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遠藤さんの死

2010-03-24 12:23:10 | 日記
昨日は私の大先輩であり、稀代のギタリスト、ベーシストの
遠藤春樹さんの告別式があった。

様々な方面から友人達がかけつけていた。
我々が彼の訃報をきいたのは、江古田に縁のある人たちが
8年ぶりに再開し、そして成功させたコンサートの打ち上げの
場所だった。
みなが再開と、コンサートの余韻と、そしてわざわざ九州から
かけつけてくれたティムさんが持参した、本格焼酎に酔いしれ、
あるいは泥酔し、机にうっぷしている人ありの、
もうめちゃくちゃ状態の最中だった。

比較的冷静だった、本名カズトさんは、状況を把握すべく
お店の外で携帯で連絡をしていた。
私も追いかけて、様子をみていた。

そとはざんぶりの雨、風も強く、嵐の様相…。

遠藤さんの思い出が頭をよぎり、声をあげて泣いた。

さっきまで冷静に携帯電話をかけていた本名さんが、
気がつけば、後ろで、あふれる涙をこらえていた。

また、かなしみがこみ上げてくる。
本当に子供のように泣いた。

涙と雨で全身びしょびしょになった私の肩をたたいてくれたのは
森辰二郎さんだった。

泥酔し、机にうっぷして寝ているのかと思っていたら、ちがった。
彼は泣いていたのだ。


15年前に遠藤さんが病気で倒れた時、彼からの連絡をうけ、
真っ先に駆けつけ、救急者で搬送したのは辰二郎さんだった。
遠藤さんの一番古くからの友人だった。


告別式の会場で、モモちゃんは気丈にふるまっていた。
結婚して間もない頃に、大切な人が病気で倒れ、
それを献身的な介護で、15年もささえ続けてきた彼女の
悲しみは計り知れない。

遠藤さんが病身だったとはいえ、亡くなった日の数時間までの
彼の元気な様子と、突然の死に不明な点が残るとして、
司法解剖が行われた。
頭部にまでメスの入った死顔が痛々しかった。


僕ら友人の多くが、遠藤さんの訃報をきいたとき、
気持ちの中にはモモちゃんがこれで少し楽になると、
安心感を抱いたと思う。

だけど彼女はいった。

「私は理由が知りたい、もしこんなことがなかったら、
私はあと、20年も30年も彼と一緒にいられたのに…。
だから、私は死んだ理由が知りたいの。」

と。

死者は沈黙を好む

我々はえてして、人の死を、その受け止めきれない感情を
身勝手な自分の言葉で解釈しようとする。
でもそれは、結局、近親者ではない我々の憶測の域を出ないのだ。

森繁久弥さんが亡くなった時、

「彼のこと、大往生とかいう人がいるけど、私はちがうと思う。
彼は死ぬまでずっと、やりたいことを語っていた。だから
彼は悔しがっていると思う。」

というようなことを森光子さんがいっていたのを思い出す。


みんなひととおりご焼香をすませ、再度一人ずつ、最後の
お別れをしようということになり、再び棺の前にみな並んだ。

みな無言で焼香をすませてゆく。
暗黙の了解で、森辰二郎さんを一番最後にして、みな部屋を
でた。

最後にみなモモちゃん、それから家族の人達と抱き合って、
ある人はタクシーで、ある人は徒歩で帰っていった。

徒歩組の辰二郎さん、静岡さん、私は駅の近くの飲み屋で
一杯やっていこうという話になった。

「なあ、最後のお別れの時、机にお寿司がおいてあったろ、
あれみて、うまそうだと思わなかった? 俺、腹がへっちゃってさー。」

と不謹慎なことをいう辰二郎さん…。

…実は私も同じことを考えていた。
私は節度をもってそれを口にはしながったが、そういうことを
臆面もなく私に打ち明けてくれる彼。
そのくせ、今度は飲みの最中に話が遠藤さんに及ぶと
目に涙を浮かべている。
そしてまたお互い馬鹿話を始めるという具合…。

生きていることはすばらしい、つくづくそう思う。

お酒にめっぽう強く、酔うことの少なかった遠藤さん、
いつかあの世でいっしょに乾杯しよう!


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