荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『64 ロクヨン』 瀬々敬久

2016-06-24 08:15:41 | 映画
 『64 ロクヨン』の前編につづいて、ようやく後編も見終えた。原作の映画化という制約の中で、監督の瀬々敬久はすばらしい仕事をしている。小説にしろ漫画にしろ、原作のファンは必ずといってその映画化の内容に不満を持つ。彼らの不満に耳を貸すのもいいが、映画作家はそれでも我が道を行くべきである。小説や漫画の原作よりも映画そのものの方が大事だからだ。

 群馬県のある街で、身代金目的の少女誘拐、殺害事件が迷宮入りする。時効を1年後にひかえ、いっきに事件解決になだれ込む後編のストーリーラインがやや凡庸に思えた。しかし前編における、事件当時の焦燥が募っていく迫真の描写がすばらしい。事件捜査は失敗に終わり、少女はポンコツ車の後部ボンネットから絞殺死体で発見される。
 地方都市を舞台とする少女誘拐と殺害。映画はヒッチコック寄りに(楽器演奏のように)作ることも可能だし、シャブロル寄りに(タナトスの品評会のように)作ることも可能であった。しかし、瀬々敬久はそのどちらの戦術も採らない。内田吐夢の『飢餓海峡』のような悪夢残存劇を採用しつつ、瀬々自身の作風へと強烈に引きつけていく。この作品は、瀬々自身の最高傑作『ヘヴンズ ストーリー』(2010)のメジャーにおけるリメイクであり、セルフ・トリビュートでもあるだろう。
 事件に対する悔恨と悲しみはその後も、被害者一家の残りの人生を支配し、捜査を担当した刑事たちの人生をも狂わせていった。むしろこの映画は事件そのものではなく、この波及効果の描写への注力によって定義づけられていく。事件当時の刑事で、いまは群馬県警の広報官である主人公(佐藤浩市)がどれほど奮闘し、もがこうと、さらには警察組織とマスコミ各社が事件の後始末でどれほど紛糾しようと、すべては被害者への慰霊へと、レクイエムへと帰着するほかはない。そして、「大事な子どもを失った家族」の「子どものいない時間」が抽象化し、普遍化し、人も場所もその時間を休みなく見つめ、その静謐な地獄に留まり続ける。


TOHOシネマズ日劇ほか全国で上映
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