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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

高校学習指導要領改訂と教科書<4>

2019年04月13日 | こども危機
  =高校学習指導要領改訂と教科書(出版労連 教科書レポート) 2 各教科ごとの分析=
 ◆ (3)公民科の特徴


 1.戦後民主教育の象徴「高校社会科」最終的解体を目論む公民科改悪
 公民科の文字量も、現状の倍近い。「大綱的基準」などといえる量ではない。
 地歴科では「世界史」という科目名が消え、公民科では「現代社会」が消え、「公共」が新設された。
 また、公民科には、道徳教育への配慮が強制された(「高等学校学習指導要領解説公民編」p.10)。
 地歴科をコピペしたかのように、「技能を身に付ける」「議論する力を養う」「多面的多角的に考察」「思考力」「判断力」「表現力」などの術語が並ぶ。これらは、授業や教科書づくりに多大な影響を及ぼすだろう。
 公民科では、それ以上に次期学習指導要領の特徴として、戦後民主教育の特色の一つである「高校社会科」の最終的解体につながる可能性を強く指摘せざるをえないという観点を挙げておく。
 そもそも「(戦後)……特に新しい科目として登場した社会科家庭科……などは、指導の基準となるものがなくては、授業を始めることができなかった。(昭和)二十二年春に学習指導要領一般編を配布し、続いて各教科別の学習指導要領をつくった。しかしこの指導要領の作成はわが国においてはじめてのことであり、…暫定のものとして急いで編集してまとめた。その際にアメリカ各州のコース・オブ・スタディも参考に」(文部科学省ホームページ「学制百年史」より抜粋)してはじまったのが、「公民科」の淵源である。
 当初の「高校社会科」は、「一般社会」・「人文地理」・「東洋史」・「西洋史」・「時事問題」という科目構成であった。
 文部省(当時)も学校現場も教科書執筆者・編集者も、「社会科」の具体的な内容およびその編成・指導法について試行錯誤を重ねた。現場は混乱した。
 つまりは、戦前教育下の「修身」「歴史」「地理」の呪縛が強固であり、そこからの解放は容易ではなかったということだ。また、支配層からは(アメリカの模倣では)日本社会の現実を無視しているとの批判も出た。
 文部省は、社会科の基本的なねらい、すなわち憲法・教育基本法〈1947年法〉に依拠し、民主的で平和的な国家・社会の形成者として必要な資質の育成は正しいとしながらも、学習指導要領の不備を認めて、改訂に着手した。
 「国史」は「日本史」となり、「西洋史」でも「東洋史」でもない「世界史」が設けられた。
 「人文地理」は自然地理も内容とする「地理」へと編成された。
 「一般社会」と「時事問題」は「倫理社会」と「政治経済」へと再編された。

 1951(昭和26)年改訂以降、学習指導要領は、ほぼ10年ごとに改訂されてきた。改訂の度に出発時の民主教育の精神は希薄化していったが、現場の実践および教科書づくりが、「教え子を戦場に送らない」社会科を構築してきた
 78年度改訂は、そうした現場・教科書の実践を抑止することをめざすものだった。社会科公民分野に「現代社会」が新設されたのである。
 「現代社会」は、1年生の必修科目(4単位)とされた。それまで必修だった「倫理社会」「政治経済」(いずれも2単位)は、2・3年生の選択科目に格下げされた。
 引き続いて通史を学ばない日本史A・世界史A(いずれも2単位)が導入されるなど「社会科解体」が順次強行されてきた。
 それでも学校現場も教科書づくりも、戦後教育の象徴である社会科の実践・蓄積を生かし、「解体」の思惑を換骨奪胎する努力をしてきた。
 次期学習指導要領は、とりわけ公民科については、上記のような戦後民主教育・社会科の実践・成果・流れを途絶させ、こともあろうに公民科に義務教育における「特別の教科道徳」の役割を担わせようとしている(p.28)。
 2.「現代社会」の40年間を踏まえ、公民科改悪を乗り越える教科書づくりを
 40年前、「現代社会」の初めての教科書検定は、不合格こそなかったが、異例であった。ほとんどすべての白表紙本に、長時間にわたり多数の修正・改善指示がなされた。A5判400ページの白表紙本に、のべ15時間におよぶ指示が言い渡された例があったという。
 ただ、いまの検定制度と決定的に異なるのは、長時間・多数の指示≒検閲的検定であったとしても、その指示への対応を条件として検定「合格」であったということだ。(『教科書レポートNo.25』など参照)。
 新設「公共」は、「現代社会」と比較対照されている(文科省ウェブサイト参照)。
 特徴の一つは、「公共」には「日本国憲法」という文字がないことだ。「憲法の下、適正な手続き…」「…社会は、憲法の下、個人が…」という文言はあるが。
 「現代社会」でしばしば話題となった「畏敬の念」は、「公共」では「個人や社会全体の幸福」とか「公共空間」という文字に変換されている。
 「公共」は、「倫理」「政治経済」の内容と重複しつつ、学習者が「現実社会」で「自立した主体として活動するために必要な情報を適切かつ効果的に収集し、読み取り、まとめ…」「…具体的な主題を設定し、合意形成や社会参加を視野に入れながら、……協働して考察……表現」することを求めている。
 背景には、投票権年齢、成年年齢の動きがある。

 だが「解説」では、上記について「自身が置かれている環境や立場を踏まえ、主体的に判断しながら、自分を社会の中でどのように位置づけ、社会をどう描くかを考え、他者と一緒に生き、課題を解決していく「人物像」が想定されている」などと解釈されている。
 一見妥当に見えるが、憲法の軽視がはなはだしく、批判を免れない。

 戦後の教育実践で練磨されてきた高校社会科各科目の最終到達点は、日本国憲法の基本諸原則・立憲主義・基礎的経済理論の理解である。
 ところが次期学習指導要領は、そうした戦後社会科教育の蓄積・実績から生徒を遠ざけ、ひたすら現状に従順で「どのように社会・世界と関わり、より良い人生を送るか」を目指すべき資質・能力とする。
 穿ちすぎかもしれないが、日本国憲法はもうすぐ改憲だし、現状・現実は素直に(無批判に)受け容れ、グローバル経済やメガコンペティションに勝ち抜く経済戦士になってほしいというところが本音ではないか。
 教科書づくり・授業づくりは、次期学習指導要領の目論み、PISA型学習・「人材」育成の本質を洞察し、あるべき姿を追求すべきだろう。
 ただし、検定制度や学校の管理制度は、切れ目なく、詳細な監視・統制機能を持っている。教科書づくりでは、「不合格」にできないというハードルもある。
 「自粛」「従順」不可避の実態の中で、どれだけ日本国憲法の理念を伝える教科書づくり・授業を実践できるか。正念場だ。
『出版労連 教科書レポート No.61』(2018)

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