母が亡くなって半年。ときどき発作のように 母の姿を 声を 言葉を思い出し、涙がこぼれる。
四月は母の誕生月。去年のバースデーに みんなでファミレスでパーティーをした後、満開の夜桜を一緒に見に行ったことを思い出す。桜より おしゃべりに夢中だったよね。おかあさん(笑)。その時 プレゼントした スワロフスキーのネックレスをとっても気にいってくれてお礼のお手紙まで書いてくれたっけ。母の趣味がコーラスなので 舞台でクリスタルがきらきら光るといいなあと思って選んだのに、今は私の首もとで きらきら光っています・・。
お母さんが死んでから 遅い秋がきて、寒い冬が過ぎ、今年は早く桜が咲きました。
満開の桜の木の下で 桜の季節の思い出がよみがえるとき、小学校の入学式は パパとおばあちゃんがきてくれたこと、小学校の卒業式はひとりぼっちだったことも思い出す。授業参観も運動会も学芸会もほとんどきてくれたこともなかった。母は小学校の教師をしていたから、行事が重なってしまい来られないのはあたりまえだった。
ものごころついた時の記憶をたどると、保育園の赤ちゃん部屋のことからはじまる。保育園では朝は一番 帰りは一番最後のお迎え。規定の時間が過ぎてもお迎えに来ないので先生が帰り支度を始めるのが悲しかった。
熱が出ても 体の具合が悪くても これくらい大丈夫といわれて 学校へ行った。学校で高熱になってしまい 保健室の先生に早退しなさいといわれると 祖母がタクシーで迎えに来てくれて病院にも連れていってくれた。熱が出て ひとりぼっちで寝込んだときの話相手は 枕元に並べたぬいぐるみやリカちゃん人形たちだった。いつもお友達のお母さんをみてうらやましいと思った。土曜日のお昼は姉と二人でインスタントラーメンか菓子パン。ときどき お友達のおうちでお昼をご馳走になるのがとても楽しみだった。手作りのおやつもいつも夢。友達には お菓子缶いっぱいにお菓子が買ってあるほうが羨ましいと言われたけど(笑)
今は 働いているお母さんがあたりまえの時代だし、育児休暇をはじめ 子どもの行事などで休暇もとれる時代にもなった。母の務めていた時代は 女性が働くことは大変な時代で、子どものために 早く帰るとか休むなんてできなかった。でも 仕事は母の生き甲斐でもあったし母は家事や育児より仕事が好きだった。
だから 私は 小さなころから平凡な主婦にあこがれたの。けれど 母にとっては 家事や子育て以外なにもできない のんきな娘にしか見えなくて、いつも あなたの歳に私は・・・と叱られた。当然のように 母と私にこころのすれ違いが生まれた。(態度には出してないつもりだったけど 母もなんとなく気づき それが何故なのかわからないようだった。)
けれど 母に文句をいったり反発をするというのではなく、母のいうことをきき、母の好きなようにさせることが私のせいいっぱいの親孝行のつもりだった。そして いよいよ年老いたら そのときからは いろいろしてあげて大事にしようと思っていた。だから 父を亡くしても
「パパがいないのは寂しいけれど 私はとても幸せ!!人生もうひと花咲かせるわ!」
と 人生を謳歌している母を 元気で子孝行な母親だと思うようにしていた。親と言っても それぞれの生き方や考え方があるのだから、親は親。子は子。と、わりきる考え方は 親に何かを求めるとか依存してはいけない。という子供のころからの自分自身への言い聞かせでもあったような気もする・・。
でも母は娘がかまってくれなくてさびしいといつも周囲の人にこぼしていたみたい。誕生日 母の日 お正月 ひな祭り クリスマス 敬老の日 お彼岸 お月見・・・と行事などのときはいつも一緒にお祝いしたのに、行事だけすればいいってものじゃないと言っていた。と聞いて涙しかでてこなかったけれど・・。
でも・・突然 元気なままお風呂でたおれて死んでしまった。脳出血だった。毎日お仏壇で手をあわせてごめんね・・おかあさん。とあやまりながら、親孝行って親のためにするのではなく自分のためにすることだったのか・・・と気づいた。
父が 家族みんなに看取られて 病気で病院亡くなったときは もちろん悲しみはあったけれど、後悔も罪悪感もなく、お疲れ様・・・いままでありがとうね・・パパ。という感謝の気持ちで見送れたのは 精一杯の介護ができたから。病気で痛みや苦しみの中で亡くなる姿は本当にかわいそうだった。けれど母のように 生涯現役!という死に方は、悲しみというよりも あまりに衝撃的で、後悔と罪悪感だけが残される。母ももっとやりたいことがたくさんあったはずだし、死にいたるまでのプロセスって本人にも周囲にも大切なのではないかなと思う。
半月ほど前、新聞を読んでいたら 「やすらぎの長寿考―老いも病もこわくない (RIBUN BOOKS)」(吉永馨 著)というの本の紹介で、今年80歳になられる医師の作者が 母校(東北大学医学部)の同窓会仲間とのメーリングリストのやりとりのなかで
「ピンピンコロリ(PPK)は本人が死後の準備ができず、家族も途方にくれてしまい、あまりいいとはいえない。今夜にもあの世に行きたいという人だけが言ってもよい言葉です。」
というようなことが書かれていたのにも頷けた。
でも どんなにいいわけをしたところで、母へのごめんなさいの気持ちは 生涯私の中で もっと早く気づいてあげれば助かったかもしれない、私が殺してしまった・・・という罪悪感として残るでしょう。けれど 母にとっていつまでも娘のままであった私の「娘時代」に終止符がうたれた今、いつまでも罪悪感をひきずるより、これから家族みんなが笑顔でいることが父や母への親孝行になると信じて生きていこうとおもう。だけど 結局わたしはわたしのままでなにもかわりはないのだけど・・・。
そしてまた明日、お仏壇の前できっということばは「ごめんね・・おかあさん。」
数日前、庭に紅白のハナミズキを植えました。その前日 植木屋さんで花水木を選んでいたら、雨あがりの雲間から虹が出て・・・そう・・・虹が・・・まるで私の心の中に 光を射すように・・・。
☆ Life is a journey towards the guiding light・・・
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白いハナミズキは 亡き父のために
薄紅色のハナミズキは 亡き母のために
この想いが百年続きますように・・・☆
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