布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

神の国と神の義を

2005-03-13 18:30:00 | 教会
千葉バプテスト教会に出席、このところ名誉牧師やゲストスピーカーの説教が3週間続いたので、調牧師の説教は久しぶり。
具体的にどこがどうというのではないのだけれど、なんか、いい説教だった。平安というか、なぐさめというか、なんだろうな。「がんばりすぎなくてもいいんだよな」という感じ。いや、それほどがんばってたわけでもないのだけど。
時々「今日のメッセージは、私だけのために語られた」って感じることがあるけど、今日はそんな感じでした。

本題はそんな感じとして、枕ではサタンの扱いの難しさについて触れておられた。アルファコースでニッキー・ガンベルも言ってたけど、サタンに無関心になればそれは無防備ということにもなるし、サタンを恐れすぎてもいけないわけで。
ただ私が思うには、サタンに触れなさ過ぎるほうが弊害が大きいような気がする。サタンがわからないと罪がわからないし、罪がわからないと救いもキリストの十字架もわからなくなるわけで。

教会立幼稚園で節分をやることの是非もあるけど、私はやればいいと思う。ただしそれは聖書的なものにアレンジして。
「罪は外、救いは内」でもいいし。
「サタンは外、マラナ・タ(主よ来たりませ)」でも・・・あいや、これはわからなくなるか。

キリスト教の伝道の歴史って、宣教地での文化との融合の歴史(ただし福音としての芯をはずさない範囲で)だと思う。
クリスマスツリーだってドイツの土着宗教から取り入れたものだし、イースターという言葉自体が異教から取り入れたものだし、多くの教会でも、七五三の頃に幼児祝福式なんてやってるわけだし。
たとえば、滝をさかのぼった鯉が龍になるという伝説から生まれた「鯉のぼり」だって、「龍はサタンの象徴だ」なんて言うよりも「艱難は忍耐を生み・・・」とやるほうがよっぽどいいと思うわけ。


今日は子供メッセージを担当。「聖書教育」の教案は範囲がJOH18:1-27と広すぎて、しかも主題が「苦しみを引き受けるイエスさま」とかなり難解というか高度な内容。
自分なりに考えてはみたがまとまらず、ペテロの否認を中心に「主の受難は私たちの弱さを覆うため」という(教案誌からやや乖離した)筋にした。

嫁さんのみならず、今週も千葉教会に出席した弟からも「声が聞こえねぇ」とダメ出し。(嫁さんからは「先週よりはマシ」と言われたが)。
礼拝堂の音響のせいか、自分では十分に声が出ているつもりになってしまうのかもしれない。

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