▲ 人報連シンポジウム「裁判員制度と犯罪報道」
殺人、強姦致死など重大な犯罪のみを対象として来年5月21日裁判員制度がスタートする。11月28日には裁判員候補への通知の発送が始まった。一方「レ・ミゼラブル」のような冤罪事件は富山の連続婦女暴行事件をはじめいまでも実際に起きている。さらに冤罪づくりに加担する犯罪報道の問題もある。問題が山積しているなか、新潟県弁護士会、社民党、共産党は制度の見直しや実施の延期を求めている。
11月22日(土)午後、水道橋・東京学院で人権と報道・連絡会の第24回シンポジウム「裁判員制度と犯罪報道」が開催された。
司会の山口正紀さん(人権と報道・連絡会世話人)から「裁判員制度は司法制度改革だというが、司法制度にいったいどういう問題があるのか議論されないまま、とにかく市民が参加すればよいという方向で進んでいる。またマスコミ報道が裁判員にどういう影響を与えるか、犯人視したまま裁判をするとどうなるのかという問題意識をもってこのシンポジウムを行う」と趣旨説明があった。
▲ 志布志事件・冤罪被害者 川畑幸夫さん
2003年4月鹿児島県議選のあと、突然、朝8時前に志布志署に任意同行ではあったが連行された。警察の裏口から狭い部屋に入れられ身体検査され、「ビールを配ったと認めろ」と刑事2対1で迫られた。食事は出されたがとてもノドを通らない。
夜遅く帰宅し知人の刑事に電話で相談すると「してないならそれで通したほうがいい。一度認めたら大変なことになる」とアドバイスされた。2日目も「とにかく認めろ」の一点張りだった。向こうが都合が悪くなると机をドーンとたたく。昼ごろ頭痛がひどくなり病院に連れて行ってもらった。3日目も頭痛がひどくなったが病院には連れて行ってもらえなかった。このまま倒れると大変なことになると思い「弁護士の先生を呼んでください。お願いしまあす」と2回叫んだあと一言もしゃべらないことにした。そして午後3時ごろ踏み字となった。刑事が3枚の紙に、父の名と「お父さんはそういう息子に育てた覚えはない」、妻の父の名と「元警察官の娘をそういう婿にやった覚えはない」、結婚して沖縄に住む娘の名と「早くやさしいじいちゃんになってください」と書き、踏ませた。
わたしは「一度認めたら大変なことになる」という言葉を心の支えに頑張れた。それで不起訴ですんだ。しかし被買収容疑を問われた近所の人は「自白」を強要され13人が起訴された。07年2月全員無罪の判決(1人は公判中に死亡)が下った。
▲ 同志社大学教授 浅野健一さん
この事件では、川畑さんが日弁連に訴え出たのをきっかけにテレビ朝日「ザ・スクープ」のディレクターが現地取材をして「こんなところで現金191万円も配るはずはない」と考え05年2月に番組をつくった。また朝日新聞も赴任したばかりの鹿児島総局長が起訴状に買収会合の日時が特定されていないことに気づき「これはおかしい」と記者に徹底取材をさせた。鹿児島読売テレビのキャスターも取材を始めた。こうして冤罪だという報道が始まったが、それは事件から2年たってからだった。地元では住民が03年8月に「住民の人権を考える会」を立ち上げたのに、集会の報道はまったくされなかった。それどころか地元の公民館長と南日本新聞志布志支局長が中山信一県議に「選挙違反を認めろ」と説得までしている。このときその模様を奥さんがテープ録音していた。冤罪を作り出すことにメディアが加担した典型ともいえる。
▲ 立命館大学大学院准教授 渕野貴生さん
このケースで捜査当局は、物証を探すのでなく当局がつくったストーリーに当てはまるよう自白させる手法を取っている。真実を発見する目的に沿わない手法だ。任意同行は刑事訴訟法の条文上では拒否できる。しかしそうなっていない。それは最高裁の判例に「相手方の意思を制圧していなければ、有形力を行使しても任意処分の範囲内」とあるからだ。まして有形力を行使しない説得なら長時間に及んでもかまわないと捜査当局は解釈している。これは黙秘権という権利の侵害にも当たると考える。
川畑 わたしは身に覚えのないことで自白を強要され踏み字までさせられた。それをはらすのに民事裁判を起こし3年かかった。しかし取調べの全面可視化が実現すれば1か月か2か月で終わる。裁判で警察は踏み字は1回と言いこちらは10回と主張したが、それも全面可視化すればどちらが本当かすぐ判明する。わたしはワゴン車を買い九州全域で全面可視化実現のキャンペーンを続けている。すでに2万5000キロ走り、行っていないのは長崎、佐賀だけになった。
▲ 後半は裁判員制度の話に移った。
渕野 アメリカの陪審員制度は徹底した市民参加システムになっている。事実認定は陪審員のみが行い職業裁判官は進行役に徹する。ドイツの参審員制度は労組などから推薦された人が一定期間いくつもの裁判に携わる。裁判官は事実認定、量刑ともに参審員と一緒に考える。つまり、市民が専門性をもって裁判に関わる。日本の裁判員制度は1回限りという点はアメリカと同じだ。裁判官は事実認定、量刑ともに関わる。
裁判員制度の大きな問題として公判前整理手続きがある。この制度により検察側は証拠の開示を行う。いままでより開示範囲は広がったがすべて開示するわけではない。証拠を開示させるかどうかは裁判官が決定する。その証拠が重要か、防御に必要か、罪障隠滅の恐れがないか、など裁判官の裁量に任される部分が大きい。
この手続きでは弁護側は何らかの主張を行うことを義務付けられており、公判に入ってから新たな主張をすることは原則としてできない。問題は弁護側の主張を聞いて検察が補充捜査を行い弱点を補強できることだ。検察のより強くなった立証に弁護側が再反論すると、それを聞いてますます検察は主張を補強できる。弁護側が検察にアドバイスしているようなものだ。公判で裁判員は検察の完成された美しい主張しか聞かないことになる。それを被告側が裁判で崩すことは難しい。
最後に評議の段階での裁判官の説示の問題がある。裁判官が無罪推定の原則を貫くかたちで評議をコントロールするかどうか、「検察の主張は、はじめはグラグラした弱いものだった」と説明するかどうか、たまたま裁判員が疑問点を発見してもそれを有罪方向に導くかどうかは、その裁判官次第である。
運用と制度は違うという人もいる。しかし制度の議論をするときには、制度自体がもつリスクを予め除去しておく必要がある。
証拠開示を拡充させ、弁護側の公判での新たな主張を許容し、検察の主張強化を防ぐ制度に修正すべきだ。最低限でも、補充捜査は禁止すべきである。
▲ 最後に、犯罪報道と裁判の話になった。
川畑 03年6月4日中山県議が逮捕され、大きく報道された。警察発表を鵜呑みにした内容だった。書くならちゃんと現場に行き、見たり聞いたりしてからでも遅くない。ちゃんと裏を取ってから新聞に書いたりテレビに出してほしい。報道されると世間の人は「やはりやっていたのか」と思う。警察は神様のように思われているので、いまだに「やってないのに逮捕されたりしない」と言われる。
渕野 報道により逮捕時点で有罪のイメージが植え付けられる。職業裁判官は「証拠だけに基づき事実認定するトレーニングを受けている」というが、アメリカの模擬裁判による実験では、強い予断を与えるほど判決に影響を与えるという結果が出ている。
予断を与えないためには、刑事裁判のなかで何とかする方法、たとえば裁判の場所を変更する方法があるが、全国的に報道された大事件では意味がない。そこで報道の仕方を何とかする方法が考えられる。アメリカでは被疑者の前科、自白、ポリグラフにかけたかどうかとその結果を報道しないルールがある。
日本では自白内容を報道しないことはありえない。せめて自白がどういうプロセスで出てきたのか報道してほしい。また次の提言をしたい。
1 記事内容を全面的に信頼してはいけないと警告を付けて報道すること
2 前科を書かない
3 識者のコメントを安易に出さない。とくに心理学者のコメントは、犯人であることを前提にして、成育歴を含むことが多いので犯人視のリスクが大きい。
4 被害者のコメント。「厳罰に処してほしい」など被疑者への犯人視が強烈だ。確たる情報に基づいているわけではないので「もし犯人であるなら」といった留保が必要だ。
浅野 2003年に司法制度改革本部は裁判員法案に偏向報道禁止条項を用意していたが、メディア業界が自主的な指針づくりをすると表明したため、削除された。そのとき新聞協会や民放連は自主的な指針、指標づくりを表明した。ところが今年1月に発表された新聞協会の指針は、人権にも配慮するという程度のもので「加盟各社は必要な努力をする」というものだ。これでは意味がない。雑誌協会はもっとひどく「新たなルールづくりは必要と考えていない」としている。裁判員制度実施後に法規制をもたらしたらどう責任を取るつもりなのか。10年も前の1997年に新聞労連が発表した「新聞人の良心宣言」を下敷きに、犯罪報道の匿名原則(公人を除く)や報道評議会を実現させてほしい。いまが最後のチャンスだ。
☆昨年11月のこの会のシンポジウムのテーマは「刑事裁判の被害者参加と報道」だった。吉村真性さん(龍谷大学矯正・保護研究センター)のお話で、日本の裁判員制度は陪審員制、参審員制の悪いところだけ集めたような制度であることがわかった。
今年の渕野さんのお話でその点がますますはっきりしたが、その他、裁判員があずかり知らぬ公判前整理手続きにきわめて大きな問題が潜んでいることがわかった。自白重視の捜査手法で生まれた冤罪は、マスコミ報道と公判前整理手続きで強固になる。予断に満ちた職業裁判官と検察の強固な主張のもので裁判員は正しい判断を下せるものだろうか。
制度設計の段階で、リスクを取り除くべく努力すべきという渕野さんの話は説得力があった。
『多面体F』集会報告より(2008年11月28日)
http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/
殺人、強姦致死など重大な犯罪のみを対象として来年5月21日裁判員制度がスタートする。11月28日には裁判員候補への通知の発送が始まった。一方「レ・ミゼラブル」のような冤罪事件は富山の連続婦女暴行事件をはじめいまでも実際に起きている。さらに冤罪づくりに加担する犯罪報道の問題もある。問題が山積しているなか、新潟県弁護士会、社民党、共産党は制度の見直しや実施の延期を求めている。
11月22日(土)午後、水道橋・東京学院で人権と報道・連絡会の第24回シンポジウム「裁判員制度と犯罪報道」が開催された。
司会の山口正紀さん(人権と報道・連絡会世話人)から「裁判員制度は司法制度改革だというが、司法制度にいったいどういう問題があるのか議論されないまま、とにかく市民が参加すればよいという方向で進んでいる。またマスコミ報道が裁判員にどういう影響を与えるか、犯人視したまま裁判をするとどうなるのかという問題意識をもってこのシンポジウムを行う」と趣旨説明があった。
▲ 志布志事件・冤罪被害者 川畑幸夫さん
2003年4月鹿児島県議選のあと、突然、朝8時前に志布志署に任意同行ではあったが連行された。警察の裏口から狭い部屋に入れられ身体検査され、「ビールを配ったと認めろ」と刑事2対1で迫られた。食事は出されたがとてもノドを通らない。
夜遅く帰宅し知人の刑事に電話で相談すると「してないならそれで通したほうがいい。一度認めたら大変なことになる」とアドバイスされた。2日目も「とにかく認めろ」の一点張りだった。向こうが都合が悪くなると机をドーンとたたく。昼ごろ頭痛がひどくなり病院に連れて行ってもらった。3日目も頭痛がひどくなったが病院には連れて行ってもらえなかった。このまま倒れると大変なことになると思い「弁護士の先生を呼んでください。お願いしまあす」と2回叫んだあと一言もしゃべらないことにした。そして午後3時ごろ踏み字となった。刑事が3枚の紙に、父の名と「お父さんはそういう息子に育てた覚えはない」、妻の父の名と「元警察官の娘をそういう婿にやった覚えはない」、結婚して沖縄に住む娘の名と「早くやさしいじいちゃんになってください」と書き、踏ませた。
わたしは「一度認めたら大変なことになる」という言葉を心の支えに頑張れた。それで不起訴ですんだ。しかし被買収容疑を問われた近所の人は「自白」を強要され13人が起訴された。07年2月全員無罪の判決(1人は公判中に死亡)が下った。
▲ 同志社大学教授 浅野健一さん
この事件では、川畑さんが日弁連に訴え出たのをきっかけにテレビ朝日「ザ・スクープ」のディレクターが現地取材をして「こんなところで現金191万円も配るはずはない」と考え05年2月に番組をつくった。また朝日新聞も赴任したばかりの鹿児島総局長が起訴状に買収会合の日時が特定されていないことに気づき「これはおかしい」と記者に徹底取材をさせた。鹿児島読売テレビのキャスターも取材を始めた。こうして冤罪だという報道が始まったが、それは事件から2年たってからだった。地元では住民が03年8月に「住民の人権を考える会」を立ち上げたのに、集会の報道はまったくされなかった。それどころか地元の公民館長と南日本新聞志布志支局長が中山信一県議に「選挙違反を認めろ」と説得までしている。このときその模様を奥さんがテープ録音していた。冤罪を作り出すことにメディアが加担した典型ともいえる。
▲ 立命館大学大学院准教授 渕野貴生さん
このケースで捜査当局は、物証を探すのでなく当局がつくったストーリーに当てはまるよう自白させる手法を取っている。真実を発見する目的に沿わない手法だ。任意同行は刑事訴訟法の条文上では拒否できる。しかしそうなっていない。それは最高裁の判例に「相手方の意思を制圧していなければ、有形力を行使しても任意処分の範囲内」とあるからだ。まして有形力を行使しない説得なら長時間に及んでもかまわないと捜査当局は解釈している。これは黙秘権という権利の侵害にも当たると考える。
川畑 わたしは身に覚えのないことで自白を強要され踏み字までさせられた。それをはらすのに民事裁判を起こし3年かかった。しかし取調べの全面可視化が実現すれば1か月か2か月で終わる。裁判で警察は踏み字は1回と言いこちらは10回と主張したが、それも全面可視化すればどちらが本当かすぐ判明する。わたしはワゴン車を買い九州全域で全面可視化実現のキャンペーンを続けている。すでに2万5000キロ走り、行っていないのは長崎、佐賀だけになった。
▲ 後半は裁判員制度の話に移った。
渕野 アメリカの陪審員制度は徹底した市民参加システムになっている。事実認定は陪審員のみが行い職業裁判官は進行役に徹する。ドイツの参審員制度は労組などから推薦された人が一定期間いくつもの裁判に携わる。裁判官は事実認定、量刑ともに参審員と一緒に考える。つまり、市民が専門性をもって裁判に関わる。日本の裁判員制度は1回限りという点はアメリカと同じだ。裁判官は事実認定、量刑ともに関わる。
裁判員制度の大きな問題として公判前整理手続きがある。この制度により検察側は証拠の開示を行う。いままでより開示範囲は広がったがすべて開示するわけではない。証拠を開示させるかどうかは裁判官が決定する。その証拠が重要か、防御に必要か、罪障隠滅の恐れがないか、など裁判官の裁量に任される部分が大きい。
この手続きでは弁護側は何らかの主張を行うことを義務付けられており、公判に入ってから新たな主張をすることは原則としてできない。問題は弁護側の主張を聞いて検察が補充捜査を行い弱点を補強できることだ。検察のより強くなった立証に弁護側が再反論すると、それを聞いてますます検察は主張を補強できる。弁護側が検察にアドバイスしているようなものだ。公判で裁判員は検察の完成された美しい主張しか聞かないことになる。それを被告側が裁判で崩すことは難しい。
最後に評議の段階での裁判官の説示の問題がある。裁判官が無罪推定の原則を貫くかたちで評議をコントロールするかどうか、「検察の主張は、はじめはグラグラした弱いものだった」と説明するかどうか、たまたま裁判員が疑問点を発見してもそれを有罪方向に導くかどうかは、その裁判官次第である。
運用と制度は違うという人もいる。しかし制度の議論をするときには、制度自体がもつリスクを予め除去しておく必要がある。
証拠開示を拡充させ、弁護側の公判での新たな主張を許容し、検察の主張強化を防ぐ制度に修正すべきだ。最低限でも、補充捜査は禁止すべきである。
▲ 最後に、犯罪報道と裁判の話になった。
川畑 03年6月4日中山県議が逮捕され、大きく報道された。警察発表を鵜呑みにした内容だった。書くならちゃんと現場に行き、見たり聞いたりしてからでも遅くない。ちゃんと裏を取ってから新聞に書いたりテレビに出してほしい。報道されると世間の人は「やはりやっていたのか」と思う。警察は神様のように思われているので、いまだに「やってないのに逮捕されたりしない」と言われる。
渕野 報道により逮捕時点で有罪のイメージが植え付けられる。職業裁判官は「証拠だけに基づき事実認定するトレーニングを受けている」というが、アメリカの模擬裁判による実験では、強い予断を与えるほど判決に影響を与えるという結果が出ている。
予断を与えないためには、刑事裁判のなかで何とかする方法、たとえば裁判の場所を変更する方法があるが、全国的に報道された大事件では意味がない。そこで報道の仕方を何とかする方法が考えられる。アメリカでは被疑者の前科、自白、ポリグラフにかけたかどうかとその結果を報道しないルールがある。
日本では自白内容を報道しないことはありえない。せめて自白がどういうプロセスで出てきたのか報道してほしい。また次の提言をしたい。
1 記事内容を全面的に信頼してはいけないと警告を付けて報道すること
2 前科を書かない
3 識者のコメントを安易に出さない。とくに心理学者のコメントは、犯人であることを前提にして、成育歴を含むことが多いので犯人視のリスクが大きい。
4 被害者のコメント。「厳罰に処してほしい」など被疑者への犯人視が強烈だ。確たる情報に基づいているわけではないので「もし犯人であるなら」といった留保が必要だ。
浅野 2003年に司法制度改革本部は裁判員法案に偏向報道禁止条項を用意していたが、メディア業界が自主的な指針づくりをすると表明したため、削除された。そのとき新聞協会や民放連は自主的な指針、指標づくりを表明した。ところが今年1月に発表された新聞協会の指針は、人権にも配慮するという程度のもので「加盟各社は必要な努力をする」というものだ。これでは意味がない。雑誌協会はもっとひどく「新たなルールづくりは必要と考えていない」としている。裁判員制度実施後に法規制をもたらしたらどう責任を取るつもりなのか。10年も前の1997年に新聞労連が発表した「新聞人の良心宣言」を下敷きに、犯罪報道の匿名原則(公人を除く)や報道評議会を実現させてほしい。いまが最後のチャンスだ。
☆昨年11月のこの会のシンポジウムのテーマは「刑事裁判の被害者参加と報道」だった。吉村真性さん(龍谷大学矯正・保護研究センター)のお話で、日本の裁判員制度は陪審員制、参審員制の悪いところだけ集めたような制度であることがわかった。
今年の渕野さんのお話でその点がますますはっきりしたが、その他、裁判員があずかり知らぬ公判前整理手続きにきわめて大きな問題が潜んでいることがわかった。自白重視の捜査手法で生まれた冤罪は、マスコミ報道と公判前整理手続きで強固になる。予断に満ちた職業裁判官と検察の強固な主張のもので裁判員は正しい判断を下せるものだろうか。
制度設計の段階で、リスクを取り除くべく努力すべきという渕野さんの話は説得力があった。
『多面体F』集会報告より(2008年11月28日)
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