洗足木曜日記念聖餐式。
洗足木曜とは、イエスが十字架にかけられる前の晩、いわゆる「最後の晩餐」の際に、主であるイエスが弟子たちの足を洗い、「あなたがたも互いに仕えなさい」と教えた夜のこと。
多くの(たぶんほとんどの)教会で、最後の晩餐を記念して聖餐式がおこなわれる。
久しぶりに中野教会で培餐に与ることができた。
説教の中で注意を引いたのが、すでに体が清い者は足だけ洗えばよいというところ。救われても、罪から離れて生きるのは難しい。しかし、ひとたび救われた者はすでに全身が清くされているのだから、すべてを主の血であがなわれているのだから、足だけを洗えばよい、主は私の足を洗い続けてくださっている。
アーメン。
しかし、主が今日も私の足を洗いつづけてくださるからといって、だから罪を犯しても大丈夫というわけではない。
足を洗うのは奴隷の仕事だった。主が足を洗い続けてくださっていることに感謝しつつも、それは主を奴隷におとしめたままにしているということだ。
口で「愛する主よ」と祈りながら、罪を犯すたびにその主に奴隷の仕事をさせているとしたら。
イエスが足を洗おうとしたときに、ペトロが拒否しようとしたのは、あまりに恐れ多かったからだろう。
洗足木曜とは、イエスが十字架にかけられる前の晩、いわゆる「最後の晩餐」の際に、主であるイエスが弟子たちの足を洗い、「あなたがたも互いに仕えなさい」と教えた夜のこと。
多くの(たぶんほとんどの)教会で、最後の晩餐を記念して聖餐式がおこなわれる。
久しぶりに中野教会で培餐に与ることができた。
説教の中で注意を引いたのが、すでに体が清い者は足だけ洗えばよいというところ。救われても、罪から離れて生きるのは難しい。しかし、ひとたび救われた者はすでに全身が清くされているのだから、すべてを主の血であがなわれているのだから、足だけを洗えばよい、主は私の足を洗い続けてくださっている。
アーメン。
しかし、主が今日も私の足を洗いつづけてくださるからといって、だから罪を犯しても大丈夫というわけではない。
足を洗うのは奴隷の仕事だった。主が足を洗い続けてくださっていることに感謝しつつも、それは主を奴隷におとしめたままにしているということだ。
口で「愛する主よ」と祈りながら、罪を犯すたびにその主に奴隷の仕事をさせているとしたら。
イエスが足を洗おうとしたときに、ペトロが拒否しようとしたのは、あまりに恐れ多かったからだろう。