もう一度はじめから

JW2世の妻による、JWに関する疑問などのメモ。聖書や教理に関する解釈は、誤解の可能性があるので、鵜呑みにしないでね。

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ブログ凍結

2009-05-09 14:07:51 | Weblog
すっかりご無沙汰してました。
実は入院しておりまして。
で、出産を前に、無事退院できました、が、多分、まもなく出産になると思います。
子どもを産むと当分、こうしてPCに向かうこともできなくなると思います。
最近、子どものしつけで悩むことも多く、ブログを書いている時間すら、「こんなことしてる場合じゃない」みたいな焦りもありました。
また、冊子や聖書を読む時間もなく、夫と話す時間もなく、JWについて整理して考える時間が取れず、まとまったエントリをあげることもできない状態が実際に続き、また、今後も続くことが予想されるわけで、そのような現状にある以上、当面凍結とするのがよいのではないかと考えました。
というわけで、しばらく凍結します。
再開の目処は立っていません。
このままやめてしまう可能性も高いですが、とりあえず、ここに書いた疑問をもとに、今後、夫と話す可能性もあるので、記事は残しておきます。
これまで、お読みいただいた皆様、誠にありがとうございました。
今後も、他の皆様のブログは拝見し、可能ならコメントなどもしていきたいと思います。
いろいろな方のブログを拝見し、学ぶことが非常に多かったです。自分で理解していたよりも、ずっと割り切れない、また、個人個人によって様々な思い入れがあるものだということ、独特の精神状態がある一方で、非信者となんら変わりのない懊悩や情動があり、個人によってそれらに対する裁量、というか態度が異なること、そうかと思うと、JW全般に共通の確固たるものがあること、また「被害」と呼んで差し支えない状況が発生しているケースがあることなど、非常に複雑な状況に考えさせられることも多くありました。
おそらく、考えがまとまらないときは、こうして書いてまとめる必要もまた出てくるかと思います。

でも、当面は凍結します。
今まで、どうもありがとうございました。
また、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

追記
凍結の前に、一つだけメモ。
最近、森岡正博の「33個目の石」を読んだら、ちょっと宗教のことが書いてあったのでメモ。
僧侶だったかな、とある宗教家から、死の恐怖やどうにもならない苦痛をやわらげてくれる特効薬、それが宗教だと言われたと。
森岡いわく、しかしそれは、現代でよく行われる、ひとつの「無痛化」ではないかと。例えば、無痛分娩のような。
本当に、その「痛み」は、取り除いてしまってよい「痛み」なのか、と彼は問いかける。
私にも同じ問い掛けがある。
夫にも以前から言っていたが。
死への恐怖は、本当に軽減すべきなのか?死が怖いからこそ、得るものがあるのでは。
どうにもならない不幸に感じる苦しみを、そういう手段で軽減してよいのか?
もちろん、人によっては、それでよい人もいるだろうけれど、私には迷いがある。
また、現代には様々な問題がある、しかし、それを「サタンの仕業」「滅びの証拠」とみなしてよいのか、それは同時に「定められたもので人にはどうにもならない」という諦めであり、無痛化。
神を持たない私は、「どうにかしなきゃ。どうにかする方法があるはず」と思って、前を向いて戦うことが必要だと思ってるんだけどなあ。
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現状

2009-03-15 13:28:44 | Weblog
一身上の都合で、メールチェックやコメント管理ができない状況になっております。更新もままならず、すみません。特にゲハジさんには、せっかくコメントいただいていたのに公開が遅れて申し訳ありませんでした。
まだ一ヶ月くらいはこの状況が続くと思います。
ついでに。
そう言えばさっき、ネットのニュース(共同)で、輸血拒否した親の親権を裁判所が停止して一歳児に輸血を可能にしたというのを見ました。
私は基本的に思想信教の自由に行政が介入すべきではないと思いますが、一歳児のように本人の思想信教と言えない段階で、その生命の保全停止に関する判断を、いかに親と言えど、他者がすることには、やはり疑問があります。
逆の介入(例えば障害のある胎児や乳児の生命を停止させる方向の介入)には、反対なわけですが。
すなわち、この場合、私は、生命の保全という本人にとっての基本的人権をまず尊重するという大原則を第一義としているわけです。

そうなんだよなー、うーん、ホントはちゃんと記事書きたいんですが、だから生命の保全を否定することになりかねない、というかなっている輸血拒否の教義は、やっぱりJWという組織の聖書解釈の真偽に関する大きな問題だと思うし、モラルや他者や自己を尊重し、謙虚さを身に付けるという、人間に幸福をもたらすはずの宗教の意
義と相反するのではないかと思うんですよ。

端的に言えば、教義を守るために死という手段を提示する宗教に、私は非常に強い違和感を感じるということです。
そりゃ、言葉は便利なモノなので、ある程度、説得力のある理屈は、賛否双方について、いくらでも成立すると思いますよ。でも、復活があるにせよ、一旦生を受け、そして人が自分のみならず他人についても重要と見なしている生命を捨てることで忠誠を示す必要があるという発想、教義に感じる「なんとなく、ひっかかる」感じは
、無視してはいけないと思うわけです。

極論ですが、命より大事なモノがあるという考えを組織でするってとこが、イマイチ、信用できないってこと。

って、ここらへん、ちゃんと書きたいのに!
なんか、ついでが、長くなりましたが、ここまで。
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ピニャータ

2009-03-03 13:23:32 | Weblog
モラルの話を書くつもりでいたんですが、イマイチ、まとまらないので、先に細かい疑問を。
他のJW系ブログで、2003年9月22日のめざの22pにピニャータという南米の宗教由来の習慣について、肯定的な記述があったことを知って、中身を読んでみた。
で、まあ、書いてあったことを私なりにまとめると、「由来が宗教的なものであっても、現在、特定の日や特定の場所を選んで用いられているものではなく、現代では、宗教的な意味合いは失われているとみなされるので、取り立てて忌避する必要はない」というような趣旨だと感じた。
ブログ主さんは、それならクリスマスもOKなんじゃ、と書いていらっしゃったけれど、現役夫の言葉に常に触れている私からJW的に厳しく見ると、クリスマスは宗教的意味は失っているものの、特定の日だけを扱っているので、ピニャータの例を敷衍するのは、人によっては、ちょっと難しいと感じるかもしれない、と思った。ただ、
これは私の立場からJW寄りで考えてみようと思ったからであって、ブログ主さんの見方、解釈の仕方も十分ありだと思う。
で、一方で、私が思ったのは、むしろ、「乾杯」。
ピニャータがありなら、乾杯もありなんじゃないかと。
乾杯はすでに、特定の日、特定の場を限定していない。会食全般につきものになっていると言っても過言ではないだろう。主に慶事だが、弔事でも「献杯」という言葉もある。
由来は必ずしも宗教的なものだけではなく、諸説あり、このあたり、JWでは正装としてみんな身につけている、ネクタイの起源(飾り説のほかに、魔除け説もあり)などとも似ている。
ピニャータと、何が違うか、というよりむしろ、ピニャータよりも宗教的意味を失っていると思う。ゲハジさんから、禁忌としての重要性は十分教えていただいたので、そうは言っても難しいんだろうなあと思うのですが、疑問としては、やっぱり感じてしまいました。
どうなんでしょうね。
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やっぱり最大の謎

2009-02-10 17:45:27 | Weblog
まとめていると、いつまでも時間がたってしまうので、取り急ぎのメモです。
公式サイトのなかの神の存在を説明する文章を見ていて、感じた疑問です。
「」内は公式サイトの言葉の引用です。

「二人の幸福が続くかどうかは,神の支配権と,善悪を決定する神の権利とを認めることにかかっていました。その神の権能を象徴していたのが,「善悪の知識の木」と呼ばれる木です。」
  支配権を認めれば幸福が継続するという関係。
  家畜が従順でさえあれば保護されるのと同じ?
  反発を持たないか? なぜ反発心を持つのか。
  支配権を認めなければ、幸福が持続しないと分かっているのに、支配権を認めない欲求をなぜ、人に与えたのか。その欲求を克服することを、幸福の持続条件とする意図は何か。

「後に悪魔サタンと呼ばれるようになる反逆的な霊の被造物が,神に従うのは最善の益にならないと エバに信じ込ませたのです。神はエバから非常に望ましいもの,つまり独立や,善悪を自分で決める権利を奪っている,というわけです。」
  独立や善悪を自分で決める権利を望ましいと我々が感じるのはなぜか。

「神が,反逆を唆した目に見えないサタンと共に最初の人間夫婦を即座に滅ぼさなかったのはなぜでしょうか。神にはそうする力がありました。そうすれば,アダムとエバは,苦しみや死を受け継ぐ子孫を生み出すことはなかったはずです。しかし,そのようにしてご自分の力を実証しても,理知ある被造物に対するご自分の権威の正
当性を証明することにはならなかったでしょう。」
  「しかし~」以降の結論に至る理由が分からない。なぜ?

「それに,アダムとエバが子どものないまま死ねば,その夫婦の完全な子孫で地を満たすという神の目的はついえたことになります。」
  支配権に疑いを持たない人間を創造して、その子孫で地を満たせばよかったのでは?

「エホバ神は完全な知恵を働かせ,限られた期間だけ反逆が続くのを許すことにされました。そうすれば,反逆者たちは神からの独立の影響を経験する機会 を十分に得ることになります。また,人間が神の導きを必要としていることや,神の支配が人間やサタンの支配より優れていることが,歴史によって疑問の余地 なく証明される
ことになります。」
  誰への証明か→人間(反逆者)へ。
  なぜ、それを歴史によって証明する必要があったのか。

根本的な疑問としてやはり大きいのが、幸福の条件が、「神の支配権と善悪を決定する神の権利とを認めること」であるという部分です。すなわち、人間の幸福には「神の支配権と善悪を決定する神の権利を認めること」が必要不可欠だということ。もし、「神は,苦しませるために人間を創造されたのではありません」が事実であれ
ば、神は基本的に人間に幸福をもたらすことを意図しており、同時に「神の支配権と善悪を決定する神の権利を認めること」を意図していると言い換えても問題ないでしょう。
で、私はここで、引っかかるんです。
「幸福の条件」に「神の支配権と善悪を決定する神の権利とを認めること」を設定した神。
「人間が神の導きを必要としていることや,神の支配が人間やサタンの支配より優れていることが,歴史によって疑問の余地 なく証明」するための、今の世。
「神の支配権と善悪を決定する神の権利を認めること」を意図した神。
神とは、一体何者なんでしょう・・・。
自分以外の他者が、自分の支配権と善悪の決定権を認めるという世界を実現するために、自分以外の他者を創造する存在。
彼は、なぜそこまでして他者が『自分の支配権と善悪の決定権を認める』ことにこだわるんでしょう。そんな彼は、彼の世界ではたった一人(物理単位ではなく、意識単位で)なのでしょうか。他者が存在しないのに、他者の概念をどのように獲得し、他者が自分の支配権と善悪の決定権を認めることへの欲求はどのように形成したの
でしょうか。もし、彼が完全であるゆえに、存在と同時に前者の概念を獲得していたと言えるとして、完全なのに後者の欲求を備えていたのはなぜなのでしょう。神にとって、自分の「支配権と善悪の決定権を認める」存在としての「人間」が、どうしてそんなにほしかったのでしょうか。

このように、神の側から物事を見ると、その目的と意図に混乱しましたが、ここで、少しひっくり返して、人の側から見てみます。
「幸福の条件は、神の支配権と善悪を決定する神の権利とを認めること」
「神は,苦しませるために人間を創造されたのではありません」
すなわち、私たちは「神の支配権と善悪を決定する神の権利とを認め」さえすれば幸福になれる、それを約束してくれる存在である神。
なんて、私たちにとってありがたい存在なのでしょうか。
神の側から見たときと比べ、あまりに分かりやすすぎます。

そんなわけで。
神と人の関係考えるとき、神のために人がいる理由が見つからず、逆に、人のために神がいる理由ばかりを思いついてしまう。
そう思ってしまうのは、やはり私が一般人だからなのでしょうか。

本当はもっと細かい疑問もあり、書きたいこともあるのですが、取り急ぎ、メモ。
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価値、その後

2009-01-16 17:40:30 | Weblog
前回の補足のエントリのなかで、「存在」の価値のあるなしについて論じました。
で、経験については「関与」という言葉で表現して、関与の価値については不問に付しました。
それに対して、洋平さんとゲハジさんがエントリを挙げてくださいました。

で、ここから先は単なる呟き。今日はまとめる気はないです。
まず、洋平さんのエントリについて。
http://ameblo.jp/look-up/entry-10185390655.html
ぶっちゃけ、確かに、マイナスの関与をした当事者が、それを正当化するようなことを言うのは許しがたい。
そういう気持ちも、相対的な評価に過ぎない、って言ってしまうことはできるかもしれないけど、なんか、悶々としたものが残る・・・。
ただ、経験がマイナスだからと言って、存在価値がマイナスとは言えない、それはあるんじゃないかなあと思うし、それは洋平さんとも一致してる気がするんだけど・・・。
そもそも、幸せな経験をした人の存在には価値があり、間引かれた子どもの存在には価値がない、とは言えない、と言うより、言いたくない。
それで、私は経験の性質と存在の価値との関連付けを行わない、というスタンスを取ったんですが、そもそも、経験の価値を論ずることと、存在の価値を論ずることは、もっときっぱり分けたほうがいいのかも。
なんか、こんがらがってきちゃった。

それともう一つ、強姦を、今回のような例示にしきれない私の弱み、と言うか、こだわりがあること。
これは、私が松浦理英子の作品が好きで、彼女が朝日ジャーナルで「嘲笑せよ。強姦者は女を侮辱できない」(1992年4月17日、ああ、もうそんなに昔なんだ・・・)という記事を書いたときに、その戦略的な姿勢に、まず第一印象として共感(全面的ではない)を感じたことに端を発します。
映画『ベーゼモア』で、強姦された主人公が、特に抵抗もせずにレイプされて、それをたいしたことではないと言い、レイプの事実を聞いて怒り狂った兄(犯人ではなく)を殺すシーンがありますが、このことにも通じるかもしれない。
レイプの動機が、基本的に性欲ではなく、支配欲だという心理学的な調査は多々ありますが、これに対する戦略的な方策として、「強姦など、女にとって、たいしたことではない」という認識を、広く深くもたらすことの効果。
私自身、それに対する答えが出ていないから。
ドウォーキンだったっけ? フェミ定番の『インターコース』では、支配被支配の関係でない性行為など存在しないという主張もある・・・。
私自身、支配欲(主体として思うままに振舞いたい)と被支配欲(モノのように扱われてみたい)が、どちらも極端に振れているところがあり、自分が、常識的なラインから少し逸脱している感じが否めない。
「いかに、女性にとっての性行為の意味を軽くするか」あるいは「軽くすべきか、すべきでないか」「生殖との関係はどう位置づけるべきか」などは、私の大きなテーマの一つでもある。
そもそも、強姦を他の暴力と切り離して特別視すること(挿入されるかどうかが、なぜ、ぼこぼこに殴られるよりも、重大なこととみなされるのか)自体が、女性の人格における純潔や貞節の重要性を認めることと非常に近しい関係にあるため、その是非の答えが出せず、強姦の話に歯切れが悪くなるわけです。(あー、ここらへん、
漫画『鈴木先生』の問題提起もちょっとかすります、ご興味のある方はどうぞ)
このように例示一つとっても、その経験にどれくらいの性質、価値を付与するかというのは、非常に微妙な問題で、存在の価値と分かちがたく、けれど、分けておきたい、ところでもあります。

と、ここまでは呟き。で、洋平さんの
>その理由からも、神様を抜きにした「価値観」、
>無神論・一元論を土台とした価値観(正確に言えば、ルール)を
>作っていかなくてはいけないのだと思います。
には、激しく同意です。
加藤秀一氏もそうですが、志のある倫理学、哲学者には、共感と憧憬を感じます。

そしてもう一つの呟き。
それは、ゲハジさんが一貫して提示してくれている深い疑問。
http://gehazi.blog41.fc2.com/tb.php/240-2248514c
神の存在とモラル、道徳の関係。
これはやはり、カント先生の『純粋理性批判』(でしたっけ?あれ?どっちだったっけ?ごめんなさい、『実践理性批判』のほうだったかも)に登場していただくしかないのでは・・・。
確か、カントは、ここで、道徳的な行動を取ることによって幸福がもたらされるというシステムは神がいないと成立しない、みたいなことを言って、自分が散々ぶった切った数々の神の存在証明を、今度は自分でしてるんだか、してないんだか(っていうかあってほしいっていうか、認識としての神は存在するみたいな感じ?)。
そういう意味では、先に引用した洋平さんの言葉はカントへの挑戦と言えるのかもしれません(すみません、こんな乱暴なまとめ、恥ずかしい・・・)。
それくらい奥の深い疑問で、私の中にも、横たわっています。

非常に率直で根源的な問い掛けですよね。
神がいなくても、道徳的でいられるのか。
これに対する答えはまさに、宇宙主権の答えとなるんでしょう。
「いいえ」と答えるのがJW。
「はい」と答えるのが無神論者なのかな。
ただ、カントの考えをかじったときも思ったんですが、この問題を考えるとき改めて、「神ってなんだろう」って思います。
「いいえ」と答えるとしたら、神は、カントが言うように、人間の道徳のために存在するかのような図式になりませんか。
まあ、人間の限界故なのでしょうけれど、考えてゆくと、人間のためだけの存在のように思えてしまう。
ここらへんを、次のエントリで。
で、そこから普段のJWへの疑問エントリに戻します。

価値の話、面白かったです。
が、拡散してきて、私自身まとまらないので、またいずれ。
あ、洋平さん、ゲハジさん、くれぐれも、無理してコメントなさらないよう。今回、私の単なる呟きメモなので。
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夫が見つけました

2009-01-10 12:47:38 | Weblog
いや、なんというか、いきなりですが、夫がこのブログを見つけました。
家のPCの履歴から消し忘れていたという体たらく・・・。

ある程度、中を読んでからですが、「気づいたよ」と言ってくれて、うれしかったです。どうもありがとう。

自分としては、こうしたブログを作るかもと言ったものの、URL等は尋ねられていなかったので、特に内緒にするつもりはないものの、なんとなく内緒になってしまっていて、時に筆がすべることも少なくなく、当初は疑問の記事も多かったのに、最近は、日ごろの愚痴みたいになっていて、言葉が過ぎていた点も反省点でした。

夫にとっては傷つく文章、内容も多々あって、ショックを受けていたようなのですが(ごめんなさい)、私もショックを受けてしまって、とりあえず、今は、「見ないで」とお願いして、夫が傷ついたことについて、少し言い訳をさせてもらった、という状況です。

で、とりあえず、今は見ないでいてくれてるとは思うのですが、気持ちが少し落ち着いてきた今、私としては、これを機に夫に見てもらえるブログにしようと思い始めました。そのほうが、私の本来の希望には近いものだし。
忙しいという現実的な側面と、議論をしあって却って嫌われたら怖いという不安で、互いの風通しが悪くなっていたという気もしますし、私が一方的に持っている情報が、夫にもちゃんと伝わるように、風通しのよい夫婦をもう一度目指して、頑張りたいと思います。

というわけで、過去記事からあまり意味のない愚痴系記事を消し、できるだけ、疑問系記事のみにしています。該当記事にコメントをいただいていた方には申し訳ありません。
また、彼の家族などプライバシーに関する記述を、取り急ぎ、削除しています。
また、私は端的にまとめようとすると、言葉がきつくなる癖があるので、今後はこの点に留意し、それを過去に遡って適宜修正していく予定です。

いつか、夫から突っ込みコメントとかが入る日が来ることを願って。
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補足

2008-12-26 15:41:52 | Weblog
先日20日のエントリへの補足です。
このエントリを挙げた後、リンクを貼らせていただいた洋平さんのところへのご報告コメントを入れたのですが、そこで書いたことについて、先日のエントリだけだと記述不足で、なんのこっちゃな感じなので、補足しようかと思いました。
ええと、コメントに書いたのは、下記のとおりです。

********以下引用**********
中絶もしくは殺された奇形児の人生の価値について、私自身は、「存在し、他者と関与した」という時点で、他の人生と同等に価値があるもしくは価値がないと考えています。なぜなら、私にとっては、「他者との関与」と人生の価値の関係については、深浅やプラスマイナスなどの性質ではなく、関与の存在の有無を基準としているからだと思います。
********引用ここまで********

我ながら、だらだら書くより短いコメントのほうがまとまるもんだなあと、感心しちゃいますが(自画自賛、さいてー)、今日のエントリは、この短いコメントのながーい解説です。

本来、「価値」という言葉の定義をはっきりさせなければいけないところですが、これはまとめる自信がないので、仮にここでは、「その存在の持つ意義」というような感じで、乱暴にまとめちゃいます。
で、次にほんとははっきりさせなければいけないのは、「存在」をどう定義するか、というところです。
私はここで、「存在」を定義する要素の一つに「他者との関与」を挙げたいと思います。
人間を例に取ると、まず妊娠した時点で、母親、もしくはその周囲の他者と、なんらかの関与があります。この場合、「できちゃった、やばい」でも「できた、うれしい」でも、関与があったという事実に相違はありません。「関与」とは、ここでは、他者に認知され、その認知によって他者が何らかの刺激を受けることであり、「存在」とは、そうした関与が可能なものと考えています。

さて、一般的に「価値」とみなされがちなものに目を向けてみると、その該当する存在が、何を成し得たか、何を所有したか、どれくらい多数の他者と有意義な関係を築いたか、どれくらい多数の他者に肯定的な感情を持たれたかといったことが挙げられがちです。これがゲハジさんの引っかかっているところではないかと思いますし、私自身、そうしたものを希求する感情は、非常に、おそらく他の人よりも沢山、あります。
一方で、生きているものすべてに「価値」がある、という考え方があります。
洋平さんのところのコメント欄でも生きているだけで価値がある、というカウンセラーの言葉が紹介されていますね。これは、「存在」が果てしなく「価値」にイコールな考え方です。何を成し得たかなどの人が羨むようなことがなくとも、コメント欄にあった、「パンを食べれば、パンを作って売る人の仕事をさせてあげてることになる」というような価値は、生きていれば誰にでもあるんだ、という考え方です。
これは、該当する「存在」が他者と「関与」する、この場合、Aがパンを食べるという形でBと関与することで、Aの「価値」が発生している、と考えてよいかと思います。

もう一つ、「存在」が人間でない場合を考えたいと思います。
例えば、クマのぬいぐるみ。幼い頃から、このぬいぐるみを心の糧にしてきた子どもにとっては、このぬいぐるみは「価値」のある「存在」でしょうか。そうではないでしょうか。
おそらく、「このぬいぐるみに価値(存在の持つ意義)なんてない」と言ったら、子どもは悲しむことでしょう。
子どもにとって、このぬいぐるみは、親友のような、深く関与した他者と同様になっているからです。

では、このようなプラスの関与ではなく、マイナスの関与は、どうでしょうか。
仮に、強姦された後、被害者が、その経験に起因した精神的身体的苦境に陥り、自殺するとします。これは、想定されうるマイナス関与事例の一つです。
加害者には「存在」する「価値」がないと言えるでしょうか。
ここで、話を少しややこしくします。加害者には仲のよい家族がいるなど、被害者以外の他者には非常に良好な関係を築いており、プラスの関与をしていたとします。
そうなると、加害者の「存在」には「価値」があると言えるでしょうか。
ここで、また、別の側面から、話をややこしくしてみます。
加害者が強姦した後、被害者は、その経験を糧に、精神的に、何がしかの成長をしたとします。これは、果たして、プラスの関与でしょうか。マイナスの関与でしょうか。
そして、この場合の加害者の「存在」は「価値」があるでしょうか。

ちなみに、私は、すべての「存在」には「価値」はないというスタンスです。
これをもう少し正確に言うと、「絶対的な価値」はない、というスタンスです。
先ほど挙げた価値の話は、いずれも、「価値」を「相対的な価値」と言い換えると、話が明快になります。パンを食べる人は売る人にとって価値があると考えるでしょうし、ぬいぐるみは子どもにとって価値があると考えるでしょう。また、微妙な問題ですが、被害者が自殺した場合、被害者は加害者の価値などまったく認めないでしょうし、被害者がその経験を人生の糧にした場合、被害者の個人的な性質によっては、加害者になんらかの価値を認めてもよいと考える場合もあると思います。ただ、いずれも、「価値」を判断するのは、当事者の一方の「存在」です。

そりゃそうだろう、と言われるかもしれません。
で、ここで、ちょっと話を飛ばします。
そもそも「価値」があるだのないだの話すのは、大抵、その「価値」に躓く経験をした人間です。最も多いのは、「自分は価値のある存在なのだろうか」という疑問でしょう。
「生きている人のすべての人生には価値がある」という考え方と、「人生には価値はない」という考え方は、字義だけみると、この疑問に対する答えは、まったく逆です。
ですが、実は、まったく同じなのです。要は、「自分は価値のある存在なのか」と悩む人に対して、両者とも「そんなことで悩む必要はない」と言いたいんです。
自分に価値があるなんて悩まなくても、「みんなに価値があるんだよ」というか、「みんな、価値なんてないんだから」というか、それだけの違い。相手に伝達したい論旨は「そんなことで苦しまないで」という同内容のことです。

ここで、私がなぜ、「価値」がない、というスタンスを取るのかを説明します。
一つには、価値のある存在と価値のない存在の境界を限りなく無に近くするためです。
自分に価値がないかも、と悩んでいる人は大抵、自分以外の他の人には価値がある、と思っています。そのため、「そんなことで苦しまないで」という内容のことを伝えるには、その人と他の人が、いかに変わりのない存在かということを伝えなければなりません。
この場合、「価値」があるという考え方には、それが相対的な価値なのか、絶対的な価値なのか分かりにくく、相対的な価値があるという立場に立つと、マイナスの関与について考えないわけにはいきません。どんなにプラスの関与に思えても、価値を判断するのが相対的な他者なので、「では、○○はどうなのか、価値があるのか、ないのか」という疑問が、(私だけかもしれませんが)どうしても生じてしまいます。例えば、「パンを買いはするけど、そのお金は親が稼いだもので自分のじゃないし、自分がそのパンを買わなきゃ、誰か他の人が買えたかもしれないし、そうしたら、その人にとって自分は迷惑な存在だし・・・」みたいな。(超根暗な私でなければ、こんなことは考えないかもしれませんが・・・、あ、いかん、落ち込むじゃないか)
一方、絶対的な価値があるという立場に立つと、今度は、自分という一存在が、何を根拠に、絶対的な価値を他者に与えるのかという疑問が生じます。この場合、人は、自分の代わりに、神を設定するのだと思います。
私は無神論者です。私が現在認知している様々な事象からの類推に過ぎませんが、仮に、創世主がいたとしても、それが何らかの明確な意図を持って、この世界を作成したとは考えていません。絶対的な価値を私たちに与える存在を認めていないことになります。
ですので、「絶対的な価値はない」というスタンスになるわけです。

たださらに正確を期すならば、私のスタンスは「価値の論議は不要。大事なのは「存在」そのもの」です。
相対的な価値のところで加害者と被害者の話題を出しましたが、「存在」は様々な相対的な「価値」を付与されます。逆に言えば、「存在」なくして「価値」はありません。すなわち、「価値」は、それを付与する側の問題であり、「存在」の本質ではないと考えています。
私にとっては、関与した時点で、他者を刺激し、何かを生み出すもの、これなくしては何も始まらないもの、それが「存在」の本質であり、すべての人は「存在」である、という点で価値は(あるにしろ、ないにしろ)同じだというわけです。
関与の時点で生み出されたものがマイナスであっても、それがまた別の他者にどう作用するかは、誰にも分かりません。その逆もしかり。ですので、「他者との関与」があった時点で、そのプラマイに限らず、その「存在」には価値がある、もしくは価値がない、という意味で同じだ、ということです。
奇形児を間引いた父親は何も感じなかったかもしれませんが、妊娠中に胎動を感じていた母親は何かを感じていたかもしれません。あるいは、兄弟たちは? 周囲の人々は? 今の時代に生きる我々にはわかりませんが、少なくとも、その奇形児は殺されるという形で父親と関与したことは間違いありません。その関与は、周囲に何らかの事象を示し、時代の空気を作り、後世の私たちの議論へとつながっています。それは個人の存在の価値とは言わないかもしれませんが、では、何人目から無価値な存在だったかなどという議論は不可能ですし、無意味です。
そして同様に、良好な関与をどれだけたくさんしたら、「存在」の「価値」があがるという話も同じように不可能ですし、無意味です。
誰かと係わり合い、どの相手に何らかの刺激を与え、何かを生み出すことのできるもの、そのエネルギーを持つもの、人というものは、そうした「存在」である、価値だの意味だのの話はもう個別のケースごとに、相対的に付与され、変動するもの。
たくさん所有したい、いろんなことをなしえたい、人から尊敬されたいという欲を持ちつつ、苦しむのは、そうした他者から相対的に付与され、変動する、自分ではコントロールできないものを求める行為だからこそだと言えます。この悩みは決して小さくありません。
それに拘泥して苦悩するのも、それを向上心に変えて努力するのも、根っこは同じ。
だから、そうしたことに左右されない、絶対的な価値を求めるのでしょう。
でもそれは求めずとも、誰にでもあるのです。そして、ないのです。私はそう考えます。

もう一度、根本に立ち返るならば、誰しもが誰かに言いたいのは、「自分は価値のある存在なのかと、苦しまないで」ということです。
価値に関する議論は、常に、価値のある者とない者のあいだに線をひくこと。
そんな線はあるのでしょうか。
そして、あったからどうだというんでしょう。
価値のあるなしを超えて、他者の存在を認知し、関与していくこと、私はそれを生きることと考えています。
後述しますが、私が参考にさせていただいている研究者の方の言葉をお借りして、さらに詳しく語るならば、他者とかかわる活動の中で多様性の中の唯一性として示される<誰か>という存在の持つ性質、それに注目していきたいと考えています。

洋平さんの記事に
「この目的のない宇宙における、この一瞬の人生の輝き
そしてその一瞬をともにする別の輝き
あるのはただそれだけなんだと僕は思います」
という言葉がありましたが、私も同感です。
誰かがいて、私がいる。
そこからいろいろなものが生まれる。
これほど愛おしいものを、私はほかに知りません。

ここまで述べてきた私の考えは、かなり未熟で、論理的に破綻している部分も少なくありません。それは多分、私の中にまずある「他者」への感情(例えば「苦しまないで」という願い)で、そこに立脚して論じているからでしょう。私の中にある、それらの感情が変化すれば、この論理も変化すると思います。私は論理を重んじますが、その脆弱性も感じています。未熟な論を披瀝して申し訳ありません。
なお、私はこれらの考え方については加藤秀一氏、森岡正博氏の著作から影響を受けています。先日書いた、子どもを死産したときに病院で熟読していた(まわりの患者さんと看護婦さんに引かれた・・・)のは、『生命学に何ができるか-脳死・フェミニズム・優生思想』(森岡正博)、前述した関与のなかでの多様性の中の唯一性と示される云々というくだりは、『"個"からはじめる生命論』(加藤秀一)、後者は新書で読みやすいのでお勧めですが、両氏とも、専門書でも読みやすいです。よろしければ、ご参照ください。

ちなみに、夫はここらへんは読んでません。JWって、哲学書もだめなのよねぇ。さびしくないのかなあ。
またまたちなみに、これが今年の最後のエントリになると思います。
最後の最後に、こんな長いのを書いてしまってすみません。
皆さま、よいお年を。

あ、最後に追加です。
以上から、ゲハジさんのCカップの喩えは非常に絶妙だったと思います。
Cカップの女性を見て、Cカップもある!と思うか、Cカップしかない!と思うかは、見た人による相対的な価値であり、その人が今後微乳好きや巨乳好きになれば、その価値は変動します。時代背景など、影響を与えているものも、やがて変化するかもしれません。
それに、実際、いい仲になっちゃったら(=関与)、胸の大きさなんて、結構どうでもよくなったりしませんか。まあ、男は何と言っても視覚で興奮する要素が女より大きいような気もするんで、譲れない線というのもあるかとは思いますが。(完全に余談ですが、私は一応、何回か、女性との経験があります。で、そのとき悟ったんですが、男してるときは目を開けてるんですけど、女してるときは、大抵、目を閉じてるんですよ、面白いですね)
だから、私にとって大事なのは、「目の前に女がいるぜ」という事実(=存在)。まずはそこだってことなのかなあ。
あー、なんか、今、私、自分が、性欲に関して間口が広い理由が分かった気がした。
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死ぬことと生きること

2008-12-25 12:50:19 | Weblog
相変わらず、JW話題から離れてますが、クリスマスとか誕生日を祝わないという話で調べ物をしていると、生まれた日よりも死ぬ日のほうが大事、という話が出てきますね。
実は、私が子どもを産もうと決めたのが、父が死んだときだったのですが(それまでは産むつもりは一切ありませんでした)、産んでみて、感じたことがあります。
生は、死よりも多彩で動的で強い、と。
今日は時間がないのでメモですが、
死んだ日が大事というのは、それが死んだ日だからではなく、その日まで生きていた日だから、ではないかと、私はそんな気がしてなりません。
ですので、生まれた日も死ぬ日も、その生の両端に存在する一つの区切りであり、いずれも、その日を重要視する根本には生があるという意味で、本質的な相違はないように思います。
多様に多彩に劇的に懸命に続いてきた生、その長短に関わらず、その生なくして、死んだ日はありえないのですから。
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生きることの価値、かぁ。難しい話だねぇ

2008-12-20 16:30:43 | Weblog
ゲハジさんと洋平さんとこで、興味深いやりとりが続いている。
ゲハジさんとこ
洋平さんとこ
知的な人たちが集まると、こんなやり取りになるんだなあ・・・。
大変勉強になります。

私は、今年の6月に、こんなエントリをあげていて
http://blog.goo.ne.jp/satukimay_2008/e/12ab96ac3272c19ba8e30ad1e57dda57
http://blog.goo.ne.jp/satukimay_2008/e/1d0daacac0a4603d320cad3826f661d2
で、今回の洋平さんのエントリを拝見したときに、正直、自分のスタンスと洋平さんのスタンスはとっても似ていると思いました。
というか、洋平さんの話って、生命倫理の学者、森岡正博氏に似ている気がして、私が森岡氏の著作が好きだから、なのかもしれないけど。

だからなんなのだと言われると、今日はまとまったものをあげられるほど、頭の中が整理されてない。
つきつめてくと、価値って、そもそもなんだ?
ってことを俎上にのせるないといけない話なのかもしれません。

洋平さんのコメントにある
「この目的のない宇宙における、この一瞬の人生の輝き
そしてその一瞬をともにする別の輝き
あるのはただそれだけなんだと僕は思います」
という部分には非常に共感する。

ただ、ゲハジさんの
「全ては無価値であるとしてしまう事に頭の中で何かが警鐘を鳴らしているような気がするのです。」
「だが、この言葉は、世の最下層デ生活しているような、生きる事に苦悩する人にとっては救いとならないのではないか。価値なるものを所有しているから、価値は無いと言えるが、価値なるものを持たざるものは、やはり得たいと望んでしまうでしょう。」
というのも、非常に気になる。
自分もそうですが、苦悩してるときは、価値があるかないかという議論より、一緒においしいご飯を食べるか、それができないときは、おしゃべりしたり、ただ寄り添って寝たりするくらいしか、思いつきません。

また、これは、価値と欲望を、どこで切り分けるか、という気もします。
人が欲しているのは、「価値」?「快楽」?
快楽と価値は等価ですかね。
そして、価値とは、その所有物や環境に与えられるものなのか、人格に付随するものなのか、いろいろややこしそうです。

以下、関連なく、私の独り言です。
私はどっちかというと自分を、「自分」、「肥大した自意識」だけの存在のように思っています。
何も価値はない、でも、「自分」がそれを面白いと思うから、やる。
では、なぜ、「面白い」のか、それは「自分」が、何かを受け止めて、変化するのが、面白いから。なんで、そんなものが面白いのかと問われたら・・・、なんでだろ。

価値のない経験、価値のある経験という話題も出ていましたが、私にとっては、多分、自分の自殺も、面白い経験と思ってしまう一面があります。
ただ、その後に、自意識が持続しないので、そこが難点です。
昔、芥川が自分の首を絞めてどれくらいで気が遠くなるか実験したというエピソードがありますが、私も子どもの頃、それをやったことがあります。

もちろん、殺されたくはありません、それどころか、殴られるのも、罵倒されるのも、ちょっとした心無いことを言われることすらイヤです。
すっごく褒められるのと、ちょっとけなされるのと、どっちがいいかといわれたら、褒められるほうがいいです。でも、じゃあ、仮に両方を「価値」という質量があると仮定すると、どちらかが0なのではなく、ベクトルのプラスマイナスがあるだけだ、という気がします。「マイナスの価値」って、なんじゃい、という感じですが、なんというか、刺激、かな。それをエネルギーにして、自分がどちらに動くか、いずれにしても、燃料にはなるというか。
うーん、うまく言えないな。

私が「生きることの意味、価値」を、わりとつきつめて考えたのは、2回目の妊娠のときです。
ある日の健診で、胎児に水腫があることが分かり、重度の障害を持って生まれる可能性が高いと診断されました。
そのとき、「このまま産みますか?それとも?」と尋ねられました。
周りのほとんどの人は、私に中絶を勧めました。
生まれてくる子がかわいそうだという意見が大勢で、その気持ちは、私の中にも沢山ありました。
さて、この「生まれてくる子がかわいそう」という言葉は、生まれてくる子の生を、価値のあるものだ、と捉えている言葉なんでしょうか、そうではないのでしょうか。
難しいですね。
結局、悩んで悩んで産むと決めました。
産みたい、苦労しても苦労させても、この子に会いたい、少しだけでも、この世界を見せたいと思いました。
そして、その後に、その子は、お腹の中で死んでしまいました。
死んだ子と対面しました。とてもとても小さな子で、当たり前ですが、すべての力は失われていました。一晩一緒に過ごして、荼毘に付し、散骨しました。
とても悲しくて、こんな可愛い子を中絶しろと言った、まわりの思いやりのある人々を敵のように思ったりもしました。
街中で子どもを見るたび、生まれていれば、こんな子だったのではないか、あんなふうに大きくなったのではないかと思って泣いてばかりいました。

それから1年半後、私は今の子を産みました。
産まれて泣いて、私の裸のお腹の上でにじにじとよじ登ってくる小さな人間を見て、産まれてくるには、これだけの力が必要なんだなと、これだけの力を授かったから、産まれて出てきたんだ、それは非常に稀有なことで、生きることは、この力を授かることの代償なのではないかと思いました。
私にとっては、どちらの子との出会い、言い換えるなら、どちらの子の存在も、私の中に大いなる変化をもたらしてくれました。
障害をもって生まれたかもしれなかった子の存在は、この世で、何も活動せず、何も持ちませんでしたし、私の経済事情だけで言えば収支はマイナスでしたが、価値のないものでしょうか?それとも、価値のあるものでしょうか?

私の持論から言えば、誰もが納得する結論など、この話にはありません。
あるのは、彼の死を経験した私という存在だけです。

言い換えるならば。
とても悲しい経験だったけれど、あの子を妊娠しなければよかったとも思えない。
もちろん、生まれてくればうれしかったけど、それだけがすべてだとも思えない。
間違いなく、あの子の死があって、今の私がいるのだから。
私を支えているのは、プラスばかりではありません。沢山のマイナスもまた、私を力強く、支えてくれています。
死は悲しい、でも、排除すればそれでよい、という見方は、むしろ死と生の両者に対して失礼だと、そんな気がします。うまく言えないけど。

それにしてもJWと関係のない話になっちゃったので、最後にJW関連の疑問を一つ。
復活したら、私のその、2回目の妊娠の子は復活しないのかなー。
それと、楽園に行ったらそういう死産なんてなくなるんだろうけど、それって、やっぱ、「死んじゃうような障害もった子を妊娠する経験」は価値がない、ってことなのかな。
そんなんだからねぇ、私はJWにはなれないんですよ。

ちなみに、お腹の中の子は、今、胎動まっさかり。盛んに私の腹を蹴りまくってます。
羊水穿刺は断りました。高齢出産なのにねぇ。
生まれてくるだけの力を持っているのなら生まれてきて、苦しみながら生きることです。
私は何をしてあげられるわけでもないけれど、ただ、彼を心から歓迎し、その出会いを楽しみます。

って、なんか、偉そう・・・。ごめんなさい。
あ、一応、書いておきまずが、羊水検査などで障害が分かって中絶するという選択を責めるつもりはありません。
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JWと一般の禁忌を比べてみる

2008-12-04 12:59:52 | 疑問
引き続き、乾杯のこと。
昨日のコメ欄で、ゲハジさんから、乾杯について
>特にJWは守るべき伝統とかではなく、本当にサタンの慣行で、
>現実に子供がハルマゲドンで死に到ると考えてしまう所が問題だと思います。
という鋭い指摘をいただいた。
そうそう、時々忘れてしまうんだけど、問題は、そこでした。
で、まあ、私としては信仰の不存在を前提とした禁忌を守るという行為の位置づけというか、軽重について、コメントを返したわけですが、「サタンの慣行」という言葉から思うこともあり、エントリ挙げます。

日本でも、というか、地域によるかもしれませんが、一般的に禁忌とされていることがあります。
まあ、私の興味の方向に引っ張っちゃうと、土俵に女性が入れないとかね。
これ、個々人がどの文化を好むかという話としては、いいと思うんですよ。
あるいは信仰と置き換えてもいい。個人が、そういう信仰を持つのは問題ないと思うんです。気持ちも分かる。
ただ、大阪府知事の問題は、府知事というそういう文化を大事にする人、もしくはそういう信仰をしている人だけじゃなくて、他の文化も大事にしている人、他の信仰を持つ人たちからも選挙で選ばれ、税金で給与が払われている人を、一つの文化、一つの信仰の基準で排除するところとかね、そういう文化、そういう信仰に反発を感
じる人も住んでいるにもかかわらず、日本の「国技」としてしまうところとかね、そこが問題なんだと思うわけですが。

話がずれそうなので、戻します。まあ、他にも、何かをすると悪いことが起こるからしちゃいけない、という禁忌はいろいろありますよね。
で、実際に伝統というだけでなく、それを信じている人々も少なくない。
よくホラー小説とかの設定で、禁忌を信じてない現代人が、やっちゃいけないと信じられてきたことをやっちゃって、封印が解けちゃったり、神の怒りに触れたりして、ひどいことが起こるという話はあります。
JWでは、神を信じてなくても禁忌を守ればOKなのかと、コメ欄に書いた私ですが、この小説なんかのパターンでも、信仰を持っていない人が、その行為をすることで悪いことが起こるわけで、逆に、信仰してなくても、とりあえず、その行為さえしてくれなきゃOK、救われるってことは、一般でもよくあることだなと、思い至りました

そういう感覚なのかな。

だとすると、これはもう、比較の世界だなあ。
郷に入っては郷に従えと、例えば、特別な信仰を持っている村に入って生活していくのであれば、自分では信仰してなくても、周囲に配慮して、その禁忌を守っていく、という選択肢もあるわけで。
で、私みたいなケースは、むしろ、郷の文化は真逆な状況、あとは、子どもの精神的な発達への影響と、その禁忌の合理性と、夫の感情を比較検討して・・・となると、今の段階では、やっぱり、「すいませんね、ひやひやしながら、見守ってください」としか言えない感じ、なのかな。
ただ、このとき、相反する側に立つ感情には十分配慮する必要がある。その禁忌を守るという方向での配慮は、前述の比較から困難だけれど、別の形では、それを示したほうがいいよね。うーん、具体的には、どうしたら、いいんだろ。
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