ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

さざえ堂巡り巡って大学へ(2) 足利市・鑁阿寺~足利学校

2012-12-02 08:33:09 | 旅・おでかけ

11月30日(金)

あまから屋を出て、参道を鑁阿寺(ばんなじ)へと向かう。

濠に架けられた橋を渡り、木造金剛力士像が立つ楼門をくぐって境内へ。
鑁阿寺は、足利義兼が建久7(1196)年に
邸内に持仏堂を建て、守り本尊として大日如来を祀ったのが始まりといわれる。
つまりは、足利氏宅跡、というわけだ。
四方に濠と土塁があるのは、中世の武家館の代表的な構えである。
その後、足利義氏が堂塔伽藍を建立し、足利一門の氏寺とした。

正面は大日如来を本尊として祀る本堂で、境内は広い。

銀杏の黄葉とカエデの紅葉に彩られた、多宝塔。

樹齢550年ほどといわれている大イチョウ。

境内の紅葉は「見事」の一言に尽きる。
境内を散策し、次は日本における儒学の代表的洗脳機関・足利学校を目指す。


足利学校の創建年代は定かではないが、長享元(1447)年に記録があり
イエズス会の宣教師として日本にキリスト教をもたらしたことで知られるフランシスコ=ザビエルが
天文18(1549)年に、「日本中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介した。
儒学という、当時の支配層にとっては格好の思想で洗脳する専科大学、といったところか

この「学校」の扁額を掲げる学校門は、足利学校の代表的な景観である。

こちらが、学校門に掲げられていた扁額の実物。

学校門をくぐりまっすぐ進むと、四方を塀に囲まれた孔子廟に入るための杏壇門がある。

学校門と同じく、掲げられている扁額はレプリカ(複製)である。

こちらが、杏壇門の扁額の実物。

こちらが孔子廟。
堂内には、孔子の坐像が中央に
足利学校の創建と深い関わりがあるといわれている小野篁(おののたかむら)の坐像が
向かって右に安置されている。

講義や学習、接客の座敷として使用された方丈は復元され
方丈内は見学できるようになっている。

方丈の縁側から眺めた南庭園。
築山のある泉水式庭園だ。

こちらは、北庭園。
塀の向こうに見える建物が孔子廟である。

方丈と書院をつなぐ渡り廊下の途中にある中庭。

こちらは、庠主(しょうしゅ・学長)の書斎である書院(立ち入りはできない)。
書院に続く庫裡は展示室になっており、学校門や杏壇門の扁額の実物などが見られる。

庫裡から外出ると、学生寮もしくは僧房として使われた衆寮が建つ。

衆寮から反時計回りに構内を歩くと、物置として利用された木小屋と
その奥には土蔵が建っている。

土蔵の裏手には、菜園場(さえんば)と呼ばれる畑が。
学校で学ぶ学生達は、自給自足の生活であった。

こちらは歴代庠主の墓所。
室町時代に、関東管領上杉憲実が鎌倉円覚寺から僧・快元を招き
庠主として足利学校を再興して以降、明治元(1868)年までの430年間に23代が在任したが
孔子廟の裏手にある墓は、このうちの17人のものである。

構内では少々異彩を放つこちらの建物は旧遺跡図書館で、大正4(1915)年の建築。
先日の我孫子散歩でもそうであったが、大正年間の建造物は
明治時代末期の韓国併合の影響を受けてか、韓国風の香りがするものが多い。


ひととおり学校内を散策し、足利市駅へと向かう途中
煎餅屋でその店一番の堅焼きを、味噌屋で栃木県特産二条大麦の麦味噌を買い求める。
足利の街を歩き、その文化の成熟度が高いことに驚きつつ、駅へと向かった。
足利市駅15時56分発の東武伊勢崎線に乗り、帰途に就いた。
思い立ったが吉日のさざえ堂巡りが、巡り巡って出た先が大学という
半日かけての面白散歩だった



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お近くまで来てたんですね。 (芝刈り爺さん)
2012-12-02 20:22:47
太田にも栄螺堂があったとは。
こうしてみると足利の紅葉も捨てたものではないですね。
私は2日は熊鷹山に行きました。うっすら雪景色でした。
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雪、雪でしたか… (ぴすけ)
2012-12-02 22:44:20
芝刈り爺さん、熊鷹山は雪でしたか…。
実は、新しい登山靴の足慣らしに、近場の低い山に行こうと思っているのですが、天候がいまひとつ定まらないので実行に移せません。
雪がつくようになると、私の場合は行く山も限られてくるので、よくよく考えねば

鑁阿寺の紅葉は見事でしたよ。
今年いちばんかな。
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