荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

アスレティック 3-1 オサスナ

2011-10-18 09:23:37 | サッカー
 レサマでアスレティック・ビルバオの練習を見た印象と、今夜にサン・マメスで実戦を見た印象は、微妙に重なってもいるし、微妙にずれてもいる。ひょっとすると、ちゃんとコーチングを学んでいる人が見れば、ここに一本の線を見ることができるのかもしれない。
 10月というと例年なら冷たい雨に濡れそぼるというバスク地方は、ここ2、3年は妙な好天が続いているのだという。ワイシャツの上にテンセルの薄手ジャケットを羽織っただけの格好で、ビルバオ中心街からほど近いサン・マメスを訪れた私は、中盤から前線にかけての素晴らしいコンビネーションで、同じくバスク地方ナバーラ自治州を本拠とするオサスナを、徐々に攻略していく光景を見ることできた。と同時に、ビルドアップに雑さ、粗さを見た。
 チリを変則的な3-4-3でベスト16に導き、今季からアスレティックの監督に就任したマルセロ・ビエルサは前日の夜まで、最終ラインからのビルドアップ、中盤でのマークを外しながらのパスワーク、セットプレーの約束事、バックパスでGKに戻ったボールに対するプレスのかけ方など、「こんなことまで公開にしちゃっていいの?」というような戦術練習を綿密に組み立てていた。3分程度練習させると、すぐに止め、ラップトップPCのモニタの前にイレブンを集めて相手チームの攻略法を伝授するのである。
 そうしたビエルサの風変わりの綿密さと、今夜目撃したいかにもバスク的な勇猛なフットボールには、まだ距離がある。この距離がどのようなやり方で埋まっていくのか、興味が尽きない。

P.S.
 もろもろ最後の作業のあとでホテルに戻ると24時。翌朝早くのフライトに乗るにせよ、今夜はロケ仲間たちと一杯引っかけたい気分があったが、みんな疲れているのか、残念ながらロビーで自然解散。自室にて撮り済みの素材を整理したあと、ホテルのバーカウンターに寄ったらもう閉店していた。26時。出発を控えた深夜のビルバオ市内でひとりあちこちと飲み歩く気分にもなれず、近所のスーパー「BM」で購入したラ・リオハのクリアンサの栓を抜き、わびしくポテトチップを囓りながら飲み明かしているところである。

ゲルニカにて

2011-10-15 08:54:16 | 身辺雑記
 ピカソ作『ゲルニカ』(1937)のモデルとなった、バスク地方ゲルニカ市を訪れた。ナチス・ドイツのコンドル軍団によるゲルニカ空爆は、人類史上初の無差別爆撃として知られる。その惨状はピカソの絵画によって世界中の知るところとなったが、地元の人々は、アンダルシア出身でかつ爆撃時にはすでにパリで名士となっていたピカソによって描かれたことじたいに疑問を隠さない。しかし、世界の成り立ちとは常にそういうものである。私などはゲルニカという固有名詞をピカソどころか、上野耕路と戸川純のデュオによって初めて知った口なのである(ちなみにゲルニカの1st Albumは今もってわが愛聴盤)。
 ゲルニカ平和祈念博物館の玄関前で、爆撃の被災者ルイス・エリオンドさんと待ち合わせ、被災の実態についての記憶を語ってもらった。エリオンドさんは今年5月、自伝的小説『El chico de Guernica(ゲルニカの少年)』をTtarttalo社から上梓したばかりである。
 彼の自宅兼アトリエにも寄った。彼自身が描いた絵を見せてもらった。爆撃直後の夕日をバックに母と息子が抱擁している。素朴な感傷主義と批評することもできるが、爆撃でいったん生き別れとなった母子の再会の歓喜が直裁的にあふれ出している。私たちは、この直裁的な感傷と、ピカソによるアヴァンギャルドな普遍性の両方を肯定せねばならないだろう。

 ゲルニカから、宿を取っているバスク地方の中心都市ビルボ(ビルバオ)市内に戻ると、ちょうどバスク独立を主張する大規模なデモに出会うという僥倖に恵まれた。当然、私たちのカメラアイは、「Independencia! Independencia!(独立を!)」と叫びながら練り歩くデモの民衆、そしてアジ演説をぶつ政治家に向けられ、めいっぱい回されることになる。

パブロ・ピカソ作『ゲルニカ』

2011-10-13 02:42:30 | アート
 マドリー・アトーチャ駅前にあるレイナ・ソフィア芸術センターにて、パブロ・ピカソの『ゲルニカ』を撮影。縦3.5m、横7.8mの巨大な絵画。1937年4月26日、バスク地方ゲルニカの町が、フランコ派を支援するナチス・ドイツのコンドル軍団の空爆を受けた。ピカソはパリでその報道を見て、わずか1ヶ月で本作を仕上げたのだという。
 1階のミュージアム・ショップには、この作品のTシャツなどグッズがもろもろ売られてはいるが、だれがも粛然としてしまい、買う気になれないという人も多いのではないか。
 この大作をより良くフレームに収めてみせようともがいていると、大学時代に授業内で見せられたアラン・レネの短編『ゲルニカ』(1949)を思い出した。あれもいろいろと工夫して撮られていたものだ。

ヴァイスビアーとヴァイスブルスト

2011-10-10 06:58:52 | 身辺雑記
 仕事でヨーロッパに来ている。成田からルフトハンザ機で、オクトーバーフェスト(Oktoberfest)に沸くミュンヘンに到着。さっそくバイエルン州特産、エアディンガー社のヴァイスビアー(白ビール)を仁藤慶彦プロデューサーと共にラッパ飲みしながら、ヴァイスブルスト(白ソーセージ)とプレッツェルを食す。機内が寒かったため風邪を引きかけているが、この間食でかんたんに体が温まってくれた。
 いつも思い浮かぶ月並みな感想だが、土地の食べものというものはつねに、その土地の気候風土の中で生きていくための元気の素がつまっているような気がする。酷暑のアンダルシアにおけるガスパッチョなども、その典型だろう。

4S

2011-10-09 00:00:10 | 身辺雑記
 1992年のことだった。製作プロダクションの助手をやりつつ自主映画を作りながら、「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」という季刊映画雑誌の編集委員もつとめていた私は、編集代表である梅本洋一の愛用マシンを通して「マッキントッシュ」と出会った。
 梅本編集代表曰く、ジャック・リヴェットの撮影現場ではマッキントッシュなる名前のコンピュータが活用されている。パスカル・ボニゼールとクリスティーヌ・ロランのふたりの脚本家は、「AppleTalk」なる聞き慣れぬプロトコルでたがいの作業の進展を参照し合いながら、撮影現場の近くで脚本の手直しを行っているのだ。作家主義映画と最新テクノロジーの融合は、まだ20代だった私を魅了した。
 その3年後、私は愛用の東芝「Rupo」をついに捨て、ようやく最初のコンピュータを手に入れた。樋口泰人がPowerMacに買い換えるというので、秋葉原の電気街まで私が車を出し、当時は東小金井にあった樋口家まで購入したばかりの新品を運搬してあげる代わりに、奥様のおいしい手料理を振る舞われたあげく、樋口さん本人からはそれまで愛用していた「Macintosh LC II」を譲ってもらう、という役得ぶりであった。
 このマシンを使ってClaris Worksでのテロップの作成方法を学び、紙焼きスーパーの桎梏から逃れることができ、次いでMacromediaから買収した技術を転用してAppleからリリースされた映像編集ソフトウェア「Final Cut Pro」が、われわれをVHSオフライン編集のくびきから解放した。以後10余年にわたり、まさにいま現在においても、私の生活費はほぼすべて「Final Cut Pro」が生み出してくれている。人生そのものの恩人である。

 「彼」のナマの姿は一度だけ見たことがある。2002年3月に有明ビッグサイトで開催された「MacWorld Expo」の基調講演で、「彼」は1920x1200のモニタを自慢そうに披露し、5GB容量にすぎないiPodをこれこそ革新の容量だと喧伝していた。そのエキスポの一週間後、私は番組のロケでオランダにいた。そこではオランダ人コーディネータが、発売されたばかりの5GB iPodを早くも入手していた。その小さな機械を囲んでオランダ人クルーたちと記念写真まで撮った思い出がある。

安らかに。

P.S.
写真は「MacWorld Expo 2002」のスナップ。見にくいが、彼は画面下位置に小さく写っている。