ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

我孫子散策 ~手賀沼周辺の文化を訪ねて~

2012-11-17 09:58:43 | 旅・おでかけ

11月15日(木)

ひょんなことからぽぴさんと我孫子散策をすることになった。
しかも、我孫子に30年来お住まいの雨あがりさんの案内つきとあれば
ぴすけの知的好奇心とぽぴさんの食い気の、双方を満足させるのに十分である。
11時15分、我孫子駅改札口で無事に落ち合い、駅前に出た我々は
案内板の前で雨あがりさんのレクチャーを軽く受けたのち、近くの蕎麦屋へ。
まずはビールで乾杯(ぴすけは舐めただけ)
キッコーマン提供・くいしんぼう!万才のぽぴさんのため、蕎麦味噌と鴨焼きを食べながら
日本酒に移行し、雨あがりさんが用意してくれた「我孫子散策ガイドマップ」を見て
この日に訪れる場所と方角、昔の手賀沼の姿などの説明を受ける。
雨あがりさんとぽぴさんは、さしつさされつほろ酔い気分…、までいかないところがすごい。
食事を終えて、国道356号を東に向かうと、大きな割烹旅館が見えてきた。
さらに進むと、今は跡地の標識があるのみの、水戸街道我孫子宿本陣跡地がある。
そこから来た道を若干戻り、お寺の脇を抜けていく。

要所要所に、立派な案内板が建っている。
ここを進めば、左手は、講道館柔道の提唱者の嘉納治五郎(かのうじごろう)の別荘跡
右手は、民芸運動の提唱者として知られる柳宗悦(やなぎむねよし)の邸宅・三樹荘跡。
双方、雨あがりさんのブログにて詳細に紹介されているので、そちらへどうぞ。

柳宗悦邸は、現在個人所有のお宅になっており、立ち入ることはできないが
嘉納治五郎の別荘跡は我孫子市で管理しているようで、庭から手賀沼を眺めることができる。
ここからの景色を利用して、雨あがりさんが手賀沼の昔の沼のラインを説明してくれる。
この写真ではわかりにくいが、手前の樹木は別荘跡地の斜面に生えていて
そこから斜面を下ったところにくねくねとうねる細い道が通っている。
その道から平坦な土地が続き、写真の駐車場はその平坦な部分にある。
現在、手賀沼の岸辺のラインは、そこからはるか向こうにあるが
雨あがりさんの推測では、かつての手賀沼の岸辺のラインはこの斜面の下
現在は、くねくねとうねる細い道があるラインだったのではないかとのこと。
そう考えれば、ぴすけの雑なお絵かきで申し訳ないが…

嘉納治五郎は、こんな景色を眺めていたのかもしれない。
昔は樹木の背ももっと低かったであろうから、沼面はもっとよく見えただろう。

嘉納邸と柳邸の間を通る天神坂を下ると
かつての岸辺のラインだったのではないかと推測される、くねくねとうねる細い道に出る。
ここから見上げると、嘉納邸や柳邸は崖の上に建っているように見える。
この崖をハケと呼び、このハケに沿ったくねくねとうねる細い道は「ハケの道」と呼ばれている。
いったん国道を渡り、公民館・図書館などの複合施設であるアビスタに立ち寄り
屋上からこのハケの地形を確認しつつ、雨あがりさんの解説に耳を傾ける。
アビスタから国道を東に進むと、柳宗悦と親交のあったイギリス人陶芸家・バーナード=リーチ
碑が建っている小さな広場がある。
リーチの碑については、雨あがりさんがブログで紹介されている。
リーチの碑からハケの道に戻り、坂を上って楚人冠公園へ。
杉村楚人冠は、新聞記者として活躍し、経営にも手腕をふるったことで知られるが
我孫子に住んで「湖畔吟社」をおこし、地元の文化活動を盛んにした。
公園には、楚人冠の句碑が建っている。

筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に

ということは、公園から北東方向を見やれば筑波山が見えたのでしょう、と、雨あがりさん。
であれば、「湖畔吟社」の名のとおり、楚人冠の邸宅は湖畔に建っていたのであろう。
公園から道なりに歩くと、杉村楚人冠記念館で、庭を抜けて志賀直哉(しがなおや)邸跡へ向かう。
志賀直哉邸は現在公園になっており、建物は書斎のみが復元されている。
これまで紹介した三氏の邸宅とは違い、ハケの上ではなく中腹にあり
書斎の裏には、ハケを上り下りするための石段が残る。
楚人冠邸志賀直哉邸についても、雨あがりさんのブログで詳しく紹介されているので
そちらを御覧になると良いだろう。
ブラブラとハケの道を東に進み、大きな割烹旅館がある交差点には
文政酉年(文政8年・1825年)銘の水神様が祀られている。
万が一の水害に、ここまで水が上がってこないことを願うものだろうと、雨あがりさん。
まさに水際、ということだろうか。
こうした地理的な考察は、本当に面白く、好奇心が刺激される。

割烹旅館を後にして、ハケの道をさらに東に進むと
古代西洋史研究家の村川堅固・堅太郎父子の別荘地に着く。
その母屋は、村川堅固が購入し移築した水戸街道我孫子宿本陣にあった離れ家で
当初は茅葺き屋根であったが、現在は瓦葺きになっている。

新館は、堅固が大正14(1925)年に朝鮮旅行をした際の印象を基にして建てられた。
村川邸を後にして、子之神大黒天(ねのかみだいこくてん)と呼ばれている延寿院に詣でる。
「え?子之神なのに、お寺?」と、不思議に思うだろうが
神仏分離以前は、神社には別当寺(べっとうじ)として寺があったり、僧がいたりしたのだ。
こちらの延寿院は、もともとは水戸街道沿い、我孫子宿に子之神の別当寺としてあったが
大正7(1918)年に子之神大黒天社境内に移った。
子の神様といえば、埼玉在住のぴすけはすぐに子の権現を思い浮かべるが
ここも子の権現同様、足腰の神様として知られ、草鞋の形をした絵馬がたくさん奉納されていた。
延寿院から再びハケの道に戻り、鳥の博物館・山階鳥類研究所の外観を見て
本日のメインイベント「夕日」を眺めに、親水広場の中にある「水の館」へ。

水の館の展望塔から、手賀大橋の向こうに沈みゆく太陽を眺める。

送電線の左にうっすらと見えるのは、東京スカイツリーだ。

16時28分、富士山の裾野に日が落ちていく。
眩しくて、見つめることはできない。

太陽が半分以上隠れると、富士山のシルエットがより鮮明に見えるようになる。

太陽が、富士山の裾野に隠れる。

閉館の音楽が流れるなか、ぎりぎりまで粘っていたら
この日はそこそこ風があったので、富士山の山頂にかかっていた雲が取れた。
展望塔にいたもう一組グループ共々、感嘆の声を上げる
夕日を見て、なぜか心が満ち足りた気持ちになった後は、手賀沼畔を目指して歩く。

手賀沼に出ると、そこにはたくさんの水鳥が集っていた。

ぴすけは、オオバンに出会えて感激。
雨あがりさんによると、オオバンは我孫子市の鳥に指定されているそうな。

カモは浮いているように見えるのに、オオバンは脚がにょっきり見えて、歩いている。
オオバンの脚が長いのかな?


帰りは、市役所前のバス停からバスで我孫子駅へ
夕方に急な用事が入ったというぽぴさんに合わせ、駅で解散となった。
食べたり飲んだり歩いたり、充実した1日でした。
雨あがりさんは、そのうえ解説まで担当ですから、さぞやお疲れになったことでしょう。
地形を読みながら、地理的な考察をしつつの散策は
たいへん面白く、ぴすけは大満足です。
雨あがりさん、ありがとう



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
発見いっぱいでした! (ぽぴ)
2012-11-18 10:12:43
この度はお誘い頂きありがとうございました。雨あがりさん、楽しく情報満載のご案内をありがとうございました。

私には手賀沼周辺はかれこれ10年強の散歩コースであり、沼の水とのつきあいはさらに長いわけですが、湖畔のサイクリング道をほんの少し入ったところにこうしたものがあるということ、初めて訪れて驚きました。
我孫子は文人たちが憩った優雅な別荘地であったのですね。歴史にうとい私も楽しく歴史散歩気分でした。そばみそも美味しかったです(^^)

返信する
嘉納治五郎 (ぴすけ)
2012-11-18 10:39:40
ぽぴさん、私は嘉納治五郎について「柔道一直線!」のような柔道家のイメージしかなく、彼が教育者として素晴らしい理想をもち、それに向かって行動していたことを初めて知りました。
水と浅からぬ縁をお持ちのぽぴさんにも、散策を楽しんで
もらえて、お誘いした私も安堵しました。
付き合ってくれて、ありがとう。
雨あがりさんには、感謝、感謝ですね
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。