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ゴール

2010-12-16 17:42:46 | 日記
私は「がんばる」とか「一生懸命」という言葉が嫌いである。

だから、余程のことがないかぎり使わないようにしている。
そして「がんばらない」ようにしている。

そんなものを人から強要される義務もないと思っている。。

正直いうと、今まで自分は本当に懸命に生きてきたつもりである。
懸命に会社のために生きてきた。
だけど、その結果がリーマンショック以降の大不況、大リストラ、
経営者は目先に翻弄されて、今後のビジョンを掲げる気すらさらさらない。
まんをじしての退社、その後、あれよあれよという間に起業して現在にいたるわけだけど、
はっきり言わせてもらえば、一生懸命であったことが報われたと思ったことは一度もない。

「これだけ会社のために懸命に尽くしてきたのに、結果はそれかよ!」

それが現実だった。

考えてみれば、ゴールまで全身に力を込めてガチガチになりながら向かうか、
それともリラックスして向かうかなど本人の勝手である。

むしろ、同じゴールにたどり着くなら楽しいほうがよいに決まっている。
一生懸命であることを強要することは、「ダメなアドバイス」でしかない。

自分は懸命に上流に向かってオールを漕いでいた、とつくづく思う。

大海は下流にあり。

そこに自分が目指すゴールがないことを悟ったから会社を辞めたわけだ。

私の起業時の出発点は、
「一生懸命であった自分への反省」、そしてそういった言葉だけの
美徳を追いかける既成概念にがんじがらめにされた自分の
「古い考え方からの脱却」からだと思っている。
そして、今でも自分がめざすゴールは何かを常に考え続けている。
いわゆる「夢」ってやつを。

世の中には、未だに一生懸命を美徳のように思っている古い体質の人が多い。
そうしてあいもかわらず、「あくなき利潤の追求」こそが資本主義の命題だと
考えているらしい。さらに悪いことに民主主義と資本主義が混同され使われている。

この崩壊しつつある社会で、真っ先に壊さなきゃならないのは、
そうした概念なんじゃないだろうか?

あるいはよく言われるところで、

「生きてゆくために…」という言葉、

…正直よくいうもんだ、と思っている。

だって、日本人の大半は本当の意味での餓えを克服しているはずである。

もちろん、現に子供を飢え死にさせる馬鹿な親は後をたたないという現実は
あるが、それを普通に働いている人が、行動、あるいは危機意識の原点に
据えているような物言いはどうかと思う。

結局、言葉にひきずられているだけだ。
そして自分が充分豊かであるという事実に目をつぶっているだけだ。
だから他人を思いやる気持ちをもてないのだ。

私は飢え死になどしません。
これでダメなら空き缶拾いでもして生きてゆくさ、ってなもんで(笑)。

馬鹿にしたいやつらは勝手にすればいい。
So What!(だから何なんだ)といいたい。

ゴールもないのに一生懸命な生き方の中に充実感をみいだして、
生きるなんて、すごく哀れだ。

人から与えられたものではなく、自分が目指すべきゴールは自分で考える。

それしかないと思うが、そういう時間を惜しんでも一生懸命働くのが
人間の美徳だとでも思っているらしい。

そんな生き方はつまらないと思う。



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