布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

聖書の音楽史

2005-03-30 23:01:11 | 聖書
堺福音教会・東京チャペルの水曜集会は、3回シリーズの「聖書の音楽史」の最終回として、新約聖書の音楽史。

・新約聖書では、音楽についての言及はほとんどない。
・ただ、イエスも弟子たちも賛美を歌ったことは、マタイ福音書26:30に記録されている。
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

・捕囚以降、神殿での(祭司主導の)礼拝と、シナゴーグ=集会での(信徒主導の)礼拝が両輪となっていって、イエスや弟子たちも神殿に詣でる一方で、安息日には会堂に入ったことが記録されている。
・イエスと弟子たちが賛美を歌ったのも、シナゴーグでの礼拝様式とあまり違わないスタイルの中での賛美だろう。

・一方、パウロはコロサイ書3:16で、神に向かって歌うべきだと教えている。
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

・この中で、詩、賛美、霊の歌とは以下のようになる。
詩篇、つまり(旧約)聖書の中に記されている賛美を指す
賛美実際に歌われている賛美。たとえば使徒16:25でパウロとシラスが歌ったような。
霊の歌聖霊がうながすままに内面からあふれ出る賛美


さて。

初代教会時代に聖書といえば旧約聖書のことだったけど、現代から見れば新約聖書の中の詩(たとえばマリアの賛歌など)も「詩」に入るのだろう。

現に歌われている「賛美」とは、旧賛美歌、賛美歌21、聖歌、こどもさんびかなどはもちろん、歌声運動も懐かしいゴスペルフォーク、「天使にラブソングを」なブラックゴスペル、ミクタムなワーシップソング、などなど、神を賛美して歌われるすべての歌による賛美だろう。

「霊の歌」は、まず異言で歌う賛美がそれで、福音派育ちの坂井には、いまだに異言というのがよくわかっていないので難しいのだけど、市原シャローム教会いのちの泉キリスト教会でも異言で賛美する兄姉を見てきたし、東京チャペルでも今日あった。


ただ、聖霊によって歌があふれるということでは、異言に限らないと思う。
だって、バッハやモーツァルトに、聖霊の働きはなかったとは言えないだろう。
山内修一や小坂忠が、聖霊の導きで歌を紡いでいるのではない、とは言えないだろう。
本田路津子森祐理やレーナ・マリアの唇に聖霊が触れていない、とも言えないだろう。
(異言による賛美を否定してるんじゃなくてね。「異言ばかりだと(自分の信仰にはよくても)周りがドン引きするよ」と書いたパウロだから、異言だけにフォーカスして「霊の歌」と言ったわけじゃないだろうなと。)

ところで、「詩と賛美と霊の歌と」には、「過去・現在・未来」という構図もあるんじゃないかと思った。つまり、
、旧新約聖書の時代に歌われていた賛美
賛美現在、私たちが実際に歌っている賛美
霊の歌聖霊の導きによって今もこれからもあふれ出す賛美

というように。

としたら、「伝統賛美orワーシップ」ではなく「伝統賛美andワーシップ」が聖書の答えになるのかなと。
あまりいないと思うけど、もしワーシップ好きなクリスチャンが「旧来の賛美歌は古臭くて、とても心をこめた賛美はできない」と思っているとしたら、「でも、もっと古い詩篇は読むでしょ?」と答えよう。
時々いるような気がするけど、もしワーシップに否定的なクリスチャンが「『新しい歌を主に向かって』と言っても、新しきゃいいってもんじゃない」と思っているとしたら、「でも伝統的な賛美歌も、初めて歌われた時には革新的な『新しい歌』だったんじゃないの?」と答えよう。

それに、新しいものといっても100%新しいということはない。必ずそれまでの潮流があって、その上に新しいものがうまれてくる。だから、古さが新しかったり、新しいと思ったものが実は昔もあったものだったりする。

たとえばロックもラップもポエトリー・リーディングも、伝統的な賛美歌より新しい音楽だろう。

ところが、詩篇の詩人はロックのようにシャウトして賛美した。
ヘブライ詩はビートも音程も自由でアクセントの強弱で歌うというラップそのものな形態だったそうだ。というかヘブライ詩は、ラップにつきもののライムからも自由なのだそうだ(音で韻を踏む代わりに、歌詞の意味で韻を踏む「平行法」というスタイルがあるのだそうだ)
ポエトリー・リーディングなんてそれこそ、中世以来のいわゆるチャントそのままなんじゃないだろうか。

「新しい音楽を、新しい表現を」と進んできたはずが、実は昔に帰っただけだったりするわけだ。


※ 聖書の引用は新改訳より。

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