道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

メメント・モリⅡ

2010-05-24 10:09:58 | 形而上
以前、面白いと思ったのは、中世ヨーロッパだったか、
これから生まれてくる人間は、親(父親だったか)の体内にごく小さな人間の形をして入っていて、その小人の体内にはそのまた子供がやはり更に小さな人間の形をして入っている、という入れ子構造の人間発生モデル。
これは近代科学の発展によって否定されたが、しかし、個々人にそれぞれの魂が存在するという観念にはよく符合する。つまり、太古のアダムとイブ以来、最初から個々人の肉体が微小ながらも存在するのだから、その魂も当然そこから宿っていると見て良いだろう。論理的には何も問題ない。

もし、現在の科学的認識のように、男女の交合によって生まれた受精卵が新たな生命であるならば(人権を認めるのが妊娠何ヶ月か出産後かというのはさておき)、魂という代物はどの段階で宿るのか。
受精の瞬間に、天界かどこかが、いちいちそれに魂を吹き込む作業をしているのだろうか。
あるいは、男と女の魂が分裂・結合して、新たな別個の魂になるとでもいうのだろうか。もしそうだとすると、一個一個の性細胞にそれぞれ一個(半個?)ずつの魂が宿ることになる。すると、非常に高倍率の競争を勝ち抜いてうまく受精卵になったものだけでなく、そうではなく終わったものにも魂があったことになる。
子の魂がかつて親の魂の一部であったとしたら、それぞれの独立性、自由意志という問題に関わってくる。子を生む前に親が犯した罪は、親から分かれて生まれた子の魂にも属するのか。そして、これはまた、個々の霊魂の不滅との整合性も問題になってくるだろう。
しかし、彼の宗教が強いのは、全知全能の創造者を想定していることである。人間の論理では相矛盾することであれ、全知全能ならば我々の想像も及ばぬ力でなんとかする、という理屈が通っている。最終的な救いについては、思考を放棄しても、全知全能の存在を信頼することで安心を得られる。


受精によって生命が生まれるという認識によく整合するのは、日本の南方諸島にある古代信仰らしい。そして、それは本土の古代の信仰でもあっただろう。
そこでは、神々を呼び出す時、2つのものを依り代とする。向こうの世界から2つのものとして到来し、こちらの世界で合わさって一体の神となるという。
これは、生命の誕生を象るらしい。すなわち、我々が生まれる時、その霊魂は彼岸から2つのものとしてやって来て、此岸で合わさって一人の人間となる。これはまさしく男女の交合であろう。
そして、一人の人間が死ぬと、それは再び2つのものに分かれて、彼岸へ帰って行く。

では、帰って行った後、その分かれてしまった個人の霊魂はどうなるとされたのか。
勝手な推測だが、個人としては存在しないのではないだろうか。向こうの世界の様々な霊魂と混ざり合い、またある時にはそこから分かれて此岸へ到来して別のものと融合して別の人間となる。
とすると、霊魂の要素は不滅だが、個人としての自分は、やはり死後に消滅するということだろう。少なくとも、生前に「私は○○という人間」と認識していたような自我は失われるように思われる。


それに対し、仏教の輪廻の概念では、霊魂の個別性は保たれる。
一つの霊魂が兎に宿り、鳥に宿り、人間に宿り、虫に宿る。様々な媒体を経験し、忘れ、また経験し、忘れ、その生老病死の苦しみの繰り返しが輪廻であるという。
しかし、霊魂の個別性が保たれても、記憶が失われるのであれば、それはやはり自我の消滅と謂えるのではないだろうか。自我を形成するのは記憶であり、前世の自我を形作っていた記憶がなければ、それは全く新しい別のものである。

思うに、仏教は、その自我へのこだわりから脱することを説いているのである。自他を区分する認識に捉われている限り、この輪廻の苦しみに永遠に囚われたままとなる。
ひねくれた言い方をすれば、記憶や感情といった自我が死によって失われることの苦しみから、むしろ自我を否定することによって脱出するのである。
そうであるならば、自我を撥無することによって、死による自我の喪失という苦しみから逃れるというのであれば、もはや生前に自我を撥無しようとしまいと、死ねば結局同じことなのではないか、と私は思ってしまう。


その点、荘子の思想はシンプルである。
やはり輪廻をするのだが、霊魂と物質という二元論ではない。人が死んだらその肉体が鼠になったり鳥になったりするが、そこには物質の自然な変化というもの以外、何も作用しない。
人になろうと鼠になろうと鳥になろうと、人なりに鼠なりに鳥なりに生きるに過ぎない。鉄が「私は莫邪(という宝剣)になりたい」と言わずに鍛治屋に従うように、我々も「人のみ、人のみ」と言わずに造化の働きに従うのみ。
そして、自我の存在すら否定し、万物が一体で、かつ全て無であることを説くのである。

岡野玲子に『消え去りしもの(Missing Link)』という作品がある。
舞台も登場人物も西洋的なファンタジーだが、物語の鍵となる「変成術」というのが、極めてこの荘子の死生観に近い。変成は究極の働きとして描かれるが、死もまた変成の一つの形態という。人が死ねば、ゆっくりと土に還り、木となる。人もまた、世界の源(ソース)の一部分であり、生前も死後もそれは変わらず、ただ変成するのみなのである。