布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

「ハレルヤ」という言葉

2005-03-28 23:58:24 | 教会
「ハレルヤ」という言葉は、「アーメン」とともに、世界中どこへ行ってもそのまま使われる言葉なのだそうだ。日本へ行っても韓国へいっても、現地の言葉に翻訳されるのではなく、多少の発音やイントネーションの違いはあるもののヘブライ語のまま(アラム語ではない。)使われている。

そのハレルヤの意味だが、これは「神をほめたたえよ」とか「主をほめたたえよ」の意味であると説明される。語源として、「ハーレール」が「たたえよ」で、「ヤ」が「神、主」であるという説明だ。
父なる神に対してはもちろんのこと、キリスト教ではイエス・キリストは神であるとしているので、キリストに対してもハレルヤというし、聖霊に対してもハレルヤと言う。

がしかし、ハレルヤの「ヤ」は、父なる神の名ヤハウェ(あるいはヤーウェ)の短縮形だ。いわゆる聖四文字(テトラグラマトン:英字アルファベットのYHWHに相当)の正確な読み方は完全には解明されていないが、先頭が「ヤ」であるらしいことは、聖書の人名からも分かる。たとえば預言者エリヤは「エル(神)」+「YHWH」で、「ヤハウェこそ神」という意味の名前だ。

何が言いたいかというと、ハレルヤは「神をほめたたえよ」ではなく「ヤハウェをほめたたえよ」という意味だということだ。「神をほめたたえよ」なら「ハレルエル」になってしまうだろう(ヘブライ語の単語として正しいかはわからないが)

三位一体というのは「唯一である神は同時に、ヤハウェとキリストと聖霊である」ということだ。
「キリストが神である」とは、「キリストは、ヤハウェがエルであるのとまったく同じ意味でキリストもエルである」という意味だろう。
「キリストが主である」とは、「ヤハウェがアドナイ(ヘブライ語で「主」)であるのとまったく同じ意味で、キリストもキュリオス(ギリシャ語で「主」)だ」という意味だろう。
ヤハウェとキリストと聖霊は混同されるものではなく、それぞれが独立した人格(ペルソナ)を持ちながら、しかし唯一の神であるというのが、聖書から導かれる三位一体であるはずだ。

とすれば、主キリストや聖霊を賛美するつもりで「ハレルヤ(ヤハウェをほめたたえよ)」というのはどう考えてもおかしいんじゃないだろうか。

これはキリスト教が、ヤハウェという神名を隠してしまったことからくる誤りだろうと思う。

ユダヤ教では、主の名を「みだりに」口にしてはならないという戒律を厳守し、聖書にYHWHと書いてあるところを読む際には「アドナイ(主)」と読んだという。
「それは極端であって、十戒が禁じたのはあくまでも『みだりに口にすること』だけだ」と、十戒の講解のたびに聞かされはしないだろうか。しかし現在の邦訳聖書は、底本に聖四文字が書かれているところを「主」としている。みずからが「極端だ」とするユダヤ教と同じことをしているのだ。

口語訳以降の邦訳聖書が、文語訳で「エホバ」と「表記」していた聖四文字を「主」と「翻訳」してしまっていることに、坂井は常々不満があった。
主の祈りでも「天にまします我らの父よ、御名があがめられますように」と祈りながら、しかしその御名を口にしないのだ。それであがめていることになるのだろうかと。

現代の邦訳聖書が読者から「父」の「御名」をとりあげていることは、たとえばルツ記2:4を見ればわかる。まず文語訳でみてみよう。

時にボアズ、ベテレヘムより来たり、その刈者等(かるものども=農夫)に言ふ。「ねがはくは、エホバ、汝等とともに在せ(いませ)」と。
彼等すなはち答へて「ねがはくは、エホバ、汝を祝み給へ(めぐみたまえ)」という。
(句読点、カギかっこ、改行を補った)

これが新共同訳では次のようになっている。

ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。

エホバは誤読であるとされているが、少なくともここで農場主と農夫が普通に神名を口にして挨拶している。祝福を祈る際に神名を口にすることは、絶対に「みだりに」ではないだろう。


キリストによって贖われた者は、地上での父親を呼ぶように、天の父を呼んでいいはずだ。
キリストなどはヤハウェを「アバ」と呼んでいる。「アバ」は父親の愛称であって日本語なら「おとうちゃん」などにあたるという説明を受けるが、これは成人男性が父親を呼ぶときに使うという話しもあり、であれば日本語なら「親父」あたりに相当するだろう(オヤジではない)。
キリストはヤハウェを「親父」と呼んだのだが、キリストによって贖われた者もヤハウェを「親父」と呼んでいいのではないか。それほどの近しさが、贖われた者とヤハウェのあいだには許されているのではないか。

にもかかわらず、「名」で呼ぶことをタブー視し、「主」という称号、あるいは「神」という役職名で呼ばせる(読ませる)というのはどういうことだろうか。

「ヤハウェ」という名を取り上げ「主」「神」と呼ばせているから、ハレルヤも「神/主をたたえよ」になる。で、キリストも神であり主なのだからということで、キリストを賛美するときにもハレルヤと言う。
どう考えてもおかしい。

ヨハネ福音書15章

2005-03-28 21:05:57 | 聖書
渋谷バプテスト教会の国際朝祷会に初参加。
たまたまホームページを見つけて、月曜朝7:30-9:00にやっているというので、6:00前の電車に間に合うように早起きして家を出た。(いつもより1時間はやいのに朝食と弁当を作ってくれた嫁さんに感謝)
中野教会でも水曜朝に祈祷会をやっているのだけど、6:30からなので始発に乗っても間に合わない。

着いてみると、聖書箇所はヨハネ15章の前半、キリストがぶどうの木であって私たちは枝であり、キリストにつながっていれば豊かに実を結ぶというところ。今朝の解き明かしは画家のE兄で、美術史も交えながらの興味深い話しだった(昔は天を目指すモチーフが一般的だったのが、近代では神を無視する構図がほとんどなのだとか)

それにしても、「キリストにつながっていれば」とわかっていて、なぜ逆のことをしてしまうのか。
キリストにつながっていたいとは思う。けれど「今だけ」「ちょっとだけ」という迷いが来る。

私の弱さ、愚かさを、主が覆ってくださるように。

長患いを癒されたあの女のように、イエスの衣の背にでもつながっていたい。
イエスの衣の裾の、房の糸の一本だけでも握りしめていたい。