久保野和行氏より、随想一遍が届きましたので、ご紹介いたします。
長文ですが、人間本来の知恵と叡智が盛り込まれた随想録です。
「再生可能エネルギーと “再生紙物語”」 久保野和行

福島原発事故以来、国民感情は原子力利用のエネルギー対策にはアレルギー症状が多く、その対極にあるのが再生可能エネルギーへの期待感がある。昨年の7月には買取り制度が法案成立して、各産業、各企業が新事業へ一斉にスタートした。20年間一定価格買取りがビジネスプランを可能にしたことで、ソーラー・風力・地熱・バイオ・小水力等が見直されている。
もともとエネルギーとは歴史上では、人類が動物世界から隔離した空間を創造したのは“火”を起こす知恵を持ったことで生まれたとも言える。最初は木などを燃やす時代から、石(石炭)や油(石油)へと変化していった。
しかし木から得るエネルギーが最も長くポピュラーな物であったから、いつか人間は森林深く立ち入り、過激な行動が、禿山をつくり、そのしっぺ返しが自然の怒りを買い、風水害という猛威の前に慄いた。自然からの贈り物はエネルギーだけではなく、紀元前まえ中国の蔡倫が“紙”を作り出した。
2012年度の紙消費量は26,278,388,000トンが日本全体で使われていた。その内訳で注目するのは、63.9%が再生紙であることです。森林伐採で、ますます深刻化する地球環境の劣化の中で、三分の二がリサイクル適正な再生紙が占めている。
振り返ってみて、そもそも再生紙とは、いつ、どこで、誰が作ったのかに興味を持った。意外や意外、その人物とは南喜一さんという日本人です。
この方は石川県金沢市の人で、上京して早稲田大学理工科に入った。苦学生で生活は艶歌師、人力車の車夫などをしていた。その時の艶歌師先輩とコンビを組んだのが、東大医学部の学生でした。先輩が卒業する頃は、学生の身分で艶歌師を禁止され、それで車夫になる。あまり実入りが良くないので、一念発起して1年間学校を休学して、上野の薬剤師専門校で資格を取りました。その縁で、先に卒業していた先輩の医学生が吉原病院に在職したおり、そこに職を置くことにした。
学生の身分でできちゃった結婚した。奥さんの実家が向島の寺島村の出身、義兄が当時の石鹸工場の職工であった。その頃の寺島界隈は、今の花王やライオン、カネボウ等の石鹸工場群があり、廃液が水田を冒して、農民がつけ火の騒動を起こした。
義兄は野次馬で見学中に亀戸署に逮捕された。南さんは、義兄の釈放に向かい署長と交渉した。理学部で理路整然と廃液の中からグリセリンの抽出すれば問題ないと話した。
義兄は釈放、署長は関係会社に廃液処理の知恵を授けたが、事態は解決されない。再度呼ばれ諮問され、それではと実際にドラム缶を購入して実験をして証明した。
それを契機に実際に工場を起こした。グリセリンは下瀬火薬の原料となり、一躍成金となる。当然ながら廃液が金を生むから、石鹸工場は社内処理に向く、そこで南さんは事業転換を図る。
エボナイトに着目した。ガス灯から電気に変わる時代であったので絶縁体の需要は旺盛であったので大成功した。人手が足りず弟2人を呼びました。それと同時に先輩医師からの依頼で水野成夫さんを入社させる。東大の優秀な人物ですから会社規模を拡大する上には貢献した。しかし副産物も残した。それは水野さんが東大の共産党の細胞として活躍していたので、一時の避難所的な形で在職していたが、弟2人は感化された。
水野さんはその後離れたが、事件は関東大震災で世情不安を理由に亀戸署で虐殺があった。南さんの弟が、その中の一人で殺されたのです。
義憤駆られた南さんは、弟の敵とばかり体制側に牙を向けたのです。事業で成功していた会社を売り、その資金の多くを共産党に寄付して、それを足がかりにして党幹部になり、闘争闘士に変貌した。
しかし治安維持法の制定でおきた3.15事件で南さんは逮捕された。
ここからが南さんらしいエピソードがある。危険思想のある人物であるから雑居房には収監することができず、独居房で、なおかつ危険思想人物との接触が禁止されているので看守さえ言葉を交わすことがなかったそうです。必然的に閉鎖された空間での時間の使い方が、その後の人生を変えるきっかけになるとは南さんは思っていなかったようです。
長い収監期間で、やることがないので食事と健康のパロメーターとして排便の観察に取り組んだ。朝、昼、晩の食事内容と自分の体調のリズム、それに排便時の色、形、固さ等の観察日記を克明に付けていった。当時の監獄所は水洗でなく溜池方式で窓際の壁に沿って下に落とす方式がとられたそうです。ある日、何時ものように観察していると古新聞が引き詰められた上に垂れ流したのが、新聞のインキが脱墨していることに気づいた。
日本人はコメ文化で成り立っている。当然ながら成分に米糖(糠=ぬか)がrグロプリンというタンパク質で、昔から日本人に馴染みの洗剤であった界面活性剤であった。面白い発見の新事実に興味を持った。
3.15事件の転換は、同じく収監されていた水野成夫さんが、獄中で転向宣言を発表して釈放された。それを南さんは聞いて、同じく転向宣言して娑婆に出てくるが、寺島に家に戻って始めたのが玉の井(永井荷風の濹東綺譚に登場する)入口に婦人解放同盟をボランテリアで開く、当然ながら話題になり水野さんと旧交を温めることになった。
監獄時代の話に及び脱墨のことも及ぶ、当時の水野さんは転向後、もともとのエリアであったフランス文学に向かい翻訳物でベストセラーを出していた。その良き理解者が宮島清次郎さん(日清紡社長)で、繊維で財を成していた。陸軍から軍事物資補充として、紙の製造強化の一環として再生紙を作ることで国策パルプを創設した。
なかなか思うようにいかない時に、脱墨話を聞き陸軍に申請した。そこで宮島さんが私財を出し、太平洋戦争の前の年に、国策パルプ内に大日本再生紙株式会社の研究所を作り再生紙を作った。
終戦後合併して国策パルプ社長に水野さんがなりました。水野さんはその後文化放送を買収して、それを土台にフジテレビを創設し、その後、産経新聞を再建した。
一方、南さんは京都大学医学部の出身の代田稔さんの依頼で、「ハガキ一枚、タバコ1本で買える健康」のヤクルト(ラクトバチルス・ガゼイ・シロタ株=代田さんの名前を取って)を設立した。家え貧して孔子出るの諺もあるが、時代の変化に十分と対応できた南さんの生き様にエネルギーパラーを感じる。
再生可能エネルギーと言われ自然の恵を謳歌することも大事であるが、それよりも、もともと持っている人現本来の知恵と叡智のエネルギーを発揮することが今ほど求められていると思った。
長文ですが、人間本来の知恵と叡智が盛り込まれた随想録です。
「再生可能エネルギーと “再生紙物語”」 久保野和行

福島原発事故以来、国民感情は原子力利用のエネルギー対策にはアレルギー症状が多く、その対極にあるのが再生可能エネルギーへの期待感がある。昨年の7月には買取り制度が法案成立して、各産業、各企業が新事業へ一斉にスタートした。20年間一定価格買取りがビジネスプランを可能にしたことで、ソーラー・風力・地熱・バイオ・小水力等が見直されている。
もともとエネルギーとは歴史上では、人類が動物世界から隔離した空間を創造したのは“火”を起こす知恵を持ったことで生まれたとも言える。最初は木などを燃やす時代から、石(石炭)や油(石油)へと変化していった。
しかし木から得るエネルギーが最も長くポピュラーな物であったから、いつか人間は森林深く立ち入り、過激な行動が、禿山をつくり、そのしっぺ返しが自然の怒りを買い、風水害という猛威の前に慄いた。自然からの贈り物はエネルギーだけではなく、紀元前まえ中国の蔡倫が“紙”を作り出した。
2012年度の紙消費量は26,278,388,000トンが日本全体で使われていた。その内訳で注目するのは、63.9%が再生紙であることです。森林伐採で、ますます深刻化する地球環境の劣化の中で、三分の二がリサイクル適正な再生紙が占めている。
振り返ってみて、そもそも再生紙とは、いつ、どこで、誰が作ったのかに興味を持った。意外や意外、その人物とは南喜一さんという日本人です。
この方は石川県金沢市の人で、上京して早稲田大学理工科に入った。苦学生で生活は艶歌師、人力車の車夫などをしていた。その時の艶歌師先輩とコンビを組んだのが、東大医学部の学生でした。先輩が卒業する頃は、学生の身分で艶歌師を禁止され、それで車夫になる。あまり実入りが良くないので、一念発起して1年間学校を休学して、上野の薬剤師専門校で資格を取りました。その縁で、先に卒業していた先輩の医学生が吉原病院に在職したおり、そこに職を置くことにした。
学生の身分でできちゃった結婚した。奥さんの実家が向島の寺島村の出身、義兄が当時の石鹸工場の職工であった。その頃の寺島界隈は、今の花王やライオン、カネボウ等の石鹸工場群があり、廃液が水田を冒して、農民がつけ火の騒動を起こした。
義兄は野次馬で見学中に亀戸署に逮捕された。南さんは、義兄の釈放に向かい署長と交渉した。理学部で理路整然と廃液の中からグリセリンの抽出すれば問題ないと話した。
義兄は釈放、署長は関係会社に廃液処理の知恵を授けたが、事態は解決されない。再度呼ばれ諮問され、それではと実際にドラム缶を購入して実験をして証明した。
それを契機に実際に工場を起こした。グリセリンは下瀬火薬の原料となり、一躍成金となる。当然ながら廃液が金を生むから、石鹸工場は社内処理に向く、そこで南さんは事業転換を図る。
エボナイトに着目した。ガス灯から電気に変わる時代であったので絶縁体の需要は旺盛であったので大成功した。人手が足りず弟2人を呼びました。それと同時に先輩医師からの依頼で水野成夫さんを入社させる。東大の優秀な人物ですから会社規模を拡大する上には貢献した。しかし副産物も残した。それは水野さんが東大の共産党の細胞として活躍していたので、一時の避難所的な形で在職していたが、弟2人は感化された。
水野さんはその後離れたが、事件は関東大震災で世情不安を理由に亀戸署で虐殺があった。南さんの弟が、その中の一人で殺されたのです。
義憤駆られた南さんは、弟の敵とばかり体制側に牙を向けたのです。事業で成功していた会社を売り、その資金の多くを共産党に寄付して、それを足がかりにして党幹部になり、闘争闘士に変貌した。
しかし治安維持法の制定でおきた3.15事件で南さんは逮捕された。
ここからが南さんらしいエピソードがある。危険思想のある人物であるから雑居房には収監することができず、独居房で、なおかつ危険思想人物との接触が禁止されているので看守さえ言葉を交わすことがなかったそうです。必然的に閉鎖された空間での時間の使い方が、その後の人生を変えるきっかけになるとは南さんは思っていなかったようです。
長い収監期間で、やることがないので食事と健康のパロメーターとして排便の観察に取り組んだ。朝、昼、晩の食事内容と自分の体調のリズム、それに排便時の色、形、固さ等の観察日記を克明に付けていった。当時の監獄所は水洗でなく溜池方式で窓際の壁に沿って下に落とす方式がとられたそうです。ある日、何時ものように観察していると古新聞が引き詰められた上に垂れ流したのが、新聞のインキが脱墨していることに気づいた。
日本人はコメ文化で成り立っている。当然ながら成分に米糖(糠=ぬか)がrグロプリンというタンパク質で、昔から日本人に馴染みの洗剤であった界面活性剤であった。面白い発見の新事実に興味を持った。
3.15事件の転換は、同じく収監されていた水野成夫さんが、獄中で転向宣言を発表して釈放された。それを南さんは聞いて、同じく転向宣言して娑婆に出てくるが、寺島に家に戻って始めたのが玉の井(永井荷風の濹東綺譚に登場する)入口に婦人解放同盟をボランテリアで開く、当然ながら話題になり水野さんと旧交を温めることになった。
監獄時代の話に及び脱墨のことも及ぶ、当時の水野さんは転向後、もともとのエリアであったフランス文学に向かい翻訳物でベストセラーを出していた。その良き理解者が宮島清次郎さん(日清紡社長)で、繊維で財を成していた。陸軍から軍事物資補充として、紙の製造強化の一環として再生紙を作ることで国策パルプを創設した。
なかなか思うようにいかない時に、脱墨話を聞き陸軍に申請した。そこで宮島さんが私財を出し、太平洋戦争の前の年に、国策パルプ内に大日本再生紙株式会社の研究所を作り再生紙を作った。
終戦後合併して国策パルプ社長に水野さんがなりました。水野さんはその後文化放送を買収して、それを土台にフジテレビを創設し、その後、産経新聞を再建した。
一方、南さんは京都大学医学部の出身の代田稔さんの依頼で、「ハガキ一枚、タバコ1本で買える健康」のヤクルト(ラクトバチルス・ガゼイ・シロタ株=代田さんの名前を取って)を設立した。家え貧して孔子出るの諺もあるが、時代の変化に十分と対応できた南さんの生き様にエネルギーパラーを感じる。
再生可能エネルギーと言われ自然の恵を謳歌することも大事であるが、それよりも、もともと持っている人現本来の知恵と叡智のエネルギーを発揮することが今ほど求められていると思った。
