だからツーファイブで山に行ってきますね ♪

グランパGuitar弾きが、のんびり生活しながら日々のアウトドアライフや日常を書き綴っています。

下りもの

2009年11月06日 | Weblog
決してお腹の話ではないのですが。
「下りもの」さて?どういう意味なのか?

新潟地方の呼び名は、北から「下越」「中越」「上越」を読んでますね。
これは、京の都からみて呼ばれていたのは周知の通り。

また、落語に登場する庶民の会話に「下らねぇ~」何かと出てきます。
この「下らねぇ~」の語源は「下る」に対しての対義語。
江戸っ子は、「下りもの」を珍重したそうだ。

地方から都会に向かうのを「上がる」。正に新潟地方の由来と同じです。
当時の都は上方でした。お酒なんかも「灘」の場合は、「よっ、下りものだね」なんてありがたがったそうだ。

現に、塩・醤油・呉服・お菓子など、かなりの「下りもの」が珍重され技術が高かったり美味しかったりしていた。伊丹酒の『剣菱』も下り酒の一つである。


司馬遼太郎氏もいっていたが・・・。

江戸時代でも初期の頃は、政治の中心は江戸に移ったといっても、文化の中心はまだまだ上方(京都・大阪地方)。しょうゆの産地も上方が中心でした。特に泉州境で酒とともに作られていた「醤油溜(しょうゆだまり)」は評判が高く、元禄のころは名産品として諸国に流通していたと見られます。
17世紀から18世紀にかけて、大阪、ついで江戸が大市場として成長してきます。すでに菱垣廻船や樽廻船という定期船が大阪と江戸を結び、評判の高い上方のしょうゆも江戸に運ばれ、「下りしょうゆ」として名声を博しました。この頃はしょうゆに限らず、酒でも菓子でも上方から下ってくる「下りもの」は高級品、江戸周辺の産物は「下らない」もの、つまり下級品ということになっていました。(ヤマサ醤油HP)

京都・大阪では、18世紀も半ばを過ぎると、他国のしょうゆが入りはじめ、京都・大阪のしょうゆ醸造業は衰退していきます。これ以後、関西のしょうゆ市場は竜野を中心に、紀州湯浅、小豆島の醸造業者が支えていくことになります。
一方、江戸においては、「下りしょうゆ」の割合が落ちて、近郊の地廻りしょうゆが爆発的に勢力を伸ばしていきます。関東地廻りしょうゆの中心的産地は、銚子、野田、そして土浦でした。このうち銚子では宝暦四年(1754)、野田では天明元年(1781)にそれぞれ造醤油仲間が結成され、以後生産量を着実に増加させていきます。 (ヤマサ醤油HP)

それに比べると江戸周辺の物は「地廻りもの」と言われ、上方に比べ一段低く見られていたようだ。

このことから「大したものでない」「ありがたみがない」なんて言われるものは「下らねぇ~」と言われたんだそうだ。(^^)

西から東に来られる人は「下り人」。大いに東に来られれば、よろしいのでは・・・。
でも、「あごあしまくら」はご自分で!(^^)!