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石田さんの千代田区内巡回視察

2009-07-25 13:26:41 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
石田さんの千代田区内巡回視察



小川 武夫


ある時期から亡くなられるまで、石田さんはポニー・キャニオン、リビングサービス、ニッポン放送プロジェクトの会長でありました。

毎週木曜日は、市ヶ谷一口坂のポニー・キャニオンで伊地知彬さん、次いで四谷のリビング本部で中谷昭世さん、三番目は紀尾井町のニッポン放送プロジェクトで小川と、三社の社長から業務報告を受ける千代田区内巡回視察の日でありました。

もう、しんがりの私のところでは、細かい業務報告などありません。
「おい、どうだい」「ええ、まぁまァです」 これで終わり。
あとは一時間近く石田節(ぶし)が炸裂。





北海道での映画学校構想や、ハイビジョンへの夢などあれこれ。次第に石田さんの話は熱を帯びていきました。
私も、少しばかり仕込んだ新ネタや、ラジオ通販のヒットのウラ話などを話しますと、「いやー、それは面白いや」。

あれやこれやで小一時間。「よし、がんばれよ」と 帰られたものでした。
 
石田会長との木曜日は、私には至福のひとときでした。

オールナイトニッポンと石田サン

2009-07-24 12:45:38 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
オールナイトニッポンと石田サン


                        羽佐間 重彰


「お前は部長だろ。自分のやりたいことはやったらいいじゃないか!」
と、石田サンの叱声が飛んだ。

「ヤング・ヤング・ヤング」「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」
など、若年層の番組に先鞭をつけたニッポン放送だったが、
0時過ぎの深夜には手を出せなかった。 
すでにTBSの「パック・イン・ミュージック」、文化放送の「セイ・ヤング」は始まっていた。 
ニッポン放送の深夜は「株式会社深夜放送」に制作・営業を委託していたのだ。
 この会社は資本はニッポン放送だが、代理店買い切りで、営業・制作はまったく別経営になっていた。34名の社員で、月商700万円位。

 深夜をニッポン放送の制作にすると、この会社の社員の問題が発生する。
 「深夜放送の社員はどうすればいいんですか」と、私が聞くと
「そんなことは俺がやってやる」と即答。
 石田さんサンはニッポン放送の常務・編成局長だったが、
当時発展期にあったポニーの専務でもあった。
 
そのポニーに深夜放送の社員の半分を引き取り、後はニッポン放送に
移籍させた。
 見事な裁き方であった。
 
これなくしては「オールナイト・ニッポン」は出発できなかった。
 昭和42年のことである。

×         ×

10月にスタートした「オールナイト・ニッポン」は、営業局に
セールスを半年待って貰った。評価が定まるまで一括セールスして
ほしくなかった。揉めたことは言うまでもない。

そこでまた石田サンである。
半分の300万円をポニーがスポンサーになってくれたのである。
破竹の勢いのミュージックテープの時代であった。
「オールナイト・ニッポン」設立には、石田サンなくしては成り
立たなかったのである。

×          ×

 後日談がある。
 「帰って来た酔っ払い」の反響の大きさから、営業は完売して翌年
からポニーの援助を必要としなくなった。
 しかし何も知らないディレクターやパーソナリティは、スタートした
ばかりのキャニオンのレコードを殆どオン・エアさせなかった。

 石田サンは「分かってないんだな、みんな」と、苦笑されるのみだった。


当時 編成部長 羽佐間 重彰



ポニー・キャニオンの石田さん

2009-07-23 14:59:27 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
ポニー・キャニオンの石田さん 伊地知 彬


石田さんは、いつもわれわれ仲間、私自身の中で、生き続けている故でしょうか
“もう19回忌”・・というのが正直な感想です。

創業者・経営者として、ポニー・キャニオンをスタートさせてから約20年間、文字通り石田さんあってのポニー・キャニオンだったし、外部の人たちも“五千億産業”“映像・音楽のテープ創設者”として評価しており、石田さん個人としても極めて人生の重要な部分を占めた20年間だったのではないでしょうか。

その人柄の明るさ・積極さ・話題性等々を加え、表題をまともに捕らえると充分に一冊の本になるくらいと思いますが、今回は私の接した簡単な話題に止めたいと思います。


創業が順調に滑り出したのは全くの短期で、キャニオンレコードの創設と共にポニーの売り上げ停滞、厳しい時期が来た頃の事です。
 石田さんと、元足立のテープ工場に行った時の事です。
うず高く積まれたテープの在庫の山を見ながら、私はいくつかの提案をしました。
会社にとっては望ましいことではないのですが、積極策は成功せず、マスコミ出身者には理解しがたい商品在庫が経営に重くのしかかっていたのです。
“お前に任せるよ”石田さんの答えでしたが、返答に時間がかかり、その間の厳しい、淋しそうな石田さんの表情は今でも忘れられません。
強引な方法は採らないで済みましたが、その処理には満3年掛かりました。




田原俊彦 船上パーティでの 石田さんと ・・


石田さんというとその豪放磊落ぶりがよく話題になりますが、細かい気遣いも忘れない方でした。
社内で怒ることは滅多にありませんでしたが、怒られる貧乏くじは今村栄成君でした。
レコードセールスに慣れない頃の新譜発売のミスや、偶に飲みに行った銀座のバービルのエレベーターで女性両手の場面に石田さんと鉢合わせになるなどが重なって、標的になってしまったのです。
ただ今村君に何か言った場合、必ず私に“アイツ、緊張してたぞ”等々、彼に伝わる様に気遣いをみせていました。

ポニー・キャニオンが厳しい冬を乗り越えられたのも、社内の乱れなかったのも、石田さんの先頭に立っての積極性と人柄の明るさがあったからです。
これからも、私自身、我々仲間の中に石田さんは大きな存在であり続けると思います。

最後に奥様とご家族のご多幸をお祈りいたします。

PONY 全盛期の懐かしき写真と記事

2009-07-22 19:49:06 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
PONY 全盛期の懐かしき写真と記事









PCの初期(昭和42~44年頃)の誕生会の時の写真がありましたので送ります。
探したのですが、懐かしい写真1枚のみです。 PC小林 一磨さん



ハワイ旅行添乗の 当時関東ポニー営業部長 今村 栄成さんと国際部 高崎一郎さん 



石田達郎 お父さんを偲ぶ ポニーキャニオンOB 丸山 壽敏氏

2009-07-20 12:38:30 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
石田達郎 お父さんを偲ぶ ポニーキャニオンOB 丸山 壽敏 氏


昭和42年3月18日号 毎日新聞 ニッポン放送サービスへの求人広告に応募し 

ポニー人生 定年の 丸山 壽敏さんの 応募の動機は・・


◎ この広告に応募させて頂いたことから 私のポニー人生が始まりました。

この広告を見せたら 親父が “ 挑戦してみたら“ と キッカケをくれた親父と

採用してくれたニッポン放送サービスに今でも感謝しております。

◎ 松本龍二社長 石田専務 伊地知部長 総務は 河野部長〔?〕 箭野さんと記憶しています。





・・・・・ポニー社内報1号の表紙

◎ 丸山さんは 最初販売部 45年仙台支店長に 後東北ポニーに合併




◎ 45年 ハワイでは 石田社長とダイヤモンドヘツドを背景に
〔このとき社長から “ ハワイに来たらアロハだ “の一言で買ったもの〕





2. ―― 石田 語録 の いくつか ・・



◎ ポニーのセールスマンは宣教師の行かない所にも行け

◎ 切れた電球でも光らせろ

◎ エスキモーに冷蔵庫を売れ

◎ 優秀なセールスマンは 大砲からパンテイまで売れる

◎ 俺は 幻のセールスマン 今日札幌 明日に博多 そんなの朝メシ前

◎ 中小企業や幹部は “ 昇り坂の自転車“ 足を止めたら転がる




3. 先日、山際御大、山田氏と暑気払いをやりましたが、この場でも夫々に石田お宝を大事になさっているのを、感じました。それだけで父さんが我々の財産であり、父さんの偉大な人柄を今更ながら感じ取りました。
渡邊省吾さんは、カンヌで石田社長の手足になり、寝る間も惜しんで社長を支え血を吐き現地で病院に担ぎこまれました。とても心配しましたが、健康を取り戻され、仕事の厳しさを教えられました。今は、懐かしい思い出です。
渡邊さんがお元気で、その話題からとは、とても嬉しいです。渡邊先輩に宜しくお伝え下さい。

丸山壽敏拝

PONY テープ 

2009-07-19 14:00:08 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
テープの時代  天井邦夫    



ポニーキャニオンが設立間もなく、貿易センタービルに本社が置かれ、日の出の勢いだった頃のことです。石田さんに声をかけられました。
「君は、京橋堂の息子と同級生だそうだな。一度紹介してくれないか。」

私がニッポン放送に入社したのは昭和36年ですから、5年位経っていたと思います。私よりも年長の方はご記憶だと思いますが、当時ニッポン放送レコード室のライブラリーは京橋堂から一括購入していました。その京橋堂のおやじさんがなんと「全国レコード販売店連合会(全レ連)」の会長を務めていたのです。
石田さんの狙いがどこにあったのかはわかりません。しかし、ポニーのテープを販売するためにレコード店と親しくなりたいという気持ちは、当然理解できます。
早速連絡をとり、銀座並木通り、三笠会館地下のレストランで、石田さんと若造2人のミーティングが実現しました。




「レコード盤の時代は終わり、これからはミュージックテープの時代になる。
君もテープの事業を始めたらどうか。」

石田さんの熱のこもった話に、京橋堂の息子、我が大学の同級生、荻原君は夢中になりました。そして京橋堂の地下に仮事務所を作り、日本テープという販売会社をスタートさせたのです。
石田さんの言葉通り、事業は順調でした。カーオーディオの普及、ウオークマンの発売も手伝って、日本テープは発展を続けました。そしてついに9階建ての自社ビルを建築するまでに成長しました。あのバブルが崩壊するまでは。



先頃、荻原君は全ての仕事を辞めて引退しました。同窓会で会ったときに彼の人生についていろいろ聞きました。荻原君は、今でも石田さんに対する感謝の気持ちを持ち続けていました。彼が悩んだとき、挫折したときに、いつも石田さんの笑顔を思い浮かべて勇気を奮い起こしたそうです。
石田さんが亡くなられてから19年の間に、カセットテープもビデオテープもメディアとしての寿命を終えました。いつの間にかiPodやブルーレイの時代に入っています。でも石田さんこそがあのテープの時代を象徴する存在だったと思えてなりません。

好調な売上で チャーター機で「ハワイ」旅行も・・・ 


テープの時代へ PONY 誕生

2009-07-18 10:24:18 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
テープの時代へ PONY 誕生


◎ ビデオ 5,000億産業 !









九段に ミュージックテープセンター 開設 〔現 一口坂スタジオのある場所〕


◎ 1966年にはカーステレオの普及を見越し、そのための音楽ソフト制作会社としてポニーを設立。1970年にはビデオソフトが5000億円産業に成長すると予言、ビデオソフト制作に参入。のちに日本ビデオ協会(現日本映像ソフト協会(JVA))会長を務めるなど、音楽・映像ソフトの発展に寄与した。


《石田達郎 略歴》

◎ 大正7年〔1918年〕7月18日 北海道札幌市南1条に生まれる

◎ 昭和18年〔1943年〕慶応義塾大学経済学部経済学科卒業

◎ 昭和18年 10月 石原産業株式会社入社 応召により自然退社

◎ 昭和18年 11月 東部63連隊入営

◎ 昭和21年〔1946年〕鐘淵紡績株式会社入社 

◎ 昭和23年〔1948年〕鐘淵建設株式会社入社

◎ 昭和25年〔1950年〕株式会社芸苑宴プロダクション入社
  〔昭和27年12月退社〕
―― 以来 フリーの映画プロデューサー 「さくらんぼ大将」「三太物語」を制作

◎ 昭和29年〔1954年〕ニッポン放送入社
編成部 関西総局を経て編成部長 営業部長 編成局長 常務取締役 専務取締役
代表取締役副社長を歴任

◎ 昭和49年11月〔1974年〕代表取締役社長

◎ 昭和60年6月〔1985年〕ニッポン放送取締役相談役 
―― フジサンケイグループ 最高顧問


◎ 昭和52年11月〔1977年〕株式会社フジテレビジョン代表取締役副社長

◎ 昭和57年4月〔1982年〕株式会社フジテレビジョン代表取締役社長

◎ 昭和57年6月〔1982年〕北海道文化放送株式会社取締役

――――――――――

◎ 昭和41年3月〔1966年〕株式会社パシフィツ音楽出版設立 社長 

◎ 昭和41年10月〔1966年〕株式会社ニッポン放送サービス設立 専務取締役 
  昭和44年6月〔1969年〕株式会社ポニー 代表取締役社長
◎ 昭和52年3月〔1966年〕株式会社ポニー 代表取締役会長 

――――

◎ 昭和57年7月〔1982年〕株式会社産業経済新聞社代表取締役 

◎ 昭和61年6月〔1986年〕株式会社フジサンケイリビングサービス代表取締役会長 

◎ 昭和63年6月〔1988年〕株式会社ニツポン放送プロジェクト代表取締役会長 

◎ 平成元年6月〔1989年〕株式会社ハイビジョン・コミュニケーションズ代表取締役会長 


―――――――――――

◎ 昭和46年3月〔1971年〕財団法人日本レコード協会理事

◎ 昭和53年3月〔1978年〕財団法人日本ビデオ協会理事・会長


『賞』

◎ 昭和54年5月〔1979年〕 藍綬褒章受賞

◎ 昭和58年7月〔1983年〕 日本宣伝賞・正力賞受賞

◎ 昭和63年11月〔1988年〕 勲2等旭日重光賞受賞

石田のおとうさんの想い出 渡辺 省吾

2009-07-17 13:38:14 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
石田のおとうさんの想い出          


渡辺 省吾
 

おとうさんと初めてご縁ができたのは、ニッポン放送開局を間近に控えた昭和29年の7月13日だったと思います。とにかく親しみやすい感じを受け、こんな上司だったら、さぞ、よい職場になるなと思いました。それから私は5年後にフジテレビに移籍し、そして昭和59年に退職後、ポニーキャニオンに籍を移しました。それ以前にも昭和47年に4ヶ月ほど浜松町でお手伝いをさせて頂いたことがありますが、又再び私は、おとうさんが提唱されたホームビデオ5千億円産業の国際関係の仕事がらみで、お手伝いをさせて頂くことになりました。

 私は、海外へ通算21回ほど、石田さんのお供を致しました。海外旅行での数々のエピソードは、今、思い出しても懐かしく、忘れ難いものが多々あります。石田さんの先見の明の確かさや、天性のひらめき、そして独特な魅力は海外のトップの方々の関心も呼びました。

1978年12月、フロリダでメジャーリーグ・オーナーのミーティングに出ました。その頃から石田さんは、メジャーリーグ日本放映が視野に入っていました。今や名選手がぞくぞくと渡米、毎日のようにBS放送で中継が流れています。日本の野球が、メジャーリーグにとっても大きな影響力を持つ日がくることを見越されていたのでしょう。

1988年2月、ハリウッドで、アメリカン・フィルム・マーケティング・アソシエーション主催の会合に出席した時のことです。かねて同アソシエーションのローゼンフィールド社長に頼まれ、会食の席で役員たちに話をするように云われました。石田さんと私は、日本の役員会のような雰囲気を想定して、昼食をとりながらの意見交換スタイルだと思っていました。しかし蓋を開けてみると、演壇に立ってプレゼンテーションが予定されていたのです。そこでも石田さんは、臆することなくハイビジョンと今後の映画興行についての持論をぶたれました。私は、横で通訳をしたのですが、汗びっしょりでした。

1987年11月、イギリスのBBCホーム・エンターテインメントを訪問した時です。最初は、私一人で業務連絡のためにホームビデオ・セクションを訪ねる予定でした。ところが直前になって石田さんが、「俺も行くよ」と云われました。そこでホーム・エンターテインメントの担当者に「うちの会長も伺いますので、宜しく」と告げると、それではと、いきなりトップ会談となりました。初めは表敬訪問程度の予定でしたが、そこでも、おとうさんは本領をいかんなく発揮され、ハイビジョンの未来についての構想を話されました。予定は一時間あまりオーバーして、ホームビデオの担当者たちを待たせてしまいました。おとうさんの構想は、いつもこうして大きな輪になっていきました。

仕事での顔の他に垣間見た素顔の思い出もよぎります。フランスの三ツ星レストランの食事を堪能した帰りの飛行機で「早く帰ってサンマを喰いたいな」と云われました。きっとホッと一息、里心がついたのだなと思いました。美味しいものが大好きな方でした。

1989年6月、最後の出張となったのは、スイスのモントルーでのエレクトロニック・フィルム・フェスティバルでした。ハイビジョンに関心のある各国からの人達と直に話をされました。ハイビジョンはNHKの技術から生まれたものですが、石田さんが世界にむけて、その普及に力を尽くされたのは事実だと思います。

その頃から、肩こりをしきりに訴えるようになられました。当時の私にもっと知識があれば、アドバイスなりも出来たでしょうが、急な肩こりが内臓と関係しているとは知りませんでした。おとうさんが愛用しているコランボーという肩こり用のマシンを、私にも買って頂き、喜んでいました。そして、その年の年末、声が嗄れてきて、風邪の声嗄れとはちょっと違うという感じを受けていました。

しかし翌年にも、まだまだ海外での仕事が予定されていました。北海道の映画学校構想、ハイビジョン、東京国際映画祭など、これからもより一層、展開していくところでした。
しかし、体調は思わしくなく、翌年の海外訪問先の方々との予約を次々とキャンセルして治療に専念することになりました。十数回から為る放射線治療が始まりました。
「抗癌治療はきついとは聞いていたが、頑張ったよ」と一区切りの治療を終わって云われ、弱音を口にされませんでした。ところが私の予想をはるかに越えて、病状が悪化していきました。その時でも、私はおとうさんのことだから、きっと快復する筈だと信じていました。
鋭い洞察力、磊落にして繊細、そして暖かい、こんな上司と巡り会えたのは、19回目の命日を前にした今でも、私のサラリーマン人生の宝ものだと思っております。







☆ サミエル・ウルマン 「青春」

◎ 私が石田社長に“ 青春“ “ 青春 “ って騒いでいるのは 森田健作と石田社長だけと言ったら ⇒ ウマイ事 云うな ⇒ バカヤローでした。

―――― ポニーキャニオンOB 丸山 壽敏 氏――


「石田のお父さん」を偲ぶ  スタートです。

2009-07-16 09:28:46 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
「石田のお父さん」を偲ぶ  スタートです。


LF・PC会ネット委員会





「お父さん」と呼ぶのもおこがましい気がしますが、 「オウ! どうだ!元気でやってるか!」と、いまだにどこからか、懐かしい声が聞こえてきそうです。

畏敬おくあたわざる我らが大先達、石田達郎さん。 今にして思えば、まだ72歳。  あの日から今年 7月19日で早くも19年目になります。 お誕生が大正7年7月18日。 ご命日と1日違い。 今年は生誕91年目。 「妙な語呂合わせをするなよ」とも言われそうですが・・・・。
 
1周忌に創られた「石田達郎の想い出」にそのすべてが描かれているようにも思います
が、 今年、このホームページでもそれぞれの「想い出」やそれにつながる「写真」などをお寄せ頂く事としました。

文は短くても結構です。 写真は1枚でもお願いいたします。 人情味溢れる、また誰にでも分け隔てなく接してくださった石田のお父さん。 いろんなエピソードもありそうです。

「お前ら、勝手なことを書きあがって!」と、怒られても、赦してもらえそうです。