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地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

点から はじまった・・・ 星野 富弘さんのこと

2006-09-24 07:48:41 | こころの ともしび
  事故から 2年が過ぎたころ、 星野さんは文字を書いてみようと思いたった。きっかけは、同じ病室で共に過ごした中学生のT君に寄せて、皆で帽子に寄せ書きをしたことだった。

 最後に回ってきた帽子に、T君の喜ぶ顔を思い浮かべ、はじめてサインペンを口にくわえ、全身の力を首にこめてペン先を帽子に向けた。そして、わずかな点を一つ、くっきりと残した。

 手紙をもらうと、返事を書きたくなりますよね。でも書けない。何とか書く方法はないかと、ずっと思ってはいました。でも無理だ、とも。
 それが、T君がこの帽子に寄せ書きをしてほしい、と非常に具体的に迫ってくれたことで、実際に動き出すことができた。
 
 でも、点を一つ つけるのがやっとでした。 このときは、この点を使って、母が 「 お富 」 というサインにしてくれたのですが、これをT君がえらく喜んでくれた。それをきっかけに、本気で字の練習を始めました。

>>> ワタクシ ごと  
RUN   マラソン  三浦  10キロ にむけて・・・
 とりあえず 動けるわたしになったこと ありがと!なぜ マラソンなのか?よくはわからない。ただ 右足を一歩前に出す、次に 左足を一歩前にだす。・・・すると 前に進んでいく。このことが すきなんじゃあないかな?
 
 立ち止まることももちろんあるだろうけれど・・・ 一歩 一歩 歩めば 前進するってことがすきなんだろう。

 本日 10キロコースを考える。海に向かって走るのは すき!今日も(23日)カヌーの若者達がいた。風がめちゃくちゃ強くて 波が高く 前に殆ど進めず。「頑張れ~!」なんて こころで 声 かけ。

 右足は そこそこ回復。でも まだ無理は禁物。今日はまた迷子になり、お稲荷さんに出た。何だかしらないけれど、とりあえず ご挨拶。稲荷神社って 何の神様? ようしらんけど? まあ きつねさんも お友達?ってことで・・・。

 海までくるとかもめが 飛んでるんですよ。風が強いので自分では ぱたぱたやらなくても浮かんでいられるんですね。お空に。バランスとるのが めちゃくちゃ上手だよね。

 海のコース。大体 2時間。がんばりますわん。

>>> PHOTO ・・・
いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった  
  いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった・・・  おだまき


>mayumi さ~~ん  ちょっと質問なんじゃけど・・・広島の原爆のあと 少女が男の子に歌とうてあげたという 状況に似合いそうな、子守唄があるかね?(何だか 英語のテキストに出てきたらしい。児言態会員 たぬきおやじさまより・・・Q)

 わたしゃあ いろんな県の子守唄を めちゃくちゃに覚えとるけえ わからんのじゃが・・・? あんたあ 知っとってかね?

 「ねんねこ しゃっしゃりま~せ~ ・・・起きて泣くこ~の ねんころろ っていうのは ありゃあ どこのかね?」

 「 ・・・・ ? ・・・ 起きたら もうも(=うし)にかぶらすぞ!(=多分 かみつかせる。)」いうのが あってから メロディは 全くわからないんだけど、これかな? 昔 子どもの頃 教科書でみたような? でも何だか おっかない子守唄だと 思った記憶あるんだ。

 原爆のあと これじゃあ 泣きとうなるよね? 

 ついでにゆうたら、こないだ 石川県の子守唄 閻魔様がでくる子守唄あったわ。ちょっとびっくりした。でも人殺しとか 平気でする子供達には いいかも?って思ってしまったな。

 「指きりげんまん うそついたら 針千本 の~~ます。♪」とか 今どきやるんですかね? 

>ナイト!

 たぬきおやじさんさん から返信。

 「寝たら もうもを・・・」佐伯郡 能美町

       ねんねんよ  ねんねんよ

       寝たら おもちゃを 買うてやろ

       起きたら もうもに かぶらすぞ

       だそうです。

 ちなみに 閻魔様の 子守唄も 見つけたそうです。

 みなさま~~ 検索できて よろしいわね。うらやま ぴ~です。

 たぬきおやじさ~~ん 返信 とびました。こちらにて。悪しからず。

>mayumiさま~ ご足労?ご心配?おかけしました。ありがとう!

  明日から 占いの 学習にはいります。2日間 ブログ お休みします。みなさま~~ お元気でね~~
 

星野 富弘  『 花 の 詩画展 』

2006-09-22 20:33:37 | こころの ともしび
『 花 の 詩画展 』   星野 富弘 

 行ってきました。みなとみらい 横浜赤レンガ倉庫 1号館 2階

 作者の方が どのような経歴の持ち主かは 全くしりませんでした。

 < PROFILE >

 1946 年  群馬県に生まれる。
          群馬大学を 卒業後、中学校の体育教師になるが、
          頚椎を損傷し、手足の自由を失う。
 1927 年  病院に入院中、生かされていることの感謝と喜びを、
          口に筆を加えて文や絵をかき始める。

          その作品展が全国各地で開催され、大きな感動を呼ぶ。

 1991 年  故郷の 勢多郡東村に富弘美術館開催。

          海外でも 作品の持つ暖かさ やさしさが好評を博している。

  作品は 朝日の 中で 写真をとりたいので 明日からの お楽しみということで・・・

< プロローグ > 文章の一部 割愛させていただきました。

 小学生の頃・・・『少年ケニア』を 夢中になって読んでいました。
絵は、なぜか好きでした。・・・音楽や体育の時間も遊べるので好きでした。

 今のように絵を描くきっかけというと、それはけがをしたからです。・・・中学校の教員をしていた時、クラブ活動の指導中はりきりすぎて、首の骨を折ってしまいました。それで手足が動かなくなりました。

 毎日毎日、毎晩毎晩、何もできなくなって、食べることもできなかった。どこも動かすこともできない。その上、なかなか眠れないんですね。目をぱちくりぱちくりしながら、朝まで。そんな非常に苦しい夜を何ヶ月もすごしたんです。

 体が丈夫だったし、強い人間と錯覚していたということにその時、気がつきました。眠れないし、本当に苦しい中で、自分にできることっていったら、覚えていたものを頭の中で繰り返し思うよりなかったんですね。

 父がやっていて覚えていた詩吟のことばや、よく国語の教科書に載っていたような短い詩なども頭の中で繰り返していました。すると、それらのことばが非常にきれいだったんです。

 苦しい中で繰り返していると、自分もその世界の中に入っていって、本当にその美しい世界を歩いているような気持ちになれました。

 このまま死ぬかもしれないけど、もしこの先、生き続けることができたら、この詩のように本当に苦しい時、助けてくれるものを自分も持ちたいと思いました。

   つづく・・・ すみません。眠く なりました。 Z Z Z ・・・

 入院中、たくさんの人に手紙をもらい、すごく返事が書きたくて、「どうにかして書きたい」そう思ってわずかに動かせるようになった首を使い、口に筆をくわえて練習をするようになりました。・・・

 どうしても余白ができてしまいます。そこに枕元にあった花を描いたっていうのが絵を描いた始まりです。

 そんな風に描いた手紙を出すと、下手な字と絵なのに、みんながすごくほめてくれてうれしかったなあ。ますますやる気になってどんどん描いた。だんだん慣れてきて、友達から「手で書いていた時の字と、くせも形もみんな同じだ」といわれました。

 その時に気がついたんですが、字を書くのは手が勝手に書くのじゃなくて、手を動かすものが書いている。だったら口で書こうが、足で書こうが、美しいものを美しいと感じられる心さえ大丈夫なら、自分にも絵が描ける、文章だって書ける。

 文章・ことばというのは自分の中から出てくるのだから。自分さえしっかりしていれば、書ける。そう思って書き始めました。

>>> ここからは・・・ワタクシごと
写真は  はなきりん の花   今朝  一生懸命 お弁当作りとか いろいろ頑張ろうとしやけど・・・
 
 親を 親とも 思わない発言に・・・きれそうになるの 我慢したけど・・・自分が悪いんだって 思うけれど・・・そのたびごとに 気を抜くことやったけど・・・悪い気とばさないのって 難しい。

 自分が 自分の親や 子どもにしたことって きっと自分に跳ね返ってくるんだよね。

口には ださなかったけれど・・・昔「くそ 親父 死ね!」って何度も こころの中で思ったっけ。かあさん 泣くの見たくなかったし、自分の生き方 あったし・・・。

 あかの他人様に 悪い気とばすこと殆どなくなったと思うけど(多分 失言はあると思うけれど・・・)・・・自分の家族って難しい。だって くつろぐところでしょ。地が でちゃうしね。普段着(きるものの ことじゃあないよ。)整えるのは 難しいよ。でも まあ これが私の仕事なんですけどね。

 今日もブログ友達のみなさま ありがとう!遊びに いきま~~す!
そうそう  言葉 書いてなかった。 『 花と棘が 同じ所から 生えている  やがて  花は 散り  棘だけが残る  何だか私の心のようで 胸の奥が チクリと痛い 』

  

ストリート  チュードレン

2006-09-20 08:15:00 | こころの ともしび
 写真は 私が 里親をしていた アメリカのスターちゃん(Starguasha Smalls # 353398 )ニューヨークのスラム街に住んでいる。

 3度ばかり 手紙を書いた。なしのつぶてだった。毎月の送金をためらったこともあった。主人(実父も含む)が一生懸命働いて稼いでくれたお金だ。無駄にはできない。

 里親になったのにはわけがある。それは 私が 中学・高校とあこがれていた人のお誕生日と同じ日に生まれていたからだ。あこがれていた人は 「志」の高い人だった。

 人のためになる仕事をしたいと言って 医者を志したんだ。多分優秀な成績で卒業なさったのだろうと想像する。何ごとも一生懸命やる人だったから・・・。長崎の地で大学の付属病院で働いていたらしい。風のたよりに聞いた。

 大学病院というところは 相当ハードな仕事をこなさなくてはならないところなのだろうと思う。主人の転勤先の大学病院で マンマミーヤとジャパン 同時に入院したことがあったから・・・。
 マンマミーヤは まだ小さくて大変だった。熱が 全く下がらずに(41度~)、髄膜炎の疑いがあるということで脊髄に注射を打って検査した。看護婦さんが三人がかりで押さえつけた。

 「お母さんは 向こうに行っててください。」

 マンマミーヤは 病棟中に響き渡るような声で泣いた。係りの先生は心配して何回も様子をみに来てくださった。患者はうちの子だけではない。沢山いるんだ。その一人ひとりに心配りをしていては 心休まる時なんてないと思う。

 ジャパンが 生まれたその年に そのあこがれの人は逝った。二人の小さな子どもを残して・・・。癌だった。33歳の若さだった。何だかな~。神様っているのかな?って思った時だった。

 今日 日本の愛媛県の某教会から電話があった。スターちゃんの消息がやっとわかった。どうやら知らぬ間にお引越しをしたらしい。両親と一緒なのかどうかは 全くわからない。アメリカではこういうケースはそこそこあるらしい。

 この教会では インドで孤児院も開いているらしいのだが、インドではそのようなことはないらしい。

>>> 『ネパール』 インドより貧しいといわれている国。
  
 ポカラ ・・・元 広島学院の先生、大木章次郎神父さまが たったお一人でお出かけになった場所だ。

 神父さまは 只今も、かの地で障害児教育に携わっていらっしゃる。御歳八十歳。

 ”太平洋戦争の末期、大学在学中に海軍予備校生として、広島県大竹市にあった潜水学校に配属され、敵艦に体当たりする特攻兵器の人間魚雷『回転』の出撃訓練中に敗戦を迎える。ヒロシマの原爆の閃光を大竹で眺めたという。祖国日本の国難に殉じようとした、帝国海軍の士官候補生だったのである。”広島学院物語より

 『ネパール』行ってみたい国。そちらに切り替える。
 
 スターちゃんとの約束はもうしわけないが果せない。送金したお金が彼女のためにつかわれるとは限らないからだ。下手をすると両親のドラッグ代にきえることもなくはないだろう。それに例え送りたくても住所がわからない。

 ただ 夜空を見たときに、輝く星を見つけたときに祈ろう!

   Special  Prayer and  Need

      ”family and school” 彼女の願いだ。

  James blunt 

            back to bedlam を聴きながら・・・



 


  
 

スニータの 靴 ( ポカラの会  通信27号より )

2006-06-17 20:53:52 | こころの ともしび
 倉光先生の 御著書 「広島学院物語」の中から・・・


>ヒンズー教が国境のネパールでは、金曜日は半ドン、土曜日がお休みで日曜日は平日です。8月6日(土)のことです。主日のミサの後、玄関横の応接室と診療室と発声練習室などをかねた部屋で私は大木神父と将来の夢を語りあっていました。

 すると窓の外に静かに近づき、中をのぞく一人の少女がいました。名をスニータと言うこの少女は事故と病気で相次いで両親が亡くなって、今は17才のお兄さんと二人きりでポカラに住んでいます。お兄さんは自動車修理工場で働いて月1000ルピーを稼いで生活を支えているのです。

日本の小学校5年生くらいにしか見えない13歳の小さなスニータは炊事や洗濯などお母さん役を一切引き受けて大好きな学校に通っています。

 ある日この一家を支える大切なお兄さんが工場で指に大けがをして大木神父のところに治療にきました。病院に行けば大変なお金を工場主から借金しなければならないので、一月1000ルピーの収入の中から、毎日の労働でその借金を返せば生活していけません。その上、病院より大木神父の治療の方が早く治るという噂を聞いたので初めて門を叩いたのです。

 労災保険も失業保険も児童福祉法も生活保護も何もない貧しい国で、食べ物がなくて死んでいく子供たちが毎日何百人もいる国です。

 お兄さんのけがが早く治って働けるようにならないと、毎日のお米や野菜など炊事の材料が買えないとスニータも心配でお兄さんに付き添って、初めて外国人の神父の所にやって来ました。

 幼い兄弟だけで、けなげに生きている姿を見た優しい大木神父は、「けがの治療が終っても困った時にはいつでも相談にくるんだよ」といってその後の二人のことを、いつも気にかけていたのです。その後スニータは時々大木神父を訪ねて来ていたようです。

 窓の外にたたずむスニータを見つけた神父が「何か用ですか?」と優しい声をかけると「いいえ別に用事はありませんが、ただちょっと神父さまの所に来てみたくなっただけです。と 答えます。

「この子はいつでもこういうんです。きっと何か助けを必要としているのでしょう」と 私に言いながら神父は「まあ中に入りなさいよ。」と外の少女に声をかけました。

スニータは部屋に入り、神父と私のまったく意味のわからない不思議な外国語の会話を聞きながらうつむいています。

 時々神父は「何か困ったことがあるのでしょう?さあ遠慮なく言いなさい。」とネパール語でスニータに話かけますが、「いいえ何でもないのです。ただ神父様の側にいるだけで安心するのです」などといってる。そうじゃあない、何か言いにくい問題があってきていることはスニータの顔に書いてあるのです。

いつ果てるとも知れない私との対話は後にして、神父はスニータ来訪の目的を上手に聞き出しました。(もちろん私には全くわからないネパール語で、以下は神父から聞いた話です。)

 学校から素足で来ないで靴を履くように言われたというのです。田舎の子供はみんな素足で学校に通っているのに、町の学校は最近、素足で行く子供が少なくなり身なりもきちんとしてきました。

 怪我で今まで通りには働けず収入の減ったお兄さんに、学校に通わせてもらっているだけでも申し訳ないのに、「靴を買うから 40ルピーちょうだい。」とはどうも言い出しにくいので、大木神父の所にきたのでした。

 40ルピーは日本では自動販売機のジュース1本分にもならない金額です。それを大木神父にも言い出しにくくて、もじもじしていた私の孫のような幼いスニータの心の中の葛藤を思うと私は不憫でたまらず、今思いだしても涙がでそうになるのです。

 「これは優しい日本の人たちからのスニータちゃんへの贈り物なんだよ、靴下も一緒に買いなさい。」と大木神父は50ルピー(約100円)を渡して優しく頭をなでました。これで来週から新しいズックを履いて学校に行けるのです。
 スニータの目には涙が光っていました。

 貧しい人に単に物やお金をあげるのではなく自立を助ける援助を心がけておられる大木神父の態度は、時として私には厳しく冷たすぎるように思えるほどですが、「ポカラの会」会員の皆様からのご援助はこのようなことにも役立っています。
 私はスニータちゃんに代わって、会員の皆様のご支援にあらためて心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございます。

 + + + + + + + + + + + + 
 
 私が 何の 拘束もない 「ポカラの会」の 会員になったのは いつのことだったろう? 思い出せないのだが・・・いずれにせよ、只今も 会員であるのは この「スニータの 靴」という お便りが わたしの心を 捉えて 離さなかったことだけはまちがいないと思う。