荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『ブルージャスミン』 ウディ・アレン

2014-06-02 06:06:18 | 映画
 小林信彦が『ミッドナイト・イン・パリ』をけなして『ローマでアモーレ』を良しとするのは、この人の “アレン・ウォッチャー” としての自己韜晦が過剰に表出した結果としての言いがかりに過ぎないのではないか、というふうにだいぶ割り引いて取る必要がある。たしかに、アレン本人が出演しているかいないかは依然として大きいものがあり、『ローマでアモーレ』ではアレン本人が脇役ながら登場して、ローマへの飛行機の中で墜落への恐怖で年甲斐もなく動転してみせるなどというシーンが挿入されるだけで、見ているこちらも得したような気分になる。ひるがえって、オーウェン・ウィルソンが演ろうがケネス・ブラナーが演ろうがショーン・ペンが演ろうが、ウディ・アレンが自己の分身をほかの俳優に託した場合、それはあくまで擬態としての限界体験を出るものではないのである。
 しかしながら、仮にアレン本人が出ない場合でも、今回のケイト・ブランシェットのように女優が彼の代わりに、世界の苛酷さと接しあうとなると、がぜん凄味、苦味が増すのは、中期の『アリス』(1990)、『私の中のもうひとりの私』(1989)を思い出させる。女性のアイデンティティ・クライシスを扱うにあたり、ケイト・ブランシェットという高慢を絵に描いたような女優の出演は、本作にいつにも増した力をもたらしているのは明らかだ。
 本作を見てカサヴェテス映画におけるジーナ・ローランズを想起するのは決して間違いではないが、その前に出るべき名前は、『欲望という名の電車』『渇いた太陽(青春の甘き小鳥)』『しらみとり夫人』で、セレブ気どりのいけ好かない女たちの滑稽さ、俗物ぶりを描かせたら右に出る者のいなかった、テネシー・ウィリアムズの名前でなければならない。彼女のジャスミン・フレンチという名前の軽薄さは、いわばテネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』における、上流階級の高慢さと虚栄心が抜けきらず、庶民的な妹やその粗暴な夫から忌み嫌われるヒロイン、ブランチ・デュボワの似非フランス風を多分に継承しているだろう。
 トルーマン・カポーティ原作『ティファニーで朝食を』のホリー(オードリー・ヘプバーン)や、F・スコット・フィッツジェラルド原作『華麗なるギャツビー』のデイジー(ミア・ファロー/キャリー・マリガン)といった、セレブ気どりで虚栄心まみれの女たちを、アメリカの20世紀は飽くことなく描いてきた。『ティファニー』も『ギャツビー』も、冷静な作者の分身(まだ世に出ていない無名のライターという立場)が登場して、彼女たちの生きざまをちゃんと見届けてくれていたわけだが、『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワにも、そして今回の『ブルージャスミン』のジャスミン・フレンチにも、そうした一部始終を見届けてナラタージュ構造に包摂してくれる存在があてがわれていない。情け容赦がないという点で、ブランチとジャスミンは同じ状況下に置かれているのである。


シネスイッチ銀座(東京・銀座四丁目)ほか全国で上映
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