荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』 木村威夫

2009-12-17 01:25:32 | 映画
 美術監督の木村威夫が監督したものを、今回『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』で初めて見たが、これが思わぬ傑作であった。日本におけるシュルレアリスムの根城となった伊藤憙朔(築地小劇場)周辺ゆかりであることの証明となっており、それが特に後半、爆発的なまでに露呈している。

 主人公の植物学者・牧先生(原田芳雄)というのはおそらく、南方熊楠と共に、明治後期から大正の自由教育の一翼を担った “草木の精” 牧野富太郎博士(文久2-昭和32)に対するオマージュであろう。日本におけるボタニカルアートの祖である牧野博士を写した、すばらしい写真を何葉か見たことがある。腰まで山川草木に身を晒した写真、孫たちに囲まれて満面の笑顔を浮かべている写真…。
 経済的に逼迫した牧野博士が、羽仁もと子や西村伊作、与謝野夫妻らと共に大正自由教育の指導者だった、池袋の中村春二によって援助を受け、主宰していた日英両文の雑誌『植物研究雑誌』の刊行を続けることができたのは、木村威夫がまだ4歳だった1922年のことである。春二の息子・中村浩の『新伝記文庫 牧野富太郎』によれば、雑誌が生き返ったうれしさのあまり、博士は巻頭言に、「枯草(こそう)ノ雨ニ遭ヒ、轍鮒(てっぷ)ノ水ヲ得タル幸運ニ際会スルコトヲ得、秋風蕭殺(しゅうふうしょうさつ)ノ境カラ、急ニ春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)ノ場ニ転ジタ」と書いている。牧野によるきわめて美しい原色植物図鑑や植物随筆は、依然として入手容易である。
 これは、やがて至る1930年代のモダニズム、池袋モンパルナス、さらには先日言及した巣鴨の映画撮影所に繋がるものであろう。これらのことに思いめぐらせる時、本作はじつに含蓄を含んだ作品であると思われたのだ。


三原橋・銀座シネパトスにて、18日(金)まで上映
http://airplanelabel.com/ougonka/

『イングロリアス・バスターズ』 クエンティン・タランティーノ

2009-12-15 13:13:15 | 映画
 クエンティン・タランティーノの新作『イングロリアス・バスターズ』を見ていると、すぐに時間が経過してしまう。「もう少し見続けていたい」という思いが、何やら切なく胸に通り過ぎていくのである。通常はディレクターズ・カットであるとか、バージョン違いの特典映像といった類にはまったく関心を示さない者でさえも、「マギー・チャンが登場するとかいう幻のロング・バージョンが現れたら、また見てもいいかな」などとつい思い込まされてしまう、そういう魔力がある。
 タランティーノの近作の充実ぶりに、正直に言うと、大変ショックを受けている。もはや巨匠の風格である。ただ、ゴダール、ベルトルッチ、ヴェンダース、ロメールらと違って、これといった有望なエピゴーネンを今のところ生み出していない。世界の映画青年たちの心を鷲掴みしているわりには意外なことだが、タランティーノの模倣は、やめたほうがいい。
 しかしとにかく、現在のタランティーノは面白い。今どき、映画ネタの引用行為を嬉々としてぶちまけて、鼻つまみものにならないほどの可愛げと魅力があるのだから、タランティーノ映画には、もはや人徳みたいなものが備わっているとしか言いようがない。


TOHOシネマズ日劇他、全国で上映中
http://i-basterds.com/

庭劇団ペニノ『太陽と下着の見える町』

2009-12-11 11:47:11 | 演劇
 〈フェスティバル/トーキョー09秋〉の一環として、東京・豊島区のにしすがも創造舎で上演中の庭劇団ペニノ『太陽と下着の見える町』(作・演出 タニノクロウ)は、私にとって今年のベストワンと言える演劇作品だった。強迫的なまでに清潔な、白を基調とするセットの中で、何組かの人々がまったく別のエピソードを演じる。セットは4つのユニットと1つのバルコニーによって区切られ、ドア奥の見えない空間によって通底し、たまに人物同士が往来するものの、それでもたがいのユニットで演じられるエピソードは、わずかな接点しか持たない。各劇は断片化され、途中ですぐにブラックアウトして、暗闇に大音量のノイズが鳴り響く。上演時間1時間半のうち1/4くらいが、暗闇にノイズだったのではないか。1~2ユニットだけ照明がたかれて「オン」の上演がなされ、別のユニットでは暗がりの中で「オフ」の芝居が静かに続行されているケースもある。
 精神科医でもあるタニノの前作『苛々する大人の絵本』は、青山の古いマンションの一室を上下2層構造に改良して上演された実験的、ミニマリズム的な作品だったが、より大きな予算の与えられたこの新作では、狂気についての省察はより直接的になり、セットの上下2層構造は、簡素ながら驚くほど大がかりとなった。各ユニットにはベッドが設えられているため、ここが精神科の入院施設であることは明らかだろう。バルコニーと階上のユニットを往来する2組の男女は、医師とナースにも見えるし患者にも見える。オリヴェイラ『神曲』、衣笠貞之助『狂った一頁』といった過去の映画作品が、舞台を眺めながら頭をよぎった。
 しかし、前作で素描された、床下の地下茎、樹液といったメルヘン的に擬装された主題群は、今回は「下着への執着」という通俗的なものに置換されてしまった。この点が少し気に入らなかったが、バルコニーの男が2度にわたって「私の名はパンティ」などと滑稽に名乗ることで、なんとか中和されてもいた。

P.S.
右上の写真は、会場の「にしすがも創造舎」(廃校となった区立朝日中学校のリノベーション)が、戦前に天活、国活、帝キネ、河合映画、大都と転々と持ち主の変わった「巣鴨映画撮影所」であったことを示す記念プレート。巣鴨は往時、日本最大の映画量産地だったらしい。ちなみに、閉所前の最後の持ち主だった大都は、その後は戦時統合をへて大映→角川映画と変遷。


『太陽と下着の見える町』は、〈フェスティバル/トーキョー09秋〉内で今週日曜まで上演
http://festival-tokyo.jp/

『モンパルナスの灯』 ジャック・ベッケル

2009-12-08 21:33:27 | 映画
 今週の金曜・土曜(11、12日)両日の朝9時半から、東京・銀座一丁目の銀座テアトルシネマ〈ジェラール・フィリップ没後50年企画〉で、わが偏愛の1本『モンパルナスの灯』(1958 監督ジャック・ベッケル)が上映される。
 早死にした画家モディアーニとその愛妻ジャンヌの愛と酒と生活と死が、ジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメという、比較する者のない端正な美男美女によって演じられた本作は、ベッケル演出を堪能するという点では、他作品に一歩譲るものの、ヌーヴェルヴァーグ前夜のフランス映画の粋に思いを新たにするという点では、恰好の例である。
 困窮ゆえパリ画壇を追われ、ニースに隠遁するジェラール・フィリップのもとを訪ねたアヌーク・エーメが、陽光あふれるニースの坂道を大きな荷物を抱えて上がってくるのを、坂の上で相好崩して迎えるフィリップのなんと美しいことだろう。破滅と死がもうそこまで来ているというのに、いやそれゆえにこそ、あの坂道はあんなにも輝いているのであろう。

 本作を見る機会というのは、珍しくもなんともないかもしれない。しかし、朝9時半から『モンパルナスの灯』を見て、そのまま引き続いて、オータン=ララ監督、オーランシュ&ボスト脚本の『赤と黒』(1954)を見る、というのがいいような気がする。貴方なら、どちらの作品と作家を支持しますか、という二者択一がいまもって有効であるかどうかは、この際どうでもいいのである。もちろん私はベッケル派であります。


〈ジェラール・フィリップ没後50年企画〉は、銀座テアトルシネマにて開催中
http://www.cetera.co.jp/akatokuro/

『アンナ・クリスティ』 クラレンス・ブラウン

2009-12-06 11:18:36 | 映画
 録り貯めたHDDの中から、クラレンス・ブラウン『アンナ・クリスティ』(1930)を見、にわかに懺悔の念を抱かざるを得なかった。というのも私は昔、レンタルビデオか何かは忘れてしまったが、この作品を途中まで見てやめてしまったからなのだが、これは若気の至りというもので、おのれの愚かさに遅まきながら気づかされた。ユージン・オニールの戯曲を、3~4人の役者がただ延々とぶっきらぼうに演じているだけであるため、その時はこの作品の、質素な中にもきらりと光る上質さを理解できなかったのだ。
 夜の商売をしていた過去を隠したまま、船乗りと恋に落ちて苦悩するグレタ・ガルボをはじめ、口は悪いが心根の優しいアル中老女役のマリー・ドレスラーなど、登場する演技陣が全員すばらしく、ガルボの興奮すると巻き舌になる北欧なまりのドスの利いた英語がとても色っぽく聞こえる。

 また、ブルックリンの波止場周辺のロケとセットを取り混ぜた撮影は、荒々しくも寂寥感を帯びた風情を醸し出す(まさに、大恐慌の震源地ニューヨークの生の記録だ)。撮影はウィリアム・H・ダニエルズ(1901-70)で、この人はグレタ・ガルボの “専属” と言えるほど、数多くファインダ越しにガルボを覗き続けた人。サイレント期にはクラレンス・ブラウンのほかエーリッヒ・フォン・シュトロハイム(『グリード』『メリー・ゴー・ラウンド』)とも組んだし、戦後にコンビを組んだ監督も、エルンスト・ルビッチ、ジョージ・キューカー、アンソニー・マン、ダグラス・サーク、ジーン・ネグレスコなどと、泣く子も黙る名が並ぶ。たとえばルビッチ『桃色の店』の画面の美しさなど、見た人は忘れられまい。
 ダニエルズ同様、監督のクラレンス・ブラウンもガルボの恩人で、ハリウッドの歴史にその名を永遠に刻まれるべき存在であることは、なにも私のような輩が今さら言い立てるまでもない。「品格と豪華な演出」の人という、淀川長治による賛辞を思い出すだけでじゅうぶんである。