布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

フィリピの信徒への手紙4章10~23

2005-03-09 23:45:08 | 聖書
東京チャペルで聖研に出席。ピリピ書がテキストのアフターアルファ「価値ある人生」9回シリーズの第9回。

テーマは献金。

パウロは貧しさの中にいても豊かさの中にいても平気。

「与えることの三重の喜び」として、
(1)気前よく与えることは他の人の喜び(10~16節)
(2)気前よく与えることは与える人の喜び(17~18節)。蒔く量で収穫が変わるのだから、与えることは将来への投資であるという。
(3)気前よく与えることは神の喜び(18~19節)

(1)について。「イエスはヘブライ語を話したか」(ダヴィッド・ビヴィン/ロイ・ブリザード〔著〕、ミルトス出版)によれば、ヘブライ語で「目が明るい」は「気前がよい」の意味であり、「目が暗い」は「ケチ」の意味だそうだ。つまりイエスは「あなたが気前がよいなら、全身が光の中にある。あなたがケチなら、全身が闇の中にある」と言ったわけだ。

(2)は、日本人ならよくわかる。「情けは人のためならず」ってやつだ。

献金ということでは、フリートークの時間にも話したのだが、「惜しみなく、喜んで」というモーセ(を通してのヤハウェ)の言葉があるが、一方で犠牲と痛みがないならキリストの犠牲とヤハウェの痛みに応えることにはならない。献金における犠牲と痛みとは、惜しむ心だろう。とすると聖書は「惜しむ心との戦いを持ち、かつ惜しみなく」「痛みながら、かつ喜んで」と言っているわけだ。アンビバレンツというかアンチノミーというか。

以下は、フリートークの中で出た話題からいくつか。
・献金祈祷で「わずかですがお捧げします」という謙遜は正しいのか。「精一杯捧げます」でよいのではないか。
・生活が破綻するほどまで献金したとして、主はよしとされるか。
・もし急に10億円を手に入れたら、10分の1献金でよいのか、全部献金してしまおうか。
・ある教会では献金を「返金」と称している。ある教会では「献身」と称している。
・10分の1といっても、収入20万円で2万円をささげて18万円で生活するのと、もっと大きい収入で1割をささげて9割で生活するのとでは、違うのではないか。
どれもおもしろいテーマで、論じるには時間がなかったし、そもそも正解があるのかどうかもわからないが、考える意味はあるだろう。

「価値ある人生」は今日でおしまい。ゴールデンウィークあけくらいから、またアルファコースをやるそうだ。
それまでは、聖書の中の賛美について学んでいく予定とか。聖書中の詩についてだろうか、音楽についてだろうか。
詩についてなら、神学的な知識もろくにない少女が詠った「マリアの賛歌」が好きだし、「呪いの詩篇」と言われる詩篇109なんかもちゃんと学んでおきたいところ。
音楽についてならもっとフリートークが楽しみ。(オルガン&斉唱の伝統的な賛美よりも、タンバリンのごとき打楽器と竪琴のごときギターによるワーシップのほうが聖書の登場人物の賛美に近いと思うので)

来週以降も19:30スタートとのことなので、中野に行くのが難しい時には(と言い訳しながら)木場(東京チャペル)に行こう。あ、でも長原(いのちの泉キリスト教会)にもいきたいしなぁ。