☆★☆ 「君が代」強制反対に刑事罰!? ☆★☆
◇ 結審 3月13日(木)13:30~東京高裁102号法廷
最終弁論(弁護側、検察側とも60分)があり、結審します。
非常識の逆風に抗して一人立ち向かう藤田さんを孤立させないご支援を!
「表現の自由は、校門の前で立ち止まることはない」
(米連邦最高裁ティンカー判決)
「羊蹄の夜明け」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
一 ティンカー事件判決(1969年2月24日、連邦最高裁判所)
Tinker v. Des Moines Community School District, 393 U.S. 503,(1969)
[学校での抗議の意思表示の自由に関係する事例]
アイオワ州の公立学校の高校生のジョン・F・ティンカー、クリストファー・エックハート、中学生のメアリ-・ベス・ティンカーたちは、1965年、ヴェトナム戦争への抗議の意志表示のために黒腕章を着けて登校したことで、学校当局から停学処分にされた。彼らとその親たちは、その懲戒処分の禁止の差止命令と名目的損害賠償を求めて提訴した。
(略)
連邦最高裁判所は、7対2で、生徒側勝訴の判決を出した。法廷意見はフォータス裁判官が執筆し、これにステュワート裁判官、ホワイト裁判官の各補足意見が付された。ブラック裁判官とハーラン裁判官がそれぞれ反対意見を執筆した。
〔法廷意見〕
本件の状況での腕章着用は、その者たちによる現実的または潜在的な妨害行為と全く異なっていた。それは、連邦憲法修正第1条下で包括的に保護される権利であると我々が繰り返し判示してきた、あの「純粋な言論(pure speech)」に近似していた。
学校という特定の環境に照らして適用される修正第1条は、教師と生徒に利用され得る。「生徒か教師のいずれかが、言論ないし表現の自由に対する自分たちの憲法上の権利を校門のところで打ち捨ててくる、と主張されることはまずできない。これは、これまでほぼ50年間、当法廷の判断であった」(下線、筆者)。他方で、当法廷は、憲法上の基本的な権利保障条項と一致する範囲内で、州と学校当局が学校での行為について規定・管理する包括的な権限の必要性も強調してきた。問題は、生徒が修正第1条の権利の行使において、学校当局の規則と衝突する領域にある。
本件は、生徒のスカートの長さとか衣服の種類とか、更にはヘア・スタイルとか品行に関わるものではない。また、攻撃的、妨害的な行為とか集団的デモンストレーションに関係するものでもない。本件の問題は、「純粋な言論」に類似の修正第1条上の直接的で主要な権利に関わるものである。
学校当局は、原告の側からの混乱とか妨害を伴わない、静かで受動的な意見表明を理由として原告の処罰を試みた。本件には、原告が学校業務に実際に干渉したとかまたは干渉しようとしたとか、あるいは原告の行為が他の生徒の権利と衝突したとかのいかなる証拠もない。よって、本件は、学校業務や他の生徒の権利を侵害する言論ないし行為とは関係ない。
第一審の連邦地裁は、学校当局の行為は、腕章の着用による混乱の恐れがあったので合理的であったと結論づけた。「しかし、我々の制度の下では、特定化されない恐れまたは混乱の懸念は、表現の自由の権利を負かすには不十分である。絶対的な統制からの逸脱はいかなるものも、トラブルを引き起こす可能性がある。マジョリティの意見からの変異はいかなるものも、恐れをかき立てる可能性がある。教室で、食堂で、またはキャンパスで話される、他の人の見解から外れたいかなる言葉も、争論の発端となったり、もしくは混乱を引き起こしたりする可能性がある。だが、我々がこのリスクを引き受けなければならないことを、我々の憲法は語っている」。「また、我々の歴史は、我々の国民的強さの基盤であり、かつ比較的に自由で、しばしば論争的な社会で成長し生活するアメリカ人の独立心と活力の基盤は、こうした危険を恐れない自由であり開放性である、と語っている」。
州が特定の意見表明の禁止を正当化するためには、「その禁止が、不人気の見解に常に伴う単なる不快さ、嫌悪以上のものによってもたらされていることを立証できなければならない」。前記のバーンサイド事件の第五巡回区控訴裁判所が判示したように、禁止された行為を行うことが「学校運営において適切な紀律の要求に物理的かつ実質的に干渉することになる」という事実認定と立証がない場合には、その禁止は支持されることはできない。本件では、連邦地裁はこのような事実認定を何もしなかったし、当法廷の独自の記録審査によっても、腕章の着用が実質的に学校の業務に干渉したり他の生徒の権利を侵害したりすることを予期する理由を学校当局が有していたという証拠を見出すことはできない。逆に、学校当局の行為は、ヴェトナム戦争反対の「沈黙のシンボルたる腕章によって惹起されるかもしれない争論を回避しようとする緊急の願望に基づいていたように思われる」。
また、「学校当局は、政治的意味ないし論争的意味をもつあらゆるシンボルの着用の禁止を意図していなかった」。記録によれば、一部の学校の生徒は国家的な政治的キャンペーンと関係するボタンを着用していたし、なかには伝統的にナチズムのシンボルである鉄十字を着用さえしていた。だが、これらの禁止は命じられなかった。ヴェトナム戦争反対を示す黒腕章のみが禁止の対象として選び出されたのである。明らかに、一つの特定の意見の表現の禁止は、少なくとも学校業務とか紀律への物理的かつ実質的な干渉を回避する必要があるという証拠がない場合には、憲法的に許容され得るものではない。
「我々の制度の下では、州運営の学校が全体主義の飛び地(enclaves of totalitarianism)であってはならない。学校当局者は生徒たちに対して絶対的な権力を有していない。生徒たちは、学校の内でも外でも、我々の憲法の下での『人(persons)』である。生徒たちは、州への義務を尊重しなければならないのと同様に、州が尊重しなければならない基本的権利を所有している。我々の制度の下では、生徒たちは、州が伝えるために選んだことのみを受け取る閉回路の受取人(closed-circuit recipients)と見なされてはならない。生徒たちは、公的に認められた考えの表現のみに限定されてはならない。言論を規制する憲法上の有効な理由を特に立証することが欠けている場合は、生徒たちはその考えを表現する自由を有する」。
「生徒たちの間での人格的な相互交流」は、「学校に出席するプロセスの不可避的な部分であるだけでなく、それはまた教育上のプロセスの重要な部分である」。生徒は、正規の学校時間中、食堂とか運動場とかキャンパスとかで、「学校運営において適切な紀律の要求に物理的かつ実質的に干渉したり」、他人の権利を侵害したりすることがなければ、ヴェトナム戦争のような論争的な問題についてさえ、自分の意見を表現することができる。
「表現の自由は、もしその権利が、慈悲深い政府が風変わりな人に対する安全な避難所(a safe haven)として提供した場所においてのみで行使され得るものであるならば、真に存在しているとは言えないであろう」。
原判決の破棄、差し戻しを命じる。
(予防訴訟土屋英雄教授意見書より)
◇ 結審 3月13日(木)13:30~東京高裁102号法廷
最終弁論(弁護側、検察側とも60分)があり、結審します。
非常識の逆風に抗して一人立ち向かう藤田さんを孤立させないご支援を!
「表現の自由は、校門の前で立ち止まることはない」
(米連邦最高裁ティンカー判決)
「羊蹄の夜明け」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
一 ティンカー事件判決(1969年2月24日、連邦最高裁判所)
Tinker v. Des Moines Community School District, 393 U.S. 503,(1969)
[学校での抗議の意思表示の自由に関係する事例]
アイオワ州の公立学校の高校生のジョン・F・ティンカー、クリストファー・エックハート、中学生のメアリ-・ベス・ティンカーたちは、1965年、ヴェトナム戦争への抗議の意志表示のために黒腕章を着けて登校したことで、学校当局から停学処分にされた。彼らとその親たちは、その懲戒処分の禁止の差止命令と名目的損害賠償を求めて提訴した。
(略)
連邦最高裁判所は、7対2で、生徒側勝訴の判決を出した。法廷意見はフォータス裁判官が執筆し、これにステュワート裁判官、ホワイト裁判官の各補足意見が付された。ブラック裁判官とハーラン裁判官がそれぞれ反対意見を執筆した。
〔法廷意見〕
本件の状況での腕章着用は、その者たちによる現実的または潜在的な妨害行為と全く異なっていた。それは、連邦憲法修正第1条下で包括的に保護される権利であると我々が繰り返し判示してきた、あの「純粋な言論(pure speech)」に近似していた。
学校という特定の環境に照らして適用される修正第1条は、教師と生徒に利用され得る。「生徒か教師のいずれかが、言論ないし表現の自由に対する自分たちの憲法上の権利を校門のところで打ち捨ててくる、と主張されることはまずできない。これは、これまでほぼ50年間、当法廷の判断であった」(下線、筆者)。他方で、当法廷は、憲法上の基本的な権利保障条項と一致する範囲内で、州と学校当局が学校での行為について規定・管理する包括的な権限の必要性も強調してきた。問題は、生徒が修正第1条の権利の行使において、学校当局の規則と衝突する領域にある。
本件は、生徒のスカートの長さとか衣服の種類とか、更にはヘア・スタイルとか品行に関わるものではない。また、攻撃的、妨害的な行為とか集団的デモンストレーションに関係するものでもない。本件の問題は、「純粋な言論」に類似の修正第1条上の直接的で主要な権利に関わるものである。
学校当局は、原告の側からの混乱とか妨害を伴わない、静かで受動的な意見表明を理由として原告の処罰を試みた。本件には、原告が学校業務に実際に干渉したとかまたは干渉しようとしたとか、あるいは原告の行為が他の生徒の権利と衝突したとかのいかなる証拠もない。よって、本件は、学校業務や他の生徒の権利を侵害する言論ないし行為とは関係ない。
第一審の連邦地裁は、学校当局の行為は、腕章の着用による混乱の恐れがあったので合理的であったと結論づけた。「しかし、我々の制度の下では、特定化されない恐れまたは混乱の懸念は、表現の自由の権利を負かすには不十分である。絶対的な統制からの逸脱はいかなるものも、トラブルを引き起こす可能性がある。マジョリティの意見からの変異はいかなるものも、恐れをかき立てる可能性がある。教室で、食堂で、またはキャンパスで話される、他の人の見解から外れたいかなる言葉も、争論の発端となったり、もしくは混乱を引き起こしたりする可能性がある。だが、我々がこのリスクを引き受けなければならないことを、我々の憲法は語っている」。「また、我々の歴史は、我々の国民的強さの基盤であり、かつ比較的に自由で、しばしば論争的な社会で成長し生活するアメリカ人の独立心と活力の基盤は、こうした危険を恐れない自由であり開放性である、と語っている」。
州が特定の意見表明の禁止を正当化するためには、「その禁止が、不人気の見解に常に伴う単なる不快さ、嫌悪以上のものによってもたらされていることを立証できなければならない」。前記のバーンサイド事件の第五巡回区控訴裁判所が判示したように、禁止された行為を行うことが「学校運営において適切な紀律の要求に物理的かつ実質的に干渉することになる」という事実認定と立証がない場合には、その禁止は支持されることはできない。本件では、連邦地裁はこのような事実認定を何もしなかったし、当法廷の独自の記録審査によっても、腕章の着用が実質的に学校の業務に干渉したり他の生徒の権利を侵害したりすることを予期する理由を学校当局が有していたという証拠を見出すことはできない。逆に、学校当局の行為は、ヴェトナム戦争反対の「沈黙のシンボルたる腕章によって惹起されるかもしれない争論を回避しようとする緊急の願望に基づいていたように思われる」。
また、「学校当局は、政治的意味ないし論争的意味をもつあらゆるシンボルの着用の禁止を意図していなかった」。記録によれば、一部の学校の生徒は国家的な政治的キャンペーンと関係するボタンを着用していたし、なかには伝統的にナチズムのシンボルである鉄十字を着用さえしていた。だが、これらの禁止は命じられなかった。ヴェトナム戦争反対を示す黒腕章のみが禁止の対象として選び出されたのである。明らかに、一つの特定の意見の表現の禁止は、少なくとも学校業務とか紀律への物理的かつ実質的な干渉を回避する必要があるという証拠がない場合には、憲法的に許容され得るものではない。
「我々の制度の下では、州運営の学校が全体主義の飛び地(enclaves of totalitarianism)であってはならない。学校当局者は生徒たちに対して絶対的な権力を有していない。生徒たちは、学校の内でも外でも、我々の憲法の下での『人(persons)』である。生徒たちは、州への義務を尊重しなければならないのと同様に、州が尊重しなければならない基本的権利を所有している。我々の制度の下では、生徒たちは、州が伝えるために選んだことのみを受け取る閉回路の受取人(closed-circuit recipients)と見なされてはならない。生徒たちは、公的に認められた考えの表現のみに限定されてはならない。言論を規制する憲法上の有効な理由を特に立証することが欠けている場合は、生徒たちはその考えを表現する自由を有する」。
「生徒たちの間での人格的な相互交流」は、「学校に出席するプロセスの不可避的な部分であるだけでなく、それはまた教育上のプロセスの重要な部分である」。生徒は、正規の学校時間中、食堂とか運動場とかキャンパスとかで、「学校運営において適切な紀律の要求に物理的かつ実質的に干渉したり」、他人の権利を侵害したりすることがなければ、ヴェトナム戦争のような論争的な問題についてさえ、自分の意見を表現することができる。
「表現の自由は、もしその権利が、慈悲深い政府が風変わりな人に対する安全な避難所(a safe haven)として提供した場所においてのみで行使され得るものであるならば、真に存在しているとは言えないであろう」。
原判決の破棄、差し戻しを命じる。
(予防訴訟土屋英雄教授意見書より)
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