10・26予防訴訟控訴審結審 原告陳述(3)
◎ 定時制の生徒と共に歩んで
被控訴人の加藤良雄と申します。私は1973年に教員に採用され、現在教員歴38年目で、来年の3月に定年退職を迎えます。最初の26年間は全日制高校に勤務し、その後、1999年に初めて定時制高校に移りました。南多摩高校定時制というところでした。
私が定時制で体験した初めての入学式のことは、今でも鮮明に覚えています。新入生代表の「誓いの言葉」は次のように始まりました。「私はこの場所に立っていることがまだ信じられません。つい数ヶ月前まで私は高校生だったからです。今日が、人生で二回目の高校の入学式なのです・・」それを聞いて私は驚かされました。全日制高校に進んだものの、挫折し退学、そして定時制高校に再入学してきた自分の歩みを、入学式という場で率直に表現していたからです。
定時制で教えてみて、価値観の転換を余儀なくされることがいくつもありました。全日制にいた時は、例えば文化祭では、全員の力で成功させることをホームルームの目標にしました。しかし、定時制ではむずかしいのです。そもそも、人間関係を作るのが下手で、共同作業が苦手な生徒が多いのです。無理やりやらせようとするとパニックを起こして学校に来なくなってしまいます。私は途中から方針を変え、生徒に「何かできることはある?」と聞くようにし、どうしてもやりたくないならそれ以上押しつけませんでした。
授業でも同じでした。私は英語を教えていますが、全日制の時は、「公平に接する」ことを基本とし、列ごとに順番にあてて、質問をしていきました。しかし、定時制でそれをすると、またもやパニックに陥る生徒が出ます。ほとんど授業に出たことがない不登校の生徒にとっては、公の場で自分が質問されることは、恐怖でしかないのです。そのこともわかってきて、機械的に生徒に質問をしていくことはやめました。
定時制に来る生徒たちの中には、教師と学校に対して不信感や敵意を持っているものが少なくありません。中学校で問題を起こし、「不良」のレッテルを貼られ、邪魔者扱いされた経験を待っているからです。
Kという男子生徒との出会いを少し述べます。Kの入学はいわくつきでした。Kは同じ南多摩高校定時制に1度入学をしたのですが、一年生の時に問題行動を起こし自ら退学した後、翌年、また入学してきたのです。再入学後のKは私の担任となりましたが、教師不信のかたまりでした。私がKに話しかけても、返ってくるのは「うるせえ、バカ、死ね」の三つの言葉だけでした。
ある日、「君のケータイの番号を教えてくれないか」とさりげなく言った時、Kから返ってきた言葉は、「何でお前に教えなきゃいけねえんだよ」でした。
そのKが、7月にある教師とトラブルを起こし、一触即発の状況になりました。私は、「K、落ちつけ!何のために二度入学したんだ!」と叫んで必死で割って入り、その場は何とかおさまりました。その後、Kの態度はしだいに変わっていき、自分からケータイ番号も教えてくれるようになりました。
私は結局彼を1年間だけ担任し、異動で立川高校定時制に移ることを余儀なくされました。Kの担任を引き続きやりたいと校長に申し出ましたが、却下されたのです。
南多摩の最後、「2年になっても頑張れよ」とKにメールを送ると、返事など返って来た試しがなかったKから、「今まで1年間ありがとう」というメールが届きました。
それから3年が経ち、Kも無事卒業を迎えました。南多摩定時制の卒業式の時、私はKを始め卒業生に会いたくて出かけていきました。残念ながら元担任である私に招待状は来ませんでした。ですから式場には入れなかったのです。ここでも、あとで述べる10.23通達が暗い影を落としています。
でもKは、最後のHRが終わったあと、私が待機していた職員室に来ました。私の前に座り、「お久しぶりです。就職も決まりました」と挨拶をしてくれました。「不良」のレッテルを貼られてきたKの、別人のような姿がそこにはありました。Kの成長の姿、それはまさに教師の生きがいとも言えるものです。私は、Kと固く握手をして別れました。
このような多くの体験から学んだことは、生徒は様々な否定的な側面を持っているが、いつか必ず変わるという確信です。生徒一人一人の気持ちや考えをまずは受けとめ、そこから出発することの大切さです。生徒の発達は多様であるからこそ、教師は「伴走者」として生徒に寄り添っていかなければならないと痛感します。
定時制での卒業式の様子を述べたいと思います。
10.23通達以前の卒業式は素晴らしいものでした。一人一人が前に出て、校長から卒業証書を受け取ります。4年間、5年間、または6年を経て卒業を手にする生徒たちの喜びは全日制の比ではありません。卒業証書を高々と掲げるもの、ガッツポーズをするもの、また、在学中に生んだ子どもを抱えて証書をもらうもの、様々で、その姿に一人一人の人生が凝縮されるのです。
「卒業生の言葉」は卒業式のハイライトでした。自分が定持制に来て、自分の居場所が見つからず悩んたこと、その中でクラブやクラスでかけがえのない友だちができ、今は胸をはって卒業できることなどを切々と訴えるもので、心打つものばかりでした。
私たち教師は、自主的に卒業式の役割分担を決め、生徒の動きに合わぜて臨機応変に動きました。定時制では仕事の関係などで、卒業式であっても遅刻して参加するものが少なくありません。門のところで待ち受けて、遅れてきた生徒をすばやく席へ誘導することは大切な仕事でした。また、式場内で、子どもを抱えて卒業証書を取りに行く生徒の時は、一時的に子どもをあずかってあやしてあげたり、年配の方や車椅子の生徒の時は近くに行って介助したりしました。教師も保護者も心を合わせて彼らの卒業を祝うアットホームな雰囲気の式でした。
当時、「日の丸」が三脚に掲げられ、「君が代」も流されましたが、事前に教頭が、「立つ、立たない、歌う、歌わないは本人の自由であり、立たない、歌わないことによって不利益を生じることはありません」と生徒に説明していました。ですから、生徒達は自主的に判断することができたのです。しかし、2003年に10.23通達が出されるとともに、その説明も禁止されました。
2003年度、私は4年生の担任でした。10.23通達の下での初めての卒業式を迎えることになったのです。職務命令が出され、教師の自由な動きは禁止されました。ちょっとした自主的な動きも職務命令違反になるのではないか、処分が来るのではないかという恐れが、職場に重苦しい雰囲気を生みました。その中でもなんとか生徒たちは話し合いを重ね、自分たちの思い出に残る卒業式を実現しようとがんばりました。
卒業式当日、卒業生代表は、沖縄修学旅行で学んだことに触れつつ、4年間の高校生活を感動的に語りました。最後は、生徒たちが自主的にアンケートをとって決めた、森山直太朗の「さくら」を合唱し、締めくくりました。
しかし、「日の丸」が初めて正面に掲げられ、「君が代」斉唱時に起立を強制されました。都教委から派遣された職員は、校長よりも前の席に陣取り、挨拶の時は原稿を棒読みするだけでした。心が凍りつくような雰囲気に、違和感、不快感を持った生徒も多かったでしょう。
また、私と同じ学年団で、起立できなかった同僚は、式後生徒たちとゆっくり話をする場も奪われ、校長室に呼び出され事情聴取を受けました。担任の先生と最後の交流をしたくてもできなかった生徒たちは、一体どのような思いだったでしょうか。
その後私は立川高校定時制に移りましたが、10.23通達以後7年たった今でも、卒入学式では職務命令が出されます。教職員が皆起立すれば、生徒に対しても「起立せよ」という無言の圧力がかかります。この10.23通達は、生徒の自主的判断を許さず、最も大切にしなくてはいけない生徒の心を踏みにじることにつながっているのです。
Tさんという年配の女性が入学してきたことがありました。彼女は戦前は軍国少女だったのですが、戦後の民主的な流れの中で平和の貴さを実感してきた方です。戦後の混乱の中で高校に行けず、70歳になって定時制高校に入学してきたのです。
10.23通達が出てからの卒入学式に、彼女は在校生として何度か参加しました。その中で、「君が代」斉唱時、彼女は起立しませんでした。ある日、彼女が言うのです。「私は自分の体験からどうしても起立できないのです。でも、その度に一部の参加者や来賓の方が、ものすごい形相で私をにらむのです。怖くなります」と。
そのTさんは、病気がちな身体を引きずりながら何とか4年を過ごしましたが、「日の丸」「君が代」、及び周りの視線に耐えられないという理由で、4年間の締めくくりとなる自分の卒業式を欠席してしまいました。
定時制には外国にルーツを持つ生徒も数多く在籍しています。在日コリアンのある生徒は、「『君が代』が流れる場には居たくない」と言って、遅れて途中から卒業式に参加しました。彼らにとって、その行動は本当に辛い選択だったと思います。
私が今教えている生徒たちの中にも、中国やフィリピンなどにルーツを持つ生徒たち、さらに心に様々な傷やトラウマを抱えた生徒たちが増えています。彼らの心の中に乱暴に踏み込み、教員全員を一様に起立させて圧力をかけ、強制的に「君が代」を歌わぜるなど、決してあってはなりません。
10.23通達以降、喜びであるはずの卒入学式が来る度に、私は辛い思いに悩まされ、ノイローゼのようになります。
それに加え、教育の自由を奪う様々な動きの中で、早期退職を何度も考えました。
私が知っている教員の中にも、異常な締め付けの中で心身のバうンスを崩し、今の都立高校に絶望して教壇を去っていく人が絶えません。私の場合、毎年のように退職を考えながらも何とか踏みとどまったのは、生徒たちの姿にその都度励まされてきたからです。
ある女子生徒は、中学3年間一度も学校に行けませんでした。外出するのはコンビニだけ、あとは引きこもり状態でした。その彼女が定時制に来て友だちができ、今は皆勤で学校に来ています。
ある母子家庭の男子生徒はアルバイトをしたあと定時制で学び、授業が終わるとまた別のアルバイトに出かけ、深夜まで働きます。彼の健康が心配ですが、そうやって母親を必死で支えています。
また、80歳になる女性は、沖縄修学旅行に参加し、ひめゆり資料館で平和の大切さを噛みしめ、体験学習ではカヌーに挑戦、浮き具を身に付けて最後まで漕ぎきりました。成長・発遼していく生徒たちの姿は私たち教師の支えであり、希望です。彼らが理不尽な強制を受けることなく、自由な高校生活を全うし、民主的人格を築いて欲しい、その気持ちが私を何とか支えてきたのです。
退職を前にした今こそ、私は心から訴えたい。
10.23通達以降、あきらめと萎縮と無力感が現場を覆いつつあります。教育とは無縁であるべき上意下達と職務命令体制が作り出した、現代の「恐怖政治」です。
卒入学式で、処分を背景に毎年起立することを強制される、あげくに椅子の位置一つ決めるのにも都教委にお伺いをたてなければならない・・・一体これが学校でしょうか。本来の教育でしょうか。
教育は、生徒に一方的に教え込むことではなく、生徒からも学び、ともに生きる中で教師自身も成長していく営みです。それらは、圧力による強制からは実現できません。憲法違反の10.23通達が断罪・撤廃され、教師が生きがいを取り戻し、生徒が生き生きと活動する都立高校が再び案現することを、私は疼くような思いで願っています。
最後に、裁判官の方々には、38年にわたる私の教師としての思いを受けとめていただき、教育の再生につながる判決を、引き続き下していただきますよう、心からお願いする次第です。ありがとうございました。
◎ 定時制の生徒と共に歩んで
加藤良雄
被控訴人の加藤良雄と申します。私は1973年に教員に採用され、現在教員歴38年目で、来年の3月に定年退職を迎えます。最初の26年間は全日制高校に勤務し、その後、1999年に初めて定時制高校に移りました。南多摩高校定時制というところでした。
私が定時制で体験した初めての入学式のことは、今でも鮮明に覚えています。新入生代表の「誓いの言葉」は次のように始まりました。「私はこの場所に立っていることがまだ信じられません。つい数ヶ月前まで私は高校生だったからです。今日が、人生で二回目の高校の入学式なのです・・」それを聞いて私は驚かされました。全日制高校に進んだものの、挫折し退学、そして定時制高校に再入学してきた自分の歩みを、入学式という場で率直に表現していたからです。
定時制で教えてみて、価値観の転換を余儀なくされることがいくつもありました。全日制にいた時は、例えば文化祭では、全員の力で成功させることをホームルームの目標にしました。しかし、定時制ではむずかしいのです。そもそも、人間関係を作るのが下手で、共同作業が苦手な生徒が多いのです。無理やりやらせようとするとパニックを起こして学校に来なくなってしまいます。私は途中から方針を変え、生徒に「何かできることはある?」と聞くようにし、どうしてもやりたくないならそれ以上押しつけませんでした。
授業でも同じでした。私は英語を教えていますが、全日制の時は、「公平に接する」ことを基本とし、列ごとに順番にあてて、質問をしていきました。しかし、定時制でそれをすると、またもやパニックに陥る生徒が出ます。ほとんど授業に出たことがない不登校の生徒にとっては、公の場で自分が質問されることは、恐怖でしかないのです。そのこともわかってきて、機械的に生徒に質問をしていくことはやめました。
定時制に来る生徒たちの中には、教師と学校に対して不信感や敵意を持っているものが少なくありません。中学校で問題を起こし、「不良」のレッテルを貼られ、邪魔者扱いされた経験を待っているからです。
Kという男子生徒との出会いを少し述べます。Kの入学はいわくつきでした。Kは同じ南多摩高校定時制に1度入学をしたのですが、一年生の時に問題行動を起こし自ら退学した後、翌年、また入学してきたのです。再入学後のKは私の担任となりましたが、教師不信のかたまりでした。私がKに話しかけても、返ってくるのは「うるせえ、バカ、死ね」の三つの言葉だけでした。
ある日、「君のケータイの番号を教えてくれないか」とさりげなく言った時、Kから返ってきた言葉は、「何でお前に教えなきゃいけねえんだよ」でした。
そのKが、7月にある教師とトラブルを起こし、一触即発の状況になりました。私は、「K、落ちつけ!何のために二度入学したんだ!」と叫んで必死で割って入り、その場は何とかおさまりました。その後、Kの態度はしだいに変わっていき、自分からケータイ番号も教えてくれるようになりました。
私は結局彼を1年間だけ担任し、異動で立川高校定時制に移ることを余儀なくされました。Kの担任を引き続きやりたいと校長に申し出ましたが、却下されたのです。
南多摩の最後、「2年になっても頑張れよ」とKにメールを送ると、返事など返って来た試しがなかったKから、「今まで1年間ありがとう」というメールが届きました。
それから3年が経ち、Kも無事卒業を迎えました。南多摩定時制の卒業式の時、私はKを始め卒業生に会いたくて出かけていきました。残念ながら元担任である私に招待状は来ませんでした。ですから式場には入れなかったのです。ここでも、あとで述べる10.23通達が暗い影を落としています。
でもKは、最後のHRが終わったあと、私が待機していた職員室に来ました。私の前に座り、「お久しぶりです。就職も決まりました」と挨拶をしてくれました。「不良」のレッテルを貼られてきたKの、別人のような姿がそこにはありました。Kの成長の姿、それはまさに教師の生きがいとも言えるものです。私は、Kと固く握手をして別れました。
このような多くの体験から学んだことは、生徒は様々な否定的な側面を持っているが、いつか必ず変わるという確信です。生徒一人一人の気持ちや考えをまずは受けとめ、そこから出発することの大切さです。生徒の発達は多様であるからこそ、教師は「伴走者」として生徒に寄り添っていかなければならないと痛感します。
定時制での卒業式の様子を述べたいと思います。
10.23通達以前の卒業式は素晴らしいものでした。一人一人が前に出て、校長から卒業証書を受け取ります。4年間、5年間、または6年を経て卒業を手にする生徒たちの喜びは全日制の比ではありません。卒業証書を高々と掲げるもの、ガッツポーズをするもの、また、在学中に生んだ子どもを抱えて証書をもらうもの、様々で、その姿に一人一人の人生が凝縮されるのです。
「卒業生の言葉」は卒業式のハイライトでした。自分が定持制に来て、自分の居場所が見つからず悩んたこと、その中でクラブやクラスでかけがえのない友だちができ、今は胸をはって卒業できることなどを切々と訴えるもので、心打つものばかりでした。
私たち教師は、自主的に卒業式の役割分担を決め、生徒の動きに合わぜて臨機応変に動きました。定時制では仕事の関係などで、卒業式であっても遅刻して参加するものが少なくありません。門のところで待ち受けて、遅れてきた生徒をすばやく席へ誘導することは大切な仕事でした。また、式場内で、子どもを抱えて卒業証書を取りに行く生徒の時は、一時的に子どもをあずかってあやしてあげたり、年配の方や車椅子の生徒の時は近くに行って介助したりしました。教師も保護者も心を合わせて彼らの卒業を祝うアットホームな雰囲気の式でした。
当時、「日の丸」が三脚に掲げられ、「君が代」も流されましたが、事前に教頭が、「立つ、立たない、歌う、歌わないは本人の自由であり、立たない、歌わないことによって不利益を生じることはありません」と生徒に説明していました。ですから、生徒達は自主的に判断することができたのです。しかし、2003年に10.23通達が出されるとともに、その説明も禁止されました。
2003年度、私は4年生の担任でした。10.23通達の下での初めての卒業式を迎えることになったのです。職務命令が出され、教師の自由な動きは禁止されました。ちょっとした自主的な動きも職務命令違反になるのではないか、処分が来るのではないかという恐れが、職場に重苦しい雰囲気を生みました。その中でもなんとか生徒たちは話し合いを重ね、自分たちの思い出に残る卒業式を実現しようとがんばりました。
卒業式当日、卒業生代表は、沖縄修学旅行で学んだことに触れつつ、4年間の高校生活を感動的に語りました。最後は、生徒たちが自主的にアンケートをとって決めた、森山直太朗の「さくら」を合唱し、締めくくりました。
しかし、「日の丸」が初めて正面に掲げられ、「君が代」斉唱時に起立を強制されました。都教委から派遣された職員は、校長よりも前の席に陣取り、挨拶の時は原稿を棒読みするだけでした。心が凍りつくような雰囲気に、違和感、不快感を持った生徒も多かったでしょう。
また、私と同じ学年団で、起立できなかった同僚は、式後生徒たちとゆっくり話をする場も奪われ、校長室に呼び出され事情聴取を受けました。担任の先生と最後の交流をしたくてもできなかった生徒たちは、一体どのような思いだったでしょうか。
その後私は立川高校定時制に移りましたが、10.23通達以後7年たった今でも、卒入学式では職務命令が出されます。教職員が皆起立すれば、生徒に対しても「起立せよ」という無言の圧力がかかります。この10.23通達は、生徒の自主的判断を許さず、最も大切にしなくてはいけない生徒の心を踏みにじることにつながっているのです。
Tさんという年配の女性が入学してきたことがありました。彼女は戦前は軍国少女だったのですが、戦後の民主的な流れの中で平和の貴さを実感してきた方です。戦後の混乱の中で高校に行けず、70歳になって定時制高校に入学してきたのです。
10.23通達が出てからの卒入学式に、彼女は在校生として何度か参加しました。その中で、「君が代」斉唱時、彼女は起立しませんでした。ある日、彼女が言うのです。「私は自分の体験からどうしても起立できないのです。でも、その度に一部の参加者や来賓の方が、ものすごい形相で私をにらむのです。怖くなります」と。
そのTさんは、病気がちな身体を引きずりながら何とか4年を過ごしましたが、「日の丸」「君が代」、及び周りの視線に耐えられないという理由で、4年間の締めくくりとなる自分の卒業式を欠席してしまいました。
定時制には外国にルーツを持つ生徒も数多く在籍しています。在日コリアンのある生徒は、「『君が代』が流れる場には居たくない」と言って、遅れて途中から卒業式に参加しました。彼らにとって、その行動は本当に辛い選択だったと思います。
私が今教えている生徒たちの中にも、中国やフィリピンなどにルーツを持つ生徒たち、さらに心に様々な傷やトラウマを抱えた生徒たちが増えています。彼らの心の中に乱暴に踏み込み、教員全員を一様に起立させて圧力をかけ、強制的に「君が代」を歌わぜるなど、決してあってはなりません。
10.23通達以降、喜びであるはずの卒入学式が来る度に、私は辛い思いに悩まされ、ノイローゼのようになります。
それに加え、教育の自由を奪う様々な動きの中で、早期退職を何度も考えました。
私が知っている教員の中にも、異常な締め付けの中で心身のバうンスを崩し、今の都立高校に絶望して教壇を去っていく人が絶えません。私の場合、毎年のように退職を考えながらも何とか踏みとどまったのは、生徒たちの姿にその都度励まされてきたからです。
ある女子生徒は、中学3年間一度も学校に行けませんでした。外出するのはコンビニだけ、あとは引きこもり状態でした。その彼女が定時制に来て友だちができ、今は皆勤で学校に来ています。
ある母子家庭の男子生徒はアルバイトをしたあと定時制で学び、授業が終わるとまた別のアルバイトに出かけ、深夜まで働きます。彼の健康が心配ですが、そうやって母親を必死で支えています。
また、80歳になる女性は、沖縄修学旅行に参加し、ひめゆり資料館で平和の大切さを噛みしめ、体験学習ではカヌーに挑戦、浮き具を身に付けて最後まで漕ぎきりました。成長・発遼していく生徒たちの姿は私たち教師の支えであり、希望です。彼らが理不尽な強制を受けることなく、自由な高校生活を全うし、民主的人格を築いて欲しい、その気持ちが私を何とか支えてきたのです。
退職を前にした今こそ、私は心から訴えたい。
10.23通達以降、あきらめと萎縮と無力感が現場を覆いつつあります。教育とは無縁であるべき上意下達と職務命令体制が作り出した、現代の「恐怖政治」です。
卒入学式で、処分を背景に毎年起立することを強制される、あげくに椅子の位置一つ決めるのにも都教委にお伺いをたてなければならない・・・一体これが学校でしょうか。本来の教育でしょうか。
教育は、生徒に一方的に教え込むことではなく、生徒からも学び、ともに生きる中で教師自身も成長していく営みです。それらは、圧力による強制からは実現できません。憲法違反の10.23通達が断罪・撤廃され、教師が生きがいを取り戻し、生徒が生き生きと活動する都立高校が再び案現することを、私は疼くような思いで願っています。
最後に、裁判官の方々には、38年にわたる私の教師としての思いを受けとめていただき、教育の再生につながる判決を、引き続き下していただきますよう、心からお願いする次第です。ありがとうございました。
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