荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『鉄くず拾いの物語』 ダニス・タノヴィッチ

2014-02-09 14:22:06 | 映画
 ボスニア・ヘルツェゴビナの映画作家ダニス・タノヴィッチの最新作『鉄くず拾いの物語』は、流産と診断され、お腹に死児を宿したままのロマ族女性が、健康保険証を持たないため掻爬手術に高額な費用を請求され、支払えぬまま死にかけてしまうという実話を映画化したものである。
 この作品の特徴はなんといっても、主人公のロマ族夫婦、2人の小さな娘たち、そしてロマ集落の隣人たちもふくめ、実際のできごとにかかわった張本人たちが演じていることである。現実の再現=反復である。治療を拒否した医師の役はさすがに監督の知人が演じたそうだが、現地でも非人道的事件として報道された以上、これはしかたないだろう。
 撮影は、ロマ族夫妻の実際の自宅で、おもに夫役の男性からできごとの説明を受けながらシナリオなしで進められた。ダニス・タノヴィッチは妊婦本人ではなく、夫を主人公に据え、「監督としては本当に何も演出していないし、何をしたかというと、彼にとって居心地の良い空間を作ったということ」と述べている。一方法論としての演出放棄である。
 実際のできごとの再現=反復といえば、在日コリアンの映画作家ヤン・ヨンヒによる『かぞくのくに』(2012)が記憶に新しい(これの場合はプロの俳優による再現=反復だが)。ヤンは帰国運動のさかんな時代に北朝鮮に渡った彼女自身の兄について描くにあたり、いま撮影しているシーンがいかに実際のできごとと同じであるかに心を砕いていたという。ここでは、シネマはファクトに完全に主導権を握られている。北の工作員役のヤン・イクチュンの異物性がただ一点、あの作品をシネマにつなぎ止めていたように見えるが、『かぞくのくに』は実際のところ、いかんともしがたくシネマそのもので、それ以上でもそれ以下でもないというのが、映画というものの過酷な現実であることは言うまでもない。
 『鉄くず拾いの物語』もまた同様である。起きてしまった事実を作為ぬきで再現=反復しただけなのに、これはどうしようもなく映画なのである。死にかけている妻をどう助けていいかわからず、進退窮まった主人公がハンマーと斧で自分のおんぼろオペルを解体し、鉄くずへと変貌させていくシーンは、映画それじたいのみごとな露呈であった。


新宿武蔵野館、梅田ガーデンシネマほか全国で順次上映
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