と訊かれましたが、難しい問題です。
音読というのは一つの解決法。
一般的には現代中国語の中の、所謂「普通語」(共通語)が用いられる。
○長所
・多くの詩で、韻が分かりやすい。例えば、「朝辞白帝彩雲間、千里江陵一日還」という句があったら、「間jian」と「還huan」で、「-an」の韻が踏まれていることが分かる。
・唐詩を読む場合は、平仄が多少分かる。唐代以降(南北朝後期からすでにその傾向はある)の詩では平仄という、音の調子についてのリズムが強く意識されている。「二四不同」だとか「二六対」だとか、色んな規則があるけれど、まぁ、要するに、平声ばかりが連続したり、平声仄声があまりに入り混じりすぎたりすることが、避けられている。例えば、「空山不見人、但聞人語響。返景入深林、復照青苔上」だったら、「○○●●○、●○○●●。●●●○○、●●○○●」(○は平声、●は仄声)となっている。何となく、バランスの良い配置だと思いませんか? これが、現代中国語での発音では、第1声と第2声の漢字は大体は当時の平声のもので、第3声と第4声の漢字はほとんどが仄声。ただし、現代の普通語では、古代に仄声の一部として存在した入声というものがなくなっているので、対応関係に若干のズレがある。その点で、広東語や台湾語など、方言の方がより正確と言うけれど、まぁ、今から漢詩を読むためだけに方言の発音をやるというのは、敷居が高い。普通語で良いでしょう。
・韻が分かる、平仄が大体分かる、というのは、つまり読み上げた時に、当時のものとはかなり違うものではあるけれど、リズムや余韻を楽しむことができる。暗唱をするのでも、慣れるとこっちの方がやりやすいかもしれない。リズムが良いから。
○短所
・意味がわからないまま読めてしまう。呪文と化す危険性。
・日本で手に入る本で、ピンインが書いてあるものは、まずないから、調べるのが面倒(尤も、慣れれば、大体の字の発音は調べなくても分かるようにはなる)。
一方、訓読は、研究者の間では少しずつ地位が下がっているけれど、
漢詩の鑑賞という用途では、バカにしたものではないと思う。
○長所
・読みながら、意味が大体分かる。
・自分が覚えた詩や語彙、あるいはそれらを使って自分の心情を、周りの日本人に説明できる。「人生別離足る」だとか「揚州一覚十年の夢」とか。飲み会で「君に勧むぅぅ更に尽くせぇぇ一杯の酒ぇぇぇ」と言ったり、酔っ払ったら「酔ひて沙上に臥すとも~君ぃ笑ふぅぅこと勿れぇぇぇぇ」とか言ったりして、遊べる。
・日本語として、まさに「声に出して読みたい日本語」を修得できる。故加藤周一も、日本語のレベルを下げないために、漢文を読んでいたらしい。漢文訓読というのは、間違いなく、日本語を構成してきた重要な要素で、これを唱えたり憶えたりするというのは、日本語の修練として損はない。
○短所
・訓読語で分かったつもりになってしまって、意味をきちんと理解していない、ということもありえる。たとえば、「則」と「即」と「乃」では意味が違うのに、訓読で「すなはち」と言っていると、その違いを意識しないままで流してしまう危険がある。
・韻や平仄は分からない。それから、七言絶句や五言律詩を読んでも、それが28文字だとか40文字なんだという実感がわかない。
私は、要するには、
漢詩を、
外国文学として鑑賞したいのか、
日本文化として鑑賞したいのか、
ということによるのではないかと思います。
前者なら中国語で音読すれば良いし、後者なら訓読すれば良い。
私は、唐詩に関しては、両方やっています。両方必要だから。
しかし、いずれにせよ注意すべきは、
どの方法も、古代そのままではない、ということです。
現代中国語で発音しても、当然、李白や王維が唱えたであろう言葉からはかなり離れていることを意識しなければならない。
それでもある程度の共通性はあるから、現代中国語で発音した時にも、かなり美しいリズムや響きにはなる。「現代中国語としての音声の美しさを味わうのだ」くらい開き直るべきかもしれない。
訓読も、実は我々ができるのは明治以降に確立された訓読法で、江戸時代以前のものとは、ほんの少しだけ違う。訓読の作法も、平安以降、時代ごとに少しずつ違う。だから、「清少納言も松尾芭蕉もこう読んだんだ」と思い込むのは、少しだけ危険。
もっとも、これは、そこまで問題ではない。極端に違うことはないから。
音読というのは一つの解決法。
一般的には現代中国語の中の、所謂「普通語」(共通語)が用いられる。
○長所
・多くの詩で、韻が分かりやすい。例えば、「朝辞白帝彩雲間、千里江陵一日還」という句があったら、「間jian」と「還huan」で、「-an」の韻が踏まれていることが分かる。
・唐詩を読む場合は、平仄が多少分かる。唐代以降(南北朝後期からすでにその傾向はある)の詩では平仄という、音の調子についてのリズムが強く意識されている。「二四不同」だとか「二六対」だとか、色んな規則があるけれど、まぁ、要するに、平声ばかりが連続したり、平声仄声があまりに入り混じりすぎたりすることが、避けられている。例えば、「空山不見人、但聞人語響。返景入深林、復照青苔上」だったら、「○○●●○、●○○●●。●●●○○、●●○○●」(○は平声、●は仄声)となっている。何となく、バランスの良い配置だと思いませんか? これが、現代中国語での発音では、第1声と第2声の漢字は大体は当時の平声のもので、第3声と第4声の漢字はほとんどが仄声。ただし、現代の普通語では、古代に仄声の一部として存在した入声というものがなくなっているので、対応関係に若干のズレがある。その点で、広東語や台湾語など、方言の方がより正確と言うけれど、まぁ、今から漢詩を読むためだけに方言の発音をやるというのは、敷居が高い。普通語で良いでしょう。
・韻が分かる、平仄が大体分かる、というのは、つまり読み上げた時に、当時のものとはかなり違うものではあるけれど、リズムや余韻を楽しむことができる。暗唱をするのでも、慣れるとこっちの方がやりやすいかもしれない。リズムが良いから。
○短所
・意味がわからないまま読めてしまう。呪文と化す危険性。
・日本で手に入る本で、ピンインが書いてあるものは、まずないから、調べるのが面倒(尤も、慣れれば、大体の字の発音は調べなくても分かるようにはなる)。
一方、訓読は、研究者の間では少しずつ地位が下がっているけれど、
漢詩の鑑賞という用途では、バカにしたものではないと思う。
○長所
・読みながら、意味が大体分かる。
・自分が覚えた詩や語彙、あるいはそれらを使って自分の心情を、周りの日本人に説明できる。「人生別離足る」だとか「揚州一覚十年の夢」とか。飲み会で「君に勧むぅぅ更に尽くせぇぇ一杯の酒ぇぇぇ」と言ったり、酔っ払ったら「酔ひて沙上に臥すとも~君ぃ笑ふぅぅこと勿れぇぇぇぇ」とか言ったりして、遊べる。
・日本語として、まさに「声に出して読みたい日本語」を修得できる。故加藤周一も、日本語のレベルを下げないために、漢文を読んでいたらしい。漢文訓読というのは、間違いなく、日本語を構成してきた重要な要素で、これを唱えたり憶えたりするというのは、日本語の修練として損はない。
○短所
・訓読語で分かったつもりになってしまって、意味をきちんと理解していない、ということもありえる。たとえば、「則」と「即」と「乃」では意味が違うのに、訓読で「すなはち」と言っていると、その違いを意識しないままで流してしまう危険がある。
・韻や平仄は分からない。それから、七言絶句や五言律詩を読んでも、それが28文字だとか40文字なんだという実感がわかない。
私は、要するには、
漢詩を、
外国文学として鑑賞したいのか、
日本文化として鑑賞したいのか、
ということによるのではないかと思います。
前者なら中国語で音読すれば良いし、後者なら訓読すれば良い。
私は、唐詩に関しては、両方やっています。両方必要だから。
しかし、いずれにせよ注意すべきは、
どの方法も、古代そのままではない、ということです。
現代中国語で発音しても、当然、李白や王維が唱えたであろう言葉からはかなり離れていることを意識しなければならない。
それでもある程度の共通性はあるから、現代中国語で発音した時にも、かなり美しいリズムや響きにはなる。「現代中国語としての音声の美しさを味わうのだ」くらい開き直るべきかもしれない。
訓読も、実は我々ができるのは明治以降に確立された訓読法で、江戸時代以前のものとは、ほんの少しだけ違う。訓読の作法も、平安以降、時代ごとに少しずつ違う。だから、「清少納言も松尾芭蕉もこう読んだんだ」と思い込むのは、少しだけ危険。
もっとも、これは、そこまで問題ではない。極端に違うことはないから。