《大阪ネットニュースから》
◆ 『教育は社会をどう変えたのか 個人化をもたらすリベラリズムの暴力』
「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」
(桜井智恵子著 明石書店発行2750円)
◆ 序章ーリベラリズムの暴力
これは、今、私たちが読まなければならない本だと思った。そして本書を読むことによって、私たちが何をなすべきかが見えてくるとも思った。
序章で著者はこう語る、「教育現場は、学力やコミュニケーシヨン能力で人の価値が計られる能力主義によって貫かれ、自己責任という考え方を刷り込む場となっている。そこには、共に生きる社会や国のあり方を考えたり、能力主義によって正当化される経済格差をもたらす資本主義に疑問を持ったりする余地はない」と。
たしかにそうだ。私たちは、今の教育、特に大阪の教育に対して公教育から逸脱したと「新自由主義教育」批判を繰り広げる。
競争と格差を肯定するだけではなく、さらにそれを拡大させる施策の数々を批判する。だが、では、それ以前の公教育には問題がなかったのか、本書は新自由主義の親ともいえるりベラリズムに目を向ける。
◆ 個人化とは
戦後教育の中で理念として個人の自由が尊ばれた。では、「個人の努力が基本となるリベラリズムの原理では、どのような意味で自由が求められたのだろうか」と著者は問題提起する。
なるほど、私たちにとって、「個人の自由」は大切である。だが学校という場では、環境や状況つまり個人の背景にある社会は問題にされず、ただただ個人の、それも個人の努力が求められるばかりではないだろうか。
ほとんどの教員は生徒に頑張れ、つまり個人の努力を求めることはあっても、そんな乗り越えなければならないハードルのある社会の方がおかしいとは言わなかった。
筆者はそれを「個人化」と呼ぶ。そして「個人化」されない自由を考えたいという。
◆ 教育と経済
とすれば、教育の問題を個人に還元して考えることはできない。社会そのものを問わなければならないはずだ。
本書では繰り返し経済と教育のつながりが語られる。もっと端的に言えば、資本主義社会が教育をどのような方向に追いやっていったか、という問題である。
本書にはフーコーやマルクスが参照軸としてたびたび引用される。
私はフーコーもマルクスも読んだことはないが、逆に本書を通して、その端緒に触れることができたように思う。印象的にいえば資本主義批判であり、それは極めてラジカルでありかつ面白い。
教育を語るには社会を問題にしなければ、子どもに努力を課すばかりの「個人化」の泥沼に陥ってしまうということか。
◆ 岡村達雄を手がかりに
中でも、かつて養護学校義務化反対の論陣を張った岡村達雄の言説を通して、今の教育すなわち学校の問題が浮かび上がってくる。
そこで問われていることは、「普通学校の差別性」であり、多様化をめぐる議論の中で不登校政策としてなされる教育の権利保障が、逆に国家による「支配」を可能にしているのではないかという問題提起である。
◆ 終章ー希望のありか
教育と社会経済・国家のかかわりを説く本書に対し、では、どうすればいいか答えを求めたくなる。「個人化」ではなく「能力の共同性」を求めるとはどういうことなのか。「存在承認」というアナキズムとはどういうことか。
著者は、「私たちは、自分たちが常識としてきた発想を新しくすることを求められている」という。では、その新しい発想とは。
そこでデヴィッド・グレーバーが出てくる。
アナキズムとは、日常に横たわる当たり前の関係において求められる自由であり、それは基本的に「人類普遍の原理」であると。
そして、「未来のわかりやすい設計図は、誰かがどうぞと与えてくれるわけではない」と著者はいう。つまりは自分たちで考えよということか。
であれば、私たちも「能力の共同体」よろしく、みんなで知恵を出し合って考えていくより他はない。「能力に応じて」を問い直し、「必要に応じて」の社会を目指すために。乞う読書会!(S)
『大阪ネットニュース 24号』(2021年12月19日発行)
◆ 『教育は社会をどう変えたのか 個人化をもたらすリベラリズムの暴力』
「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」
(桜井智恵子著 明石書店発行2750円)
◆ 序章ーリベラリズムの暴力
これは、今、私たちが読まなければならない本だと思った。そして本書を読むことによって、私たちが何をなすべきかが見えてくるとも思った。
序章で著者はこう語る、「教育現場は、学力やコミュニケーシヨン能力で人の価値が計られる能力主義によって貫かれ、自己責任という考え方を刷り込む場となっている。そこには、共に生きる社会や国のあり方を考えたり、能力主義によって正当化される経済格差をもたらす資本主義に疑問を持ったりする余地はない」と。
たしかにそうだ。私たちは、今の教育、特に大阪の教育に対して公教育から逸脱したと「新自由主義教育」批判を繰り広げる。
競争と格差を肯定するだけではなく、さらにそれを拡大させる施策の数々を批判する。だが、では、それ以前の公教育には問題がなかったのか、本書は新自由主義の親ともいえるりベラリズムに目を向ける。
◆ 個人化とは
戦後教育の中で理念として個人の自由が尊ばれた。では、「個人の努力が基本となるリベラリズムの原理では、どのような意味で自由が求められたのだろうか」と著者は問題提起する。
なるほど、私たちにとって、「個人の自由」は大切である。だが学校という場では、環境や状況つまり個人の背景にある社会は問題にされず、ただただ個人の、それも個人の努力が求められるばかりではないだろうか。
ほとんどの教員は生徒に頑張れ、つまり個人の努力を求めることはあっても、そんな乗り越えなければならないハードルのある社会の方がおかしいとは言わなかった。
筆者はそれを「個人化」と呼ぶ。そして「個人化」されない自由を考えたいという。
◆ 教育と経済
とすれば、教育の問題を個人に還元して考えることはできない。社会そのものを問わなければならないはずだ。
本書では繰り返し経済と教育のつながりが語られる。もっと端的に言えば、資本主義社会が教育をどのような方向に追いやっていったか、という問題である。
本書にはフーコーやマルクスが参照軸としてたびたび引用される。
私はフーコーもマルクスも読んだことはないが、逆に本書を通して、その端緒に触れることができたように思う。印象的にいえば資本主義批判であり、それは極めてラジカルでありかつ面白い。
教育を語るには社会を問題にしなければ、子どもに努力を課すばかりの「個人化」の泥沼に陥ってしまうということか。
◆ 岡村達雄を手がかりに
中でも、かつて養護学校義務化反対の論陣を張った岡村達雄の言説を通して、今の教育すなわち学校の問題が浮かび上がってくる。
そこで問われていることは、「普通学校の差別性」であり、多様化をめぐる議論の中で不登校政策としてなされる教育の権利保障が、逆に国家による「支配」を可能にしているのではないかという問題提起である。
◆ 終章ー希望のありか
教育と社会経済・国家のかかわりを説く本書に対し、では、どうすればいいか答えを求めたくなる。「個人化」ではなく「能力の共同性」を求めるとはどういうことなのか。「存在承認」というアナキズムとはどういうことか。
著者は、「私たちは、自分たちが常識としてきた発想を新しくすることを求められている」という。では、その新しい発想とは。
そこでデヴィッド・グレーバーが出てくる。
アナキズムとは、日常に横たわる当たり前の関係において求められる自由であり、それは基本的に「人類普遍の原理」であると。
そして、「未来のわかりやすい設計図は、誰かがどうぞと与えてくれるわけではない」と著者はいう。つまりは自分たちで考えよということか。
であれば、私たちも「能力の共同体」よろしく、みんなで知恵を出し合って考えていくより他はない。「能力に応じて」を問い直し、「必要に応じて」の社会を目指すために。乞う読書会!(S)
『大阪ネットニュース 24号』(2021年12月19日発行)
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