● 武蔵村山市における育鵬社教科書採択とその背景
● 「密室」で決められていた教科書採択
「何だか、台本でも読んでるみたい」…傍聴に詰めかけた人々の多くが、そう思ったことだろう。2011年8月5日の、武蔵村山市教育委員会臨時会の様子である。
2012年度から使用する中学校教科書の採択が行われたこの日の臨時会では、教科書採択資料作成委員からの各教科書の特徴説明があった後、教育委員会委員から資料作成委員へ質問をし、その後、各教育委員会委員が意見を述べる、という流れで進められた。
奇妙なことは、教育委員会委員と資料作成委員の問答においても、各教委が意見を述べる場面においても、具体的な教科書の名前が一切出てこない、ということである。やりとりは、そこに登場している者たち全てが与えられた台詞を読み上げているかのように、淡々と進んでいく。
このようなやりとりが2時間以上続いたのち、委員長が暫時休憩を宣言。14分間の休憩の後、議事は再開されたが、その場に突如「議案別紙」が提出された。そして、教育総務課長によって読み上げられたその議案別紙には、全ての教科について出版社名が明記され、歴史・公民いずれも「育鵬社」とされていた。この段階で、会議場は騒然となる。
しかし、委員長は、質疑・討論とも一括で行うと述べ、委員らはこれに「なし」と答えて質疑・討論ともに終了。その後、ただちに、「一覧表の内容で決することに賛成の者は挙手を」ともとめられ、全員が挙手をした。
以上が、武蔵村山市において育鵬社版教科書が採択された際の状況である。まさに、事前に「密室」で決められていたというほかなく、教育委員会委員と事務方、採択資料作成委員など、関係する全ての者が、事前に意思統一をはかっていたことは明らかと言わなければならない。
以上の経過からも、武蔵村山市教育委員会の形骸化ぶりがいかに異常であるかがわかるが、このような教育委員会を中心で動かしているのが、持田浩志教育長である。
● 持田浩志教育長の経歴
持田氏は、2000年にいわゆる「国立二小事件」が発生した当時、国立市の学校指導課長の立場にあった。
「国立二小事件」とは、2000年3月の同校卒業式の際、屋上に日の丸の旗が掲揚されたことについて、数人の子どもたちが校長に「どうして私たちに相談なく旗を揚げたのですか」と質問したことに端を発する。
この学校の中での日常的な出来事が、4月5日の「産経新聞」朝刊1面トップに「児童30人国旗下ろさせる」「土下座要求」と報道され、これをきっかけに右翼の街宣車が何十台も国立に集結、さらに「おそるべき国立の子どもたち」として都議会や国会で何度も採り上げられる事態となった。
その後、教師たちが、国旗掲揚に「抗議」をしたこと、卒業式の際にリボンをつけていたことなどを理由に大量処分される。そして、職員会議の傍聴をするなどの「改善策」が実施され、多数の教員も異動となった。これにより、国立市の教育は大きく変えられることとなったのである。
この「国立二小事件」で「産経新聞」報道のもととなったのが、当時の校長が作成した卒業式実施報告書であり、卒業式直後からこの報告書を何度も書き直させたのが、当時の持田学校指導課長である。
そして、このとき一緒にタッグを組んでいた国立市の教育長が、石井昌浩氏。現在は、育鵬社教科書の作成にあたっている日本教育再生機構の中心メンバーであり、育鵬社教科書の執筆者でもある。このように、持田氏はこのころから、石井氏らと密接に協力し、学校現場への介入に力を尽くしていた。
その後、持田氏は、東京都教育庁指導部主任指導主事となり、日の丸・君が代の実施徹底を加速させる中心となる。そして、2003年には東京都多摩教育事務所指導課長として、いわゆる「10.23通達」の徹底指導に力を尽くし、その後、文京区立小学校校長に転じた後は、現役校長の立場であったにもかかわらず、2006年2月に石井昌浩氏らとともに「東京都教育研究連盟」の結成に発起人として参加、副会長となっている。
持田氏は、2007年4月に武蔵村山市教育長に就任するまで、このような経歴を歩んできた。まさに、日本教育再生機構、そして都教委から送り込まれたというにふさわしい、教育長就任であったのである。
● 新自由主義的「教育改革」最先端だった武蔵村山市-学力差拡大を肯定
ところで、持田氏が送り込まれるにしても、「なぜ武蔵村山市なのか?」という疑問も生じうるだろう。しかし、これは唐突な流れではない。武蔵村山市は、もともと、石原都政の直属組織と化した都教委との関係が、極めて強い地域だったのである。
すなわち、1990年代、学校5日制が導入され、それにあわせて学習指導要領が改訂されたころから、どの子にも平等に学びの機会をという大前提で進められていた教育全体のダウンサイジングが進められ、教育格差拡大を容認する、自由主義的教育改革が推し進められるようになった。都教委でも、青島都政後半ころからこの点は明らかな傾向となっている。
そして、こうした都教委の方針を真っ先に実践していたのが、武蔵村山市だった。武蔵村山市では、2003年に「21世紀における学校のあり方に関する懇談会」報告書が発表され、学校選択制・二学期制・小中一貫校の実施が提言されている。
2005年には二学期制と学校選択制が導入され、2010年には施設完全一体型小中一貫校「村山学園」が開校した。また、同年コミュニティースクールも導入され、2014年までに全校をコミュニティースクール化する予定とされている。
学校選択制や小中一貫校の導入は、いずれも、学力差の拡大を肯定するものである。
コミュニティースクールという制度も、学区選択制や小中一貫校とセットで実施されれば、教育格差を是認しさらに増強させる役割を果たすものとなり、また、「コミュニティー」に名を借りて教育行政サイドに都合のいい人たちが運営協議会委員になれば、教員人事のみならず教育内容への介入も容易となる。
このように、もともと武蔵村山市は、都教委と強く結びついて、新自由主義的な教育改革が先んじて行われていた場所だった。そこにさらに持田氏が教育長となることによって、新保守主義的な教育も加速されるようになったというのが、いま武蔵村山市でおこっていることなのである。
● 石原都知事による「破壊的教育改革」の実験場とさせないために
育鵬社教科書が採択された後も、武蔵村山市では、さらなる新保守主義的教育が実効されている。
たとえば卒業式について、10.23通達からさらに踏み込み、日の丸・君が代の徹底実施のみならず、「児童の作品を会場にかざらない」「児童が決意表明したり夢を語ったりする場は設定しない」など、卒業式に対する子どもたちの思いを直接封じるような指導がなされている。
さらに、「正しい立ち方.座り方」「お辞儀の仕方」などが事細かく記載されている「中学生のための礼儀・作法読本」(モデルとして写真掲載されているのは市内の現役中学生)なるものが市教委によって作成され、200円で販売されるとともに、市内各所に配布されているのである。
選べる子、能力のある子、努力ができる子には十分な施設の学校を。それができない子にはそれなりの学校を。そして、せめてできない子には、国を愛し、礼儀を重んじ、世の決まり事に従順な精神を養えばいいのだ…。いま武蔵村山市では、4期目をむかえた石原都知事による「破壊的教育改革」が、そのまま進められようとしている。
次の教科書採択でリベンジ、では間に合わない。今の子どもたちのために、取り組みを強めていく必要がある。
「子どもと教科書全国ネット21ニュース」85号(2012.8)
富永由紀子(弁護士)
● 「密室」で決められていた教科書採択
「何だか、台本でも読んでるみたい」…傍聴に詰めかけた人々の多くが、そう思ったことだろう。2011年8月5日の、武蔵村山市教育委員会臨時会の様子である。
2012年度から使用する中学校教科書の採択が行われたこの日の臨時会では、教科書採択資料作成委員からの各教科書の特徴説明があった後、教育委員会委員から資料作成委員へ質問をし、その後、各教育委員会委員が意見を述べる、という流れで進められた。
奇妙なことは、教育委員会委員と資料作成委員の問答においても、各教委が意見を述べる場面においても、具体的な教科書の名前が一切出てこない、ということである。やりとりは、そこに登場している者たち全てが与えられた台詞を読み上げているかのように、淡々と進んでいく。
このようなやりとりが2時間以上続いたのち、委員長が暫時休憩を宣言。14分間の休憩の後、議事は再開されたが、その場に突如「議案別紙」が提出された。そして、教育総務課長によって読み上げられたその議案別紙には、全ての教科について出版社名が明記され、歴史・公民いずれも「育鵬社」とされていた。この段階で、会議場は騒然となる。
しかし、委員長は、質疑・討論とも一括で行うと述べ、委員らはこれに「なし」と答えて質疑・討論ともに終了。その後、ただちに、「一覧表の内容で決することに賛成の者は挙手を」ともとめられ、全員が挙手をした。
以上が、武蔵村山市において育鵬社版教科書が採択された際の状況である。まさに、事前に「密室」で決められていたというほかなく、教育委員会委員と事務方、採択資料作成委員など、関係する全ての者が、事前に意思統一をはかっていたことは明らかと言わなければならない。
以上の経過からも、武蔵村山市教育委員会の形骸化ぶりがいかに異常であるかがわかるが、このような教育委員会を中心で動かしているのが、持田浩志教育長である。
● 持田浩志教育長の経歴
持田氏は、2000年にいわゆる「国立二小事件」が発生した当時、国立市の学校指導課長の立場にあった。
「国立二小事件」とは、2000年3月の同校卒業式の際、屋上に日の丸の旗が掲揚されたことについて、数人の子どもたちが校長に「どうして私たちに相談なく旗を揚げたのですか」と質問したことに端を発する。
この学校の中での日常的な出来事が、4月5日の「産経新聞」朝刊1面トップに「児童30人国旗下ろさせる」「土下座要求」と報道され、これをきっかけに右翼の街宣車が何十台も国立に集結、さらに「おそるべき国立の子どもたち」として都議会や国会で何度も採り上げられる事態となった。
その後、教師たちが、国旗掲揚に「抗議」をしたこと、卒業式の際にリボンをつけていたことなどを理由に大量処分される。そして、職員会議の傍聴をするなどの「改善策」が実施され、多数の教員も異動となった。これにより、国立市の教育は大きく変えられることとなったのである。
この「国立二小事件」で「産経新聞」報道のもととなったのが、当時の校長が作成した卒業式実施報告書であり、卒業式直後からこの報告書を何度も書き直させたのが、当時の持田学校指導課長である。
そして、このとき一緒にタッグを組んでいた国立市の教育長が、石井昌浩氏。現在は、育鵬社教科書の作成にあたっている日本教育再生機構の中心メンバーであり、育鵬社教科書の執筆者でもある。このように、持田氏はこのころから、石井氏らと密接に協力し、学校現場への介入に力を尽くしていた。
その後、持田氏は、東京都教育庁指導部主任指導主事となり、日の丸・君が代の実施徹底を加速させる中心となる。そして、2003年には東京都多摩教育事務所指導課長として、いわゆる「10.23通達」の徹底指導に力を尽くし、その後、文京区立小学校校長に転じた後は、現役校長の立場であったにもかかわらず、2006年2月に石井昌浩氏らとともに「東京都教育研究連盟」の結成に発起人として参加、副会長となっている。
持田氏は、2007年4月に武蔵村山市教育長に就任するまで、このような経歴を歩んできた。まさに、日本教育再生機構、そして都教委から送り込まれたというにふさわしい、教育長就任であったのである。
● 新自由主義的「教育改革」最先端だった武蔵村山市-学力差拡大を肯定
ところで、持田氏が送り込まれるにしても、「なぜ武蔵村山市なのか?」という疑問も生じうるだろう。しかし、これは唐突な流れではない。武蔵村山市は、もともと、石原都政の直属組織と化した都教委との関係が、極めて強い地域だったのである。
すなわち、1990年代、学校5日制が導入され、それにあわせて学習指導要領が改訂されたころから、どの子にも平等に学びの機会をという大前提で進められていた教育全体のダウンサイジングが進められ、教育格差拡大を容認する、自由主義的教育改革が推し進められるようになった。都教委でも、青島都政後半ころからこの点は明らかな傾向となっている。
そして、こうした都教委の方針を真っ先に実践していたのが、武蔵村山市だった。武蔵村山市では、2003年に「21世紀における学校のあり方に関する懇談会」報告書が発表され、学校選択制・二学期制・小中一貫校の実施が提言されている。
2005年には二学期制と学校選択制が導入され、2010年には施設完全一体型小中一貫校「村山学園」が開校した。また、同年コミュニティースクールも導入され、2014年までに全校をコミュニティースクール化する予定とされている。
学校選択制や小中一貫校の導入は、いずれも、学力差の拡大を肯定するものである。
コミュニティースクールという制度も、学区選択制や小中一貫校とセットで実施されれば、教育格差を是認しさらに増強させる役割を果たすものとなり、また、「コミュニティー」に名を借りて教育行政サイドに都合のいい人たちが運営協議会委員になれば、教員人事のみならず教育内容への介入も容易となる。
このように、もともと武蔵村山市は、都教委と強く結びついて、新自由主義的な教育改革が先んじて行われていた場所だった。そこにさらに持田氏が教育長となることによって、新保守主義的な教育も加速されるようになったというのが、いま武蔵村山市でおこっていることなのである。
● 石原都知事による「破壊的教育改革」の実験場とさせないために
育鵬社教科書が採択された後も、武蔵村山市では、さらなる新保守主義的教育が実効されている。
たとえば卒業式について、10.23通達からさらに踏み込み、日の丸・君が代の徹底実施のみならず、「児童の作品を会場にかざらない」「児童が決意表明したり夢を語ったりする場は設定しない」など、卒業式に対する子どもたちの思いを直接封じるような指導がなされている。
さらに、「正しい立ち方.座り方」「お辞儀の仕方」などが事細かく記載されている「中学生のための礼儀・作法読本」(モデルとして写真掲載されているのは市内の現役中学生)なるものが市教委によって作成され、200円で販売されるとともに、市内各所に配布されているのである。
選べる子、能力のある子、努力ができる子には十分な施設の学校を。それができない子にはそれなりの学校を。そして、せめてできない子には、国を愛し、礼儀を重んじ、世の決まり事に従順な精神を養えばいいのだ…。いま武蔵村山市では、4期目をむかえた石原都知事による「破壊的教育改革」が、そのまま進められようとしている。
次の教科書採択でリベンジ、では間に合わない。今の子どもたちのために、取り組みを強めていく必要がある。
(とみながゆきこ)
「子どもと教科書全国ネット21ニュース」85号(2012.8)