日々雑記

政治、経済、社会、福祉、芸術など世の中の動きを追い、感想を述べたい

少年の日に戦争があった(増補改訂版)  太平洋戦争とそのあとの時代を経験した小学生の体験記  戦争、引揚げ、戦後の飢餓体験 戦争を繰り返さないために

2016-07-08 23:16:31 | 政治

 

       少年の日に戦争があった

ものごころついたときには満州にい た

満州国の首都、新京。

十月から三月まで雪に閉ざされる街

四月になると雪の下からチョロチョロと水が流れ出し、緑の草が見えてくる

いつの間にか雪がなくなり、地面が緑の草に覆われる

やがて花の季節、ライラック、アンズ、ユスラウメ、さんざし・・・・

しだれ柳、ドロヤナギ、楡、そうして私が好きな白樺、

花の次はタンポポの季節。公園に一面の黄色い花が敷き詰められる。

そうして柳絮の舞う季節。

 

公園が多い町だった。

我が家のすぐ横の白山公園。芝生で走り回りチャンバラをした。

僕らの学校、白山小学校も公園の中にあった。

今行くと公園の中にテレビ塔があり、住宅団地まである。

 

牡丹公園、順天公園。

大同公園には毎年大相撲が来た。新京場所。

児玉公園。なんという不遜な名前だろう。日露戦争の司令官児玉大将の名をつけている。

それでも子供にはメリーゴーラウンドのある楽しい公園だった。

新京動物園は懐かしい。大きなサル山は見ていて飽きなかった。

ライオン、虎、キリン、・・・・

動物園で山羊の乳を飲むのが楽しみだった。

 

市の中心を貫く大同大街は美しい道路だった。

自動車レーンは飛行機の滑走路にもなる

低速レーンには馬車と人力車。

大同大街のロータリー、大同広場は周囲一キロの大きな白樺林。

周囲には市公署、満州電電、満州中央銀行、首都警察など重要な建物。

 

住宅は鉄筋コンクリート造り、地域集中暖房、水洗便所。

それは居心地の良い、美しい都市だった。

しかし、これらすべては日本人街の話。

満人にとっては別の顔を持つ町だった。

 

満人街は昔ながらの土づくりの家。

垢で汚れてテカテカに光る綿入れを着た人たち

不潔でニンニクの悪臭のする人達

日本人は彼らを軽蔑した

 

マーチョ(馬車)の御者は満人、ヤンチョ(人力車)の車夫は満人

スチーム暖房のボイラーマンも満人

子供の目には「満人は肉体労働をする汚い人々」だった。

 

市電には日本人専用電車があった。

間違えて満人がのると引きずりだされたり、中学生に蹴りだされたりした。

のちに知ることになったアメリカの黒人差別と何のかわりもなかった。

植民地を持つ国は自国の子供の感性すらゆがめた

 

満人の目に日本人は、日本人街はどう映ったのだろうか。

想像するだけでもおそろしい。

戦後何十年もたって「東洋鬼」(トンヤンクイ)という中国語を知った。

こんな風にみられていたのだ。

 

昭和十六年十二月八日、

大東亜戦争(太平洋戦争)は六歳の時に始まった。

次々と入る勝利のニュース。香港、マニラ、シンガポール。

一年坊主の私は世界地図に日の丸を立て万歳を叫んだ。

 

はじめになくなったのは、チョコレートとゴム毬。

運動靴も学生服も無くなった。

ランドセルも筆箱も紙製品になった。

今も思い出すあの言葉

「贅沢言うのではない。戦地の兵隊さんのご苦労を考えなさい」

「欲しがりません、勝つまでは」

 

この頃学校で教わったこと。

修身と国語は天皇陛下に生命をささげること。

教練の時間は分列行進と手旗信号。

音楽の時間は軍歌、敵機の爆音の聞き分け。

ダグラス、ロッキード、グラマン。

小学生を殴り倒す先生もいた。僕らはおびえた。

 

小学生のあこがれは兵隊さん

航空兵が人気だった。

仲良しの秀ちゃんのお兄さんは中学二年生で予科練に行った。

 

父は国民服、母はモンペ姿。

父のスーツも母のおしゃれな服も消えた。

父は丸坊主。母はパーマをやめた

国中に張りめぐらされた標語「ぜいたくは敵だ」。

 

防空演習、バケツリレー、

そして灯火管制でまっくらな夜。

 

毎月、何日だったろうか

北満で亡くなった兵隊さんの遺骨が新京駅を通過する。

僕らは自宅で、学校で黙とうをささげた

 

昭和二〇年八月九日ソ連参戦、

ソ連の戦車が満州に攻め込んだ

新京にも連日空襲。

 

どうやってソ連戦車に特攻攻撃をかけるか、同級生と議論した。

「地雷を持って戦車の下にもぐり込もう。」

 

父は母に子供の殺し方を教えた。

「首を締めたら苦しまない」。

母には青酸カリ。

 

八月十一日、父は現地召集

家族と水盃を交わし

戦闘帽をかぶり軍刀を下げて出ていく

われら子供は召集の本当の意味も知らず、勇ましい姿の父を送り出す

 

幸いなことに父は即日除隊

医師として新京の防衛に当たれとの命令であったという

 

満州国皇帝・溥儀は関東軍とともに通化に疎開する

父は疎開することを断り、新京残留を望んだという。

そのことを家族に伝えるときの父の言葉、「五十歩百歩」。

耳に残って離れない。

薩摩藩士の後裔だった父は新京の「落城」を前に

家族もろとも自害することを考えていた

私にはそう思えてならない。

 

応召も疎開もしなかった父と家族は父の勤務先へ疎開。

新京特別市立病院の第六病棟。

私は弟妹とともに少しばかりの荷物を持って長春大街を急ぐ。

見知らぬ満人のおばさんが「大変ね」と日本語で優しく声をかけてくれた。

支配者の凋落を憐れんだのだろうか。

このおばさん達はもっともっと長い戦乱をいきてきたのだ。

 

昭和二十年八月一五日敗戦。

大人たちは隣の病室で天皇の「玉音放送」を聞いた。

われら子供たちは、大人の言動から敗戦を知った。

病院の中には様々なニュースが飛び交った

新京駅では関東軍の兵隊が、やけになって天井に向けて鉄砲を撃っている。

抑圧から解放された中国人の暴発。頭を割られた老人が担ぎ込まれた。

あちこちで日本人が殺された。

 

ソ連軍進駐。

見たこともないほど大きな「スターリン戦車」。

轟音を立てて町の中を走り回る。

 

凌辱、強盗、殺人、なんでもあり。

肩から手首まで奪い取った腕時計を巻いたソ連兵。

ねじを巻くことを知らず、針が動かなくなると時計を捨てた。

文明を知らない兵隊たち。

 

ソ連軍のための「使役」。

壮年の男は駆り出された。

父も行った。近所のおじさん、お兄さんも行った。

 

敗戦は日本人から収入の道を奪った。

繁華街には日本人の露店がならんだ

「金、銀、ダイヤ、時計、洋服類はこちらで高価にお買いいたします」と叫ぶ

子供たちもたばこ売り、ピーナツ売り。

友人の四年生は叫んだ。「売れないピーナツはいかがですか」

哀れに思った日本人が全部買ってしまった。

 

首都新京には、ソ連軍や中国人に追われた開拓団の人々が流れ込んだ。

虐殺や報復を逃れた人々

僕らの小学校も避難してきた開拓民であふれた

多くの人が発疹チフスで亡くなった。

零下三十度の寒い冬には多くの人々が凍死した。

運動場は墓場になった。

 

我が家の人口は倍増した

医科大学の学生二人、一人は呉の出身だと言っていた。

私の知らない大学教授としての父の行動を面白おかしく教えてくれた。

看護学校の生徒二人、

開拓団出身で力持ちだった。

米を四十リットル舛に入れて抱え、軽々と階段を上った

そうして開拓団から来た母と小学生の娘。

八人家族の上に六人の同居人。

 

飯は一升炊きの釜で炊いた

広くもない家でどんなにして寝たのだろう

それよりも父はどうやって食費を稼いだのだろう

いまだに残る謎だ

 

中国の内戦。国府軍と解放軍の戦い。

我が家の片方は国府軍の陣地、首都警察。

反対側は白山公園に陣取る解放軍

双方の打ち合いは一週間以上も続いた。

市街戦の銃弾は何百となく家の中に飛び込んだ。

畳と布団で弾丸を防いだ。

外に出ると弾丸が立木に当たった。

ヒューップシュッ。

戦いの後の公園には兵士たちの骸があちこちに転がっていた。

死骸を見ても何も感じない僕ら子供たち。

一度二度新京の街の争奪戦が続く。

 

昭和二十一年夏日本人の引き揚げがはじまった

近所の人たち、遊び仲間もみんな出発していった。

僕らの一家は長春(新京)に残ることになった。

 

「中日合作」のスローガンのもと、

技術を持った日本人は留用された。父も留用された。

先生たちも残った。

留用日本人子弟の教育のため使命感を持った先生たちだった。

久しぶりの勉強は楽しかった。

中国語の時間もあった。はじめての英語の時間もあった。

五年生の最後には、発布間もない日本国憲法。

憲法が何かも知らない小学生は、価値観の転換を素直に受け入れた。

 

留用の一年間新京の町は落ち着いているように見えた。

しかし時に戦争の危険が近づくのが感じられた

郊外から砲声が聞こえる。

親たちが戦争に備えて、米や豚肉を買い入れた。

戦争のうわさが遠のくと再び平和な生活が戻った

私の知らないことだったが戦争は我々が長春を離れた数日後にはやってきたのだ。

 

敗戦二年、ようやく引揚げ。

鉄道はすでに破壊されていた。

軍用トラックの荷台に乗って出発。

戦闘でレールがひっくり返された鉄道。

橋が落ちた川。工兵が作った仮橋を渡る。

高粱畑、蕎麦畑。美しい満州の農村。

突然トラックが道を外れる。運転手に賄賂を渡すともとの道に戻る。

 

有蓋貨車。自分が牛馬になったような気分。

瀋陽(奉天)の収容所。たばこ会社の倉庫だった。むしろの上の一カ月。

 

瀋陽を出たのは九月末

氷雨にぬれた無蓋貨車の夜、九月末の満洲は寒い。

雨に濡れ、列車の風に吹かれ、凍え、歯の根も合わない。

大人はずるいよ、白酒(パイチュウ)飲んで温まっている。

こごえた老人や赤ちゃんが死んだ。

 

葫蘆島の港に待っていたのは戦時標準船・英彦丸。

われらはまさに難民の群れ

ゾロゾロと並びタラップを上る

前を上る父がふらっと傾く。

母が悲鳴をあげる。

父はふたたび立直りタラップを上る。

 

貨物船の船底で日をおくる。

こんな船でも、日本人の船員が居るだけで奇妙な安ど感があった。

 

十月のはじめ、船は佐世保の港に入った。

緑豊かな山々、穏やかな海、

初めて見る日本の景色は「箱庭」だった。

その自然の美しさは今も目に残る。

 

二か月の長い旅の最後は佐世保の収容所の一カ月だった。

ここもまただだっ広い床の上の生活

アメリカの援助物資の食事、トウモロコシの粉を練った物。

大人達は自嘲的に「鳥の練り餌」という。

 

遠い昔の収容所は、今ではハウステンボス。昔を思い出す手掛かりもない。

 

両親の故郷、私の生まれた町、長崎は焼け野原だった。

瓦礫の山と化した東洋一の大伽藍・浦上天主堂、

大勢の中学生、女学生が死んだ工場は崩れ落ちたまま。

大勢の子どもが爆死した小学校。

大学病院の煙突は折れ曲がり、神社の鳥居は一本足。

兄と祖母が原爆死した家も瓦礫の山。

 

長崎の街は全てが珍しかった。

市電が通る道は満州とはまったく違い、

電車が軒下を通るみたいでこわかった

 

新聞に悲しい報道

間違ったことが出来ない判事が飢え死にした。

ヤミ米を罰する判決を下しながらどうして自分が食べることが出来よう。

 

闇米を買う金もなく、売るべき衣類もない引揚げ者もまた飢えた。

子供はいつも空腹だった。

配給に米麦はほとんどなく、コッペパン、サツマイモはまだよかった。

穀物の代わりにダニのわいたキューバ糖がバケツに何杯も配給された。

カロリーの計算がいくら合っていても。どうやって食べるのだ。

仕方なく、砂糖水やカルメ焼きにして食べる。

野菜の配給、今日はニンジン一本、

魚の配給、イワシ二匹、長い行列の末に買う。

 

戦争と引揚げで疲れ果てた父は四十代の若さで死んだ。

 

これらすべてが私の経験した戦争です。

 

われらの国日本が仕掛けた戦争。

中国や朝鮮の領土をかすめ取ろうとして仕掛けた戦争。

日本の国を焦土にした戦争。

アジアで二千万人が死んだとも言われる戦争。

 

 

文中、「満洲」とあるのは現在の中国東北部の遼寧省、吉林省、黒竜江省の三省のことです。ここに、日本が傀儡国家「満洲帝国」をつくりました。「新京」は現在の長春の位置にあり、「満洲帝国」の首都でした。現在「満洲」「新京」の呼称を用いることは不適切ですが、この文は歴史的な事実の記述なので、あえて当時の地名を使いました。

コメント (2)
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