【第1日・8月14日(日)】
北望台→明月荘(弥兵衛平小屋)→金明水→弥兵衛平湿原→明月荘(弥兵衛平小屋)
北望台から歩き始め、宿泊先である弥兵衛平小屋に到着したのは14時半を少し過ぎた頃だった。
小屋は大変きれいで、トイレも屋内にあり、臭わない方で、かなり快適だ。
既に1階には先客の好青年が昼寝をしていた。
我々の到着で図らずも目が覚めてしまったようで、詫びを入れると共に挨拶を交わした。
このお昼寝青年(以後、こう呼ばせてもらうことにする)によれば、2階にもう1人いるとのこと。
2階の先客はどこかに出掛けて不在であった。
我々は、どこに陣を取るか悩んだが、1階のお昼寝青年と土間を挟んだ場所に、陣を取った。
郡山の万年バロック青年によれば、2階の方が眺めが良く快適だとのこと。
しかし、この時点では、ザックを背負って梯子の昇り降りをするのが嫌だったのと(軟弱)
2階に陣取っている人物がどんな人物かわからないのも不安だった。
そこへ2階に陣取っている男性(ファッション優先氏、と呼ぶことにしよう)が戻ってきた。
短パンにトレッキングタイツを履き、ザックには小さなカラビナをびっしり付けている。
13日は吾妻小舎に泊まり、今朝浄土平を出てきたそうだ。
お昼寝青年も同行程だったそうだ。
さあ、荷物を置いたら、サブザックに容器を入れてまずは水汲みに出発だ。
水場は、小屋から滑川温泉に向かう道を10分ほど下るとある。
「金明水」と名付けられた水は、ちょっと土の味がする水で、そこそこ冷たい。
水場周辺はコバギボウシやオゼミズギクなどが咲いていて、北面の眺めも大変良い。
イワイチョウも可憐な花をつけている。
小屋に水を置いたら、まだ明るいうちに弥兵衛平湿原まで散策に出掛けることにした。
エゾオヤマリンドウが鮮やかな青紫色のつぼみをつけている。
今までの道中では見かけなかったから、ここは気温が低く、秋が早く訪れているものと思われる。
木道を歩き進むと、先ほど小屋にいたお昼寝青年が木道の上で寝ていた。
脇を通る時、またもや起こしてしまう。
せっかく気持ちよく寝ているところを、申し訳ない気持ち
すると、突然向こう側がスパッと切れ落ちているような、天空に浮かんでいるような、高層湿原が現れる。
弥兵衛平湿原だ。
思っていた以上に広がりのあるこの湿原は、北方が空しか見えないことで高さを実感することが出来る。
食虫植物のモウセンゴケ。
既に高山植物の最盛期は過ぎてしまっているので、アキノキリンソウとカヤツリグサ系の花しかないが
6月下旬から7月上旬は、ワタスゲやチングルマなども楽しめるのではないだろうか。
予想以上にすばらしい高層湿原で、かなり感激
左のピークから、来し方、西吾妻山・梵天岩・中大巓(だと思う)を望む。
こちらは明日の行く手、東大巓方面の眺め。
明星湖と名付けられた大きな地塘。
さあ、あとは小屋に戻って食事を食べて寝るだけだ。
日脚の長い時期は、ましてやそこそこの好天に恵まれて、行動に余裕が持ててるので助かる。
小屋に戻り、アルファ米の御飯とフリーズドライのカレーとスープ
じゃがりこにお湯を入れて作るポテトサラダ(濃い味の物がおススメ)で夕食を済ませていると…
「ひえ~、まずいまずいまずいぢかれた~」
と言いながら、長髪にチューリップハットを被り、地図を首からぶら提げた山ジャージの青年が
よろよろと床をめがけてなだれ込むようにして入ってきた
食事をしている我々を見て、ハッと我に返った(ように見えた)青年は、8時45分に浄土平を出たそうだ。
既にこの時17時半は過ぎていて、水の確保を気にしていた青年(スナフキンと呼ぶことにしよう)は
「う~う~う~、行ぎだくないっでも行かなきゃまずい、ああ、もうギリギリだああ~~~」
と叫ぶと、水場のありかと所要時間を尋ねてきた。
「分岐を右に、下って10分登って10分。」と説明した我々に
「エエ~~~ッどうして下りが10分で登りが10分なんだか、その理屈がどこから来るのか知りたいっ」
と言いつつも
「うわ~~~っ早く行かないと暗くなっちゃう~~~」
と、慌てて出て行った。
すると少ししてバタバタと戻ってきたかと思うと
「アブナイ、アブナイこれこれこれこれこれこれ~~~っ」
と、熊鈴をつかんで再出発
30分ほどすると、水汲みから戻ってきた。
「俺、歩くの無茶苦茶遅いんです」と、スナフキンは語っていたが
どうやら写真を撮りながら歩いているようだし、持ち物や小屋でのマナーから
相当フィールドワークを重ねていらっしゃるものと想像できた。
食事を済ませ、片付けと寝床をセットしたら、外で稲妻が光り、雷鳴が轟くようになった
雨は降らなかったが、かなり長い時間雷鳴が轟いた。
ダーリンは19時前だというのにもう寝てしまった
今まで、あまり早く寝ると良いことがないぴすけは、ほかの3名もまだ寝ていないので
ヘッドランプを点けて雑記帳に取り留めのない雑文を書く
しばらくすると、お昼寝青年も寝るようなので、20時頃にぴすけもシュラフに潜り込んだ。
ところが…、ここからほぼ一晩中、得体の知れない騒音と右くるぶしの虫刺されに悩まされ
まんじりとしないまま朝を迎えることになってしまうとは
実は、右くるぶしの痛みを昼過ぎから感じていたのだが、虫刺されではなく足の筋がちょっとおかしいだけで
後でストレッチやマッサージをすれば解消する程度のものだと思っていた。
小屋に着いて靴下を脱いでも、特に外見上変化はないように見えたのだが
横になって体が温まってくると、くるぶしにかゆみを覚えるようになった。
ぴすけはアレルギー体質のせいか、蚊に刺されただけでも腫れ上がってしまうので
虫に刺された時のための大変強い薬を持ち歩いている。
それを音を立てないようにザックから静かに取り出し、くるぶしにつけると、ちょっと腫れているようであった。
この時点で寝ているのはぴすけを含めて3名、スナフキンは入り口前の土間で食事をしているようだし
ファッション優先氏は2階で何をしているのかわからなかったが、まだ起きていた。
ここから12時過ぎまで、2階からは
ガタンガタンゴーリゴーリゴリゴリコンコン、コンコンズーリズーリ、ザザザザザザーー
という様々な得体の知れない音が響き渡り、少なくともぴすけは眠れなかった。
ダーリンでさえこの物音に関して呆れていたのだから、恐らく他の2名も眠れなかったのではなかろうか。
たまりかねて耳栓を装着するも、耳栓の違和感と耳栓の効果がさほど感じられない物音に絶句
しかも2回ばかりトイレに起きたファッション優先氏は、ヘッドランプを煌々と点けて角度調整もせず
梯子を昇り降りする度に、ぴすけとダーリンの寝床を強烈照射
さらに、トイレのドアも閉めずに用を足し、音が響き渡った
この2回の用足し後も、2階からは
ガタンガタンゴーリゴーリゴリゴリコンコン、コンコンズーリズーリ、ザザザザザザーー
という不気味な音がしばらく続いたのであった
やっと2時前後になって、物音が聞こえなくなったかと思うと、2階からは大いびきが
大いびきなんて、あの不気味な連続音から比べれば可愛いもので
やっとぴすけも4時半までまとめて眠ることが出来た。
ああ、あの地獄のような雲取山荘の一夜に負けず劣らずの、悪夢の一夜であった。
ファッション優先氏は、自分がそれほど物音を発していると思っていないのかも。
もしファッション優先氏がこの記事を読むことがあったら、今後は少し考えてほしいな~。
この夜のことは、きっとず~っとこの先、忘れない、思い出深いものになるだろうけれど
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彼らは結構生意気です。もっとも彼らが先住民か。
いびきには耳栓。これは絶対必携。自分に合うものを探しましょう。
足のはれは、夜ならノミか?
山には相性の悪い生き物が結構いて、夏はいやですね。
ということは、ネズミが何かを引きずっているのでしょうか。
てっきりファッション優先氏の物音だと思っていましたが、そうでないなら申し訳ない思い違いをしていました。
まさかファッション優先氏はネズミと格闘していたのでは
耳栓は、自分に合う物が見つかるまで、買い続けるということになるのでしょうか?
なんだか、耳栓の試着というのも、嫌なものです(神経質?)
足、結局3日間腫れて痛くて、今日もまだ痛いです。
最終日に吾妻小舎の庭で蚊に刺された所も、とんでもなく腫れてしこりになってしまっています・
全身に虫除けを塗って、携帯蚊取り器まで着け、ハッカスプレー(確かにアブには効きませんね)を振り撒いても、敵も生存競争で生き残るために、向かってきますね。
それにしても、ダーリンは刺されないのに、どうしてこう私だけが刺されるのでしょう。
いやはや夏はやっぱり試練です。
耳栓はあれこれ買っては合わない、とかありました。合わないのはつれあいにあげたり、これまた耳栓は人によっては全く不要だったり、さまざまですね。
平熱で、36.7℃くらいありませんか?
私ばかり、どうしてこうも刺されるのか不思議です。
ダーリンは、「僕は良い匂いがするから、刺されないんだよね~」などと言っています
ということは、私は臭いっていうこと
私がいれば、周囲の人は刺されずに済みますから、お駄賃をもらいたいくらいです
耳栓はやはり買って試すしかないのか…
父が高校の頃に少しずつ登山仲間と縦走していたところ、拠点がほしくて仲間と夏休みにブロックを少しずつ運び、名月荘と名付けて小さな山小屋を建てたそうです。
60年も前の事ですので、当時はほんとに小さな5〜6人が泊まれる程だったそうですが、これほどまでに大きく立派な建物になって、名前はそのままに未だに受け継がれ残っているのを知って、父も嬉しかったようです。
この記事を書いてくださってありがとうございました。
お陰様で父の思い出が鮮明に蘇ったらしくて、久々に当時のことを楽しげに話している姿を見れて私も嬉しかったです。
とうしてもお礼が言いたくてコメントいたしました。ありがとうございまして。感謝いたします。
米沢山の会でブロックを5個くらいずつそれぞれに運んで皆んなで建てた山小屋だそうです。
ようこそ当ブログへお越しくださいました。
高校生の時の山の思い出を話していらっしゃる時の、お父様の笑顔を想像して、私までうれしい気持ちになりました。
江村さん、コメントをいただき、ありがとうございました。
実は私も江村さんと同じように、父が高校生の時に登った山の思い出を聞いたことがあります。
私が奥秩父・金峰山に登った時、写真と山行記を添えて父にメールしたところ、父が高校生の時に登った際の記憶がよみがえったようで、とても喜んでくれました。
山頂で飲んだコーヒーがうまく漉せなくて、コーヒーかすが入ったまま飲んだことや、晩秋の日が傾いた道を、落ち葉を蹴散らせながら下山した、その地面の感触までよみがえったことなどを話してくれました。
どうか江村さん、お父様ともどもお健やかにお過ごしください。