中略)そうした加瀬氏が、戦後、先導し、主導した日米交渉史が歪まないはずはない。自己の責任と外務省の戦争責任を隠した歪んだ日米交渉史ができあがることは必定である。(「正論」平成14年3月号 杉原誠四郎「日米開戦の重大事実とその後の悲喜劇」)
同じような文章は自由主義史観研究会(藤岡信勝代表)のサイト←クリック にも掲載されています。
加瀬俊一氏は平成16年、101歳で他界しました。「新しい歴史教科書をつくる会」と自由社は、杉原誠四郎会長と加瀬英明社長による公開討論会を行い、加瀬俊一氏の戦争責任の有無に決着をつけてほしいと思います。
安倍政権のとき、杉原誠四郎が日本教育再生機構が関係する勉強会で講師を務め謝礼を受け取ったことが「新しい歴史教科書をつくる会」理事会で問題になった―と当ブログへの情報提供者である「つくる会」関係者(故人)から聞きました。そして杉原が再生機構側との合流を仲介者を通じて模索しているという噂が流れました。
絶対にお断りします。正統保守陣営に杉原誠四郎は不要です。そちらにいてください。
加瀬俊一氏を非難する杉原誠四郎(本名・平田誠四郎)は、日本会議を宗教右翼と中傷する元会長や会員がいる「新しい歴史教科書をつくる会」の会長にふさわしい人物です。
※これまでの連載
★つくる会会長「南京事件あった」―杉原誠四郎の歴史観〈1〉
★つくる会会長「天皇に戦争責任」―杉原誠四郎の歴史観〈2〉
★つくる会会長「韓国併合は暴挙」―杉原誠四郎の歴史観〈3〉
★つくる会会長「民主党に期待」―杉原誠四郎の歴史観〈4〉
★つくる会会長「原爆の犠牲に意味あった」―杉原誠四郎の歴史観〈5〉
※つくる会と日本会議批判
★朝敵・西尾幹二「天皇の存在必要ない」
★「国際謀略」妄想に基づく言いがかり訴訟―藤岡信勝さんの大敗北
★西尾幹二「日本会議はカルト教団」-つくる会と反天皇<上>
★「キリストの幕屋」最高指導者が死去
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