荻野洋一 映画等覚書ブログ

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鈴木創士 著『サブ・ローザ 書物不良講義』

2012-06-15 14:07:32 | 
 サブ・ローザ(Sub rosa)。著者の説明によるとラテン語で「薔薇の下で」、転じて「陰謀をめぐらすこと」を意味するという。これを一語にまとめてサブローザ(Sabrosa)とすると、私などは元ポルトガル代表の左サイドハーフ、シモン・サブローザ(現トルコのベシクタシュ所属)を思い出してしまう。がしかし、本書における意としては、著者の師でありパトロンである石井恭二(現代思潮社の創業者)の死(1928-2011)に哀悼を表するかたちで緊急出版となったことを、「陰謀」という発想に託したものと思われる。
 正直に言うと、私はどうも著者のヒステリックで子どもじみた文体はあまり得意ではなく、今回の新著にしても赤面を禁じ得ぬ箇所も少なくない。しかしそれでも、「テル・ケル」一派の東洋における最後の末裔をみずから任じるかのごとき切羽つまった書きっぷりは、著者の面目躍如たるものがある。
 著者は、初期EP-4のメンバーである。EP-4といえば、1983年にリリースされた彼らのファーストアルバム『昭和崩御』(現タイトル『昭和大赦』)のジャケットにあしらわれた一柳展也(1980年に起きた、浪人生金属バット両親殺人事件の受刑者)の自宅写真(撮影 藤原新也)を思い出す。彼らが『昭和崩御』をリリースした当時、電柱など都内のあらゆる場所にこのジャケ写のステッカーが不法に張られていたものだ。

ゲルニカの少年

2012-06-11 13:00:57 | アート
 大作『ゲルニカ』(1937)は、パリ在住のパブロ・ピカソによって描かれ、その後ファシスト独裁政権下のスペインにこの絵を渡すことを画家が拒否したため、独裁者フランコが死ぬまでパリに留め置かれたことで知られている。
 先日私はこの作品を冒頭に掲げてテレビ番組を作ったのだが、それからたった半月ののちにフジテレビの「すぽると」内の特集企画において同じような文脈、同じようなナレーションで『ゲルニカ』が登場したので、びっくりしてしまった。うっかり「盗作だ」などと主張すると、名誉毀損で訴えられる物騒な世の中なので、まぁほこを収めるとしよう。

 ナチスドイツのコンドル軍によって人類史上初の無差別爆撃に晒されたバスク地方の小都市ゲルニカを、私が初めて訪れたのは昨年の秋のことである。この取材で素敵なご老人に出会った。ルイス・イリオンドさん、89歳。ゲルニカ爆撃の日、14歳だった彼は、前年に勃発した内戦のため学級閉鎖となった休みを利用して、銀行で雑用のアルバイトをしていたそうだ。突然、空襲が始まり、攻撃は3時間も続いたのだという。「次は、自分の頭上に爆弾が落ちるかもしれない」という恐怖に耐えながら逃げ続け、近郊の農村に避難したルイス少年は、農家の家畜小屋に入れてもらい、眠ったそうだ。
「何時間その小屋にいたのかはわかりません。私の名前を呼ぶ母の叫び声が聞こえ、私ははっと目を覚まし、小屋の外に飛び出しました。私が農村に避難するところを目撃した誰かが、母にそのことを教えてくれたらしい。生きて再会した私たち母子は、小屋の外で抱擁しました。」
 ルイスさんは言う。「ピカソは巨匠であり、彼はゲルニカ爆撃をパリの新聞で知ったのです。爆撃の惨状をじかに見たわけではありません。あの作品の芸術的な価値は疑いようがありませんが、記憶の媒介という点で認めることは私にはどうしてもできません。」
 上の写真はルイスさんが著した自伝的エッセー『El chico de Guernica(ゲルニカの少年)』(Ttarttalo社刊)の表紙である。足下の水たまりに、コンドル軍の編隊が映っている。画家でもある彼は、ゲルニカの中心街にアトリエとして別宅を持ち、私はそこもお邪魔したが、たくさんある彼の絵の中に、小屋の外で朝の逆光に照らされつつ抱擁する母子の絵も見つけた。彼にとってそれは写実表現であるのだろうが、私にはそれがデ・キリコの作品のごとく形而上的にフリーズし、どこか空々しささえ感じられた。間接的体験をもとに描かれたピカソの作品に生々しい哀しみと怒りを感じ、事件の当事者が写実的に描いた作品にフラットな空々しさを感じるのだから、絵画とは不思議なものだ。

 ルイス・イリオンドさんの兄ラファエル・イリオンド(94歳)は、アスレティック・ビルバオのレジェンドのひとりだったそうで、リーガ優勝1回、総統杯(現・国王杯)優勝4回を経験し、監督としても総統杯優勝1回を経験している。

『ファウスト』 アレクサンドル・ソクーロフ

2012-06-06 01:48:41 | 映画
 ふと気づくと、ふだんは見馴れない扉がそこにあり、だらしなく半開きとなっている。近づいて扉をそっと開けると、向こう側には、時に拡大され、時に融解したもうひとつの現実がパックリと口を開けている。
 私にとって映画というものは、そうやって受け手の方から(みずから罠にはまるようにして)接近していくものだと考え続けてきた。ところが世界には、そうでない接近方法を強要する映画作家たちがいる。フェデリコ・フェリーニ、あるいはスティーヴン・スピルバーグがそうだ。彼らは媚びるように合図をし、手招きし、あまつさえこちらの手を引っぱって「ほら、ご覧なさい」とこれみよがしに扉の向こう側を(頼みもしないのに)開陳してしまう。開陳され、われら受け手の瞳に晒されている時のみ、彼らの映画は作動する。その時以外はスイッチオフである。
 彼らの才能の大きさは承知しつつも、私は受け手として彼らのような開陳型の映画作家の作品があまり得意ではない。だからこそムキになって毎度見てきたが、つねにそれは居心地の悪い体験であり続ける。

 恐ろしいことに、新作『ファウスト』をもって、アレクサンドル・ソクーロフがそうした系譜に属さんとしているかのようである。従来のソクーロフ映画は、われら受け手が劇場の椅子に座って見始める開巻時にはすでにあらかた物語の核心は語られ終わっているかのように始まり、あとはそれについての注釈を見定めていくという案配だった。
 ところが今回の『ファウスト』の画面は、「これからいろいろとお見せするので、こっちへ立ち寄ってくれ」と言わんばかりに、やおらこちらに向き直り、矢継ぎ早にカットを割って、いろいろと並べてくる。そしてついに私は、あらぬ夢想まで抱いてしまった。「ソクーロフによる真の『ファウスト』は他にあるはずだ。いま私が目にしているのはその別テイクかメイキングか、見栄えのいいサンプルではないか。」
 よくある皮肉だが、案外とこういうものにヴェネツィアの金獅子賞といった栄誉が転がりこんでしまう。未来の観客は受賞という客観的事実から、『ファウスト』がソクーロフにとってキャリア最大の成功作だと受け取るだろう。とはいえこうしたズレも、それはそれで愉快なことのように思える。事実、画面を眺めながら、妙にうきうきとしてくるこの感覚も捨てがたいのである。


『ファウスト』は、シネスイッチ銀座(銀座・和光裏)ほか全国で順次公開
http://www.cetera.co.jp/faust/

モルナール・フェレンツ作『リリオム』(演出 松居大悟)

2012-06-03 02:59:26 | 演劇
 オーストリア=ハンガリー二重帝国出身の劇作家モルナール・フェレンツ(1878-1952)の『リリオム』がなぜか今、東京でぽろっと上演されている(青山円形劇場 演出=松居大悟)。どういう殊勝な企画者が、こんな埃をかぶった戯曲の上演を思いついたのだろうか。たしかにこれは傑作ではある。しかし上演者にとってきわめてハードルの高いレパートリーでもあるのではないだろうか。

 帝国末期の1909年に書かれた本作は、まず渡米前のケルテース・ミハーイ(のちのマイケル・カーティス。ハンガリーの人名はアジアと同様に苗字/名前の順番となる)によってブダペストで映画化(1919)されたのち、フランク・ボゼーギ(1930)、フリッツ・ラング(1934)と立て続けに映画化され、さらには『回転木馬』と改題されてブロードウェイ・ミュージカルとなり、その改題作がさらにヘンリー・キングによっても映画化(1956)された。
 かくも多くの映画作家たちに霊感を与えたわけは、暴力的な狂気の愛、現世では結局うまく伝達され得ぬ業火のように熱い愛が、ぶっきらぼうに、叩きつけるように浮かび上がるためだろう。愛の殉死者が冥界から送って寄こしたかのような戯曲である。

 作品とは、どれほどのんきな内容であっても、それを作る作者にとってはただひたすら苛酷なる厄介事である。そのことは、私のような一介の平凡な演出者でさえ日々思い知らされている。ましてやこの戯曲に手をかける幸運を得た者ならなおのこと、ボゼーギ、ラング、H・キングと連綿と続く映画的系譜をも踏まえた上で、それらを凌駕する上演を目指さねばならない使命を背負う。現代の作り手は、フリッツ・ラングを超えてみせようという図々しい意気込みを持たずして、なんのための創作者人生なのか?
 今年初めに『アフロ田中』で映画監督デビューを果たしたばかりの松居大悟が今回の上演に際して、そうした歴史的な緊張感の中でもがいたかというと、その点ではっきりと答えを見ることができなかった。
 愛の深さとは裏腹に破滅の道を選んでしまい、さらに16年後の地上への帰還においてもうまく対処できずに地獄行きに甘んじようとする主人公リリオム(池松壮亮)のマゾヒズム、周囲の人間を幸福にしたいと念じながら逆の方向に行ってしまう失敗的人生との奇妙な癒着。この癒着を表現するには、演出がやや生煮えである。美波の演じたユリアのまっすぐな愛はよく伝わった。しかしリリオムの天上での懺悔、地上での暴力、それらが渾然一体となってみずからの肉体を消滅せしめるまでの過程を、演出家は演じ手と共にもっともっと執拗に探し求めねばならない。
 かつてジャック・ドワイヨンは「ファーストテイクは犬に喰わせろ」と言った。池松壮亮の俳優としての潜在的才能はすぐにわかるが、今回の上演はまだファーストテイクの域を脱しきっていない。