現在、頸椎ヘルニアを患っており、あまり分厚い本、重量のある本は読むことができない。したがって文庫やら新書やら、積ん読のままにしていたものを、移動途中などに読み荒らしているのだが、昨日今日と小沢昭一の名著の譽れ高い『ぼくの浅草案内』(ちくま文庫)を読んでいる。
東武線の曳舟駅を起点にして、向島から言問橋で隅田川を渡り、観音裏の味わい深い町並をぶらつくというのが、僕の花見の季節のコースなのであるが、浅草という街は、自分にとってはいまだに異郷性、というかアウェー感覚が抜けきれない街である。過剰なノスタルジー性に胸焼けしてしまうというか。たとえば日本映画の旧作を見るにしても、六区でなんかより、大井武蔵野館や銀座並木座、三百人劇場の方がしっくり来てしまうという、まぁ根が田舎モノなのだろう(いま挙げた映画館はすべて全部なくなってしまったけれども)。
そんなわけで小沢昭一の本でも読んで少しは勉強しようかと、しみったれた向上心を抱いたものの、この本の最大の欠点はやはり、下戸が書いた本であるという点だろう(!?)
東武線の曳舟駅を起点にして、向島から言問橋で隅田川を渡り、観音裏の味わい深い町並をぶらつくというのが、僕の花見の季節のコースなのであるが、浅草という街は、自分にとってはいまだに異郷性、というかアウェー感覚が抜けきれない街である。過剰なノスタルジー性に胸焼けしてしまうというか。たとえば日本映画の旧作を見るにしても、六区でなんかより、大井武蔵野館や銀座並木座、三百人劇場の方がしっくり来てしまうという、まぁ根が田舎モノなのだろう(いま挙げた映画館はすべて全部なくなってしまったけれども)。
そんなわけで小沢昭一の本でも読んで少しは勉強しようかと、しみったれた向上心を抱いたものの、この本の最大の欠点はやはり、下戸が書いた本であるという点だろう(!?)