祈りをもって始める。
エホバの証人はちょ~っと霊的な人だとこれですね。大会のホール掃除でも「祈りを持ってはじめましょう。」
海外ではもっとひどくて、奉仕をする前に車の中で「祈りましょう」最訪問するたびに「祈りましょう」っていう人が結構多くてこれにはほとほと嫌になりました。
お茶の前にも「感謝の祈り」
私がエホバだったら「いちいちうっとおしいゎ~~」って思ってしまいますね。トイレ掃除とか、3時のおやつの前に一体何を祈れっていうんでしょうか。ヤダヤダ。
でも冗談はさておいて私はこの集会以外での祈りが現役時代から本当に居心地悪かったんです。なんか祈りでもってはじめたとたん、そこからJW公式行事になるようで。
前置き終わり。
さて、未信者の方でJWのご家族やお友達を理解したり、脱JWに導かれるためにエホバの証人と研究されてる方もいらっしゃると思いますが、
以前にも書いたように私個人の意見ではエホバの証人と研究することにはマイナス要素が多いと思います。
現在研究している方を非難するものではありません。状況はすべての人で異なると思いますから。
それから長年配偶者がJWで悩んでこられた方はもうソフトな対応をしている場合じゃない!虎を得るには王国会館に入らず的心境に来てる方もいると思います。
一番大きな理由は
エホバの証人は研究生を前にすると完璧JW人間を演じる
からです。
よく研究生ができると「自分も霊的に成長できます。」
ってセリフがあるんですが、これは本当です。私は劣等JWでしたが、研究生がいた頃はとても優等生でした。人間的にもJW的にも。
貴重な研究生をつまずかせてはいけない、ということで、組織や仲間の悪口などは一切いわず、弱音も吐かず、「模範的JW」になるように自然と励まされちゃって、、、
なので、やはり正式に研究生となると、せっかく脱JWさせたい人物を硬くさせてしまうかもしれません。
それでも教理やJWとの接点がないとやりにくい、話もしづらいと思っておられる方は
研究を出来るだけ非公式な形に保っておく
といいと思います。
非公式な形とは
1:出版物を使わない(出版物を朗読して答えをいう形式にしない)
これは聖書だけで話し合いが出来るというのを前提にしてるJWですので、最初のうちに「聖書だけ使って話しあいたいです。」といえば向こうはそうせざるをえません。一度出版物を使ってしまうと出版物なしで、の形式にするのは相手に不信感を抱かせるかもしれないので、できる限り始めのうちに。
相手がどうしても出版物を使いたがったら
「この説を読んでいただけますか」といわれたら
拒否することです。
いきなり「嫌です!」といっても空気がよどむと思いますので、音読は苦手で、とか、ちゃんと予習しましたから読まなくても大丈夫などというといいと思います。どちらもきちんと筋の通った断りですから、堂々と断ってください。
朗読は直接マインドコントロールになる(書かれたものにはそれだけで心理的に権威となることがある)のと、もっと重要な事に研究司会者のエホバの証人を戸惑わせるためです。
(質問と答え形式でないとエホバの証人は勝手が違い、ひるみます。)
これでお互いに少しよい話し合いの形式が整うことになります。
2:祈りをもって始めない
「そろそろ祈りをもって始めましょうか。」
って!!!なんでなんで~???
司会者は少し時間がたつとこう言い出しますから、そう言われたら「しかし、、やはり、まだ自分が全能の神として心から納得する前に祈りをささげるという行為は出来ません。」
と言ってください~。
これも正論ですからJWは何もいえないはずです。JWは絶対他の神を崇拝できない!といいつつ、他人には全面納得の前に崇拝をほとんど当たり前としてます。
変ですよね!!!だから断ってください。
祈りをささげるとエホバの証人にとってそこが公式な場となり、もっともっとガードが固くなり、個人としてでなくエホバの証人広報としてしか思考しなくなりますから、最初から祈りを拒んでください。ここ、大切です。
3:意中の人と研究する。
これは異性だとJW教理では研究できないことになっています。特にJWが女性、あなたが男性だと女性が男性を教えてはいけない、などと言う時代錯誤な教理で絶対ダメですが、、
そこはJWの都合。外部者のあなたにとっては関係ない教理ですから、それでも絶対といいはれば結構通ります。
公式ものみの塔でも反対する夫が妻と研究してJWになった(ものみの塔での経験談ですから。)経験が載ってます。
そこでは「妻とは研究できないといわれたけれど、妻とでなければ研究しませんといった。そして妻との研究が始まった」とはっきり書かれています。
もちろん、意中のJWが配偶者でない場合は「研究」形式では出来ないと思いますが、そこがみそ。こちらは研究方式にはもっていきたくないわけですから、、。
非公式な形で聖書について話し合うことを同意する、くらいのニュアンスでOKが出るかもしれません。二人きりになることは相手も警戒するでしょうから、喫茶店で時間があったら時に話あっても良い。くらいだといいと思います。
どうでしょうか????
元JW組の方、現役の方、よろしければ現役時代の研究生に対する思い、姿勢などコメントしていただければうれしく思います!!!
おまけ:
ちょっと冗談。
研究書籍に「知識の本」を指定する。
「あれ、、なんかこの本の挿絵不自然な感じがするんです。」→あわせ鏡でサブリミナル挿絵を見せる!!!
きゃ~!!!!!
祈りを頻繁にする様は気持ち悪いものですね。食事や奉仕の前の祈りなんて、全くの形式的なものにしか思えません。エホバとやらに感謝するのも結構ですが、子供ならご両親、夫婦ならお互いに感謝をどれほどしていることでしょう。また、逆の立場ならそういう感謝はノーサンキューだと思います。客観的に見れば、祈りなんて叶っているわけ無いのに、ごく一部のかなった例を大げさに言ってだましていますね。私などは、巡回大会で経験(というより作り話)を話すことになっていた日に、事故にあわないようにと祈りましたが見事に追突されました。ご意思じゃなかったようで(笑)
そんなこともあり、またもともと両親が高学歴である意味リベラルだったこともあってMCはありませんでした。物心つくまでは親の言うことをそのまま信じていましたが、自分で反対意見を考えることが出来る環境でした。
本心から出てるわけじゃないから、
結局いっつも同じ。それか誰かのパクリ。(笑)
でも何が一番嫌って結びの「アーメン」ですね。
全部日本語でだらだら連ねてたくせに、
最後だけ「Amen!」ってどーなのよ?って。(笑死)
なんちゃって感が否めませんでしたねぇ。。
いつもお世話になっております
できるだけ距離をとっておくためにも、相手がどう攻めてくるのかという、一般的な流れを教えていただけないでしょうか?
あと、これは気をつけろみたいな「セリフ」とか「資料」とか「イベント」みたいなものも?
それに、同い年くらいのが研究生につくとどうとか、長老が研究生につくとどうとか?
融通自体はききますし、居心地のよい会衆のようなので入れる気あるのかと思ったりもします…
というか、研究生落とすためのチームプレイや打ち合わせや会議みたいなものはあるのでしょうか?
虎穴に入った以上、凌ぐにしても丸腰では心もとないのです
お力をお貸しください
え~!!!そうなんですか~!!(あと、話すはずだったという経験も知りたい。です)
JWって「祈りが聞かれなかった」事に対しては何も言いませんからね。。。集会にいけるよう祈ったら行けたという時は騒ぐけど、奉仕に行く途中事故でなくなったお子さんとかもいますが、そちらのほうはそれこそノーコメント。。。
●自分で反対意見を考えることが出来る環境でした。
それはすばらしいですよ~~!!!うちは逆でしたから、もし家庭を作ることがあったら反面教師で気をつけたい、、なんて感じです。
英語日本語といえば、奉仕の前に車の中で祈りましょ~っていってた開拓者姉妹がいたんですよ。で、私に祈ってくれと。
私、現役時代から祈りが嫌いで~~。しかも英語かあ。姉妹だから公で祈る機会もないし、個人で祈ってるときは日本語だし、用語わかんないわ~と思って、
ヤダヤダと思いつつも、
日本語でお祈りしてもいいですか、、、って言ったら、
その姉妹明らかにむっとして「英語で出来ないのなら私がやる。」って(笑)日本語じゃいけないのか?って思ってしまいました。どうせ言ってる事どの言語でも同じようなものでしょ~。
あ、アーメンって同意できないから嫌がられたのか!!。(笑)
●できるだけ距離をとっておくためにも、相手がどう攻めてくるのかという、一般的な流れを教えていただけないでしょうか?
jonxさんがすでにどのくらい研究されているのかにもよると思います。祈りなんかは始まってますか?祈りではじめましょうっていいだしたら要注意です。相手はそこで一応一線を引いてくると思います。
(心の中で、という意味で)
大体の流れは
参加者として他のJWをつれてくる→祈りが入ってくる→集会を励ます→集会出席後は伝道者になることを励ます→バプテスマ
です。
●それに、同い年くらいのが研究生につくとどうとか、長老が研究生につくとどうとか?
これは結構意味があると思います。昔は研究生が多くて手が空いている人がとにかく受け持つ、偶然、という時もありましたが、今は研究生が超少ない(笑)時代ですからね。。
長老が受け持つ場合見込みのある人、またはいわくのある人のどちらかだと思います。
いわく、、というのは、、悪口ではなく、、反対者だった人とかいろいろです。
どちらにしても注目度あり、という事でしょうか。
●というか、研究生落とすためのチームプレイや打ち合わせや会議みたいなものはあるのでしょうか?
はい!ありますよ~
「奉仕会」がそれです。
会衆全体でこれ毎週やってますから。。。
一応、司会者は正当法(つまり、ダイレクトに集会を薦める、伝道者になることをすすめるといった具合に)口語できますからそんなに相手の動きを見るのは難しくないと思います。
実は集会を勧めるのはだいぶ時間がたった後なのですが、Jonxさんはもう定期的に集会に行かれてますか?集会に行く行かないでかなりJWになるかならないか判断されてるところがあると思うので、、
行かれているならできるだけ不定期にして、その後できればフェードアウトして周りに期待させないで置けるといいのでは、、と思います。
研究生の方が集会に出るということはJW的にいってかなり、すごいことです。踏み絵みたいなものです。
なので、、集会に行きだしたということろで、期待のたががはずれると思うのです。
エホバの証人は妄想爆走しますから、、抑えられないところまで期待されるとjonxさんも後々大変だと思います。
ほんと、妄想爆走、、これ迷惑なんですけどね、、かってに妄想、でもって後で勝手にキレられる事ってよくあるんです。
この点に関しては,レイモンド・フランズの書いた「良心の危機」という本の第6章に詳しいです。
それによれば,メキシコでは,彼らは「宗教」ではなく,「文化組織」なんだそうです。「集会」とは言わず,「文化的」集いをしてる,と言うそうです。そのようなわけで,家から家の伝道には,聖書は厳禁です。なぜなら,宗教活動ではないからです。ある地域では,「会衆」とは言わず,「集まり」と呼ばれ,バプテスマを受けることを「シンボルを行なう」と表現するそうです。
この理由ですか? メキシコの政府が反対したり迫害してるからではありません。なぜなら,メキシコには「信教の自由」があるからです。
これは,実は,単に,法律的に,「協会の資産を守るため」なんだそうです。ただ,それだけの理由で,「祈り」をなくすんです。
しかも,自分たちは「宗教」ではなく,ただ「文化活動」を行なってるにすぎないと言える,このずうずうしさ。どこまで「偽善的」なのでしょうか。この協会というやつは。
「祈りをもってはじめる」というこの行為が,ある国では,公然と協会(統治体)により「行なってはならない」と言われてるんです。祈りをもってはじめる人が霊的な人? ふざけるなと言いたい。
義母から言われていたので、少しだけ姉妹に話を聞くという感じで、喫茶店でテキストを元に勉強していたことがありました。そのときは、何もよくわからずに、「テキストって、まだるっこしいな」とか「なんで、この人にしゃべったことが、全部長老の耳に入ってるんだろう」とか思っていたのですが、PWさんの今回の記事を読んで「そういうことだったのか!」と納得がいきました。
聖書だけでやるってのもOKだったんですね~。
今は、その勉強会もお休みしているのですが、指導にあたってくれてた姉妹は、私が答えにあたる聖句の前後関係やら関係する類似の記述やらを全部あたりたがるので、「熱心ね」と褒めてくれつつ、大変そうでした。いい人だったので、申し訳ない気もしてます・・・。あ、ちなみに、祈りはありませんでした。
もしまた再開することがあったら、この記事で教わったことを、参考にさせていただきます!どうもありがとうございました。
すごく巧妙な聖書の使い方しているのだけは解ります。いかにも正しそうに聖書の語句を並べますが、聖書の語句の一つ一つは、その主張の主旨と全く違う意味なのに、全体として如何にも筋が通っているような感じになります。
つまり、これは聖書の意味が先にあって自分達の主張をその聖書の意味から導き出しているのではなく、自分たちの主張が先にあって、それに合いそうな聖書の語句を探して並べている事を意味します。
つまり、意思を持つ人は作者など、ごく一部の人であって、他の人はその人の意思に合わせよう、合わせようとしているのです。
つまり、エホバの証人が真のエホバの証人であるためには、この意思を持つ一部の人がエホバ神でなくてはなりません。
どういう権能で、この様な事を行っているのか聞きたいところです。
●聖書だけでやるってのもOKだったんですね
そうなんですよ~!!!というか、そういうのを「売り物」にしているところがあるんですが、実際には書籍を使います。聖書だけを勉強しているのがJWだから聖書だけからも話せるんだよという建前があるんですね。
だから聖書だけを使いたいといえば相手は絶対NOといえないはずです。
聖書だけ使えばJWの説明が突拍子なかったり、具体的過ぎたりするのが研究する人にも、司会する人にもよ~~く分かると思いますから研究しなければ気まずい状況に置かれている方にはおすすめです。
例えば血を避けなさいという聖句はあっさり血をさけないさいとだけあるのに、JWの説明は「このフレグメントは良くてこの用法はダメで、、」と妙に具体的。
その説明はどこから出てくるんですか???ってしっかり疑問をはさめると思うのです。でもって、「でも、、聖書に書いてない、、、」とかぼそっとつぶやいたりも出来ますし。
●聖句の前後関係やら関係する類似の記述やらを全部あたりたがるので
協会の聖句の選び方は何にも基づいていませんから、(「同じ単語が出てくる」というだけというお粗末な理由のときも多い)全然関連してないものもあって調べても理解は難しいと思います。
たまに正論もあるんですけどね、、でも聖書学者じゃないんだからその姉妹も無駄な徒労だと思うんです。。聖書学者だって遊びでやってるわけじゃないですから。(エホバの証人は聖書学者をバカにする傾向があります。)