布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

高松宮日記 第七巻

2005-12-02 23:53:32 | 読書
今年読んだ本。

高松宮宣仁親王 著
中央公論社
1997年7月25日 初版
ISBN 4-12-403397-4

昭和18年10月1日から19年12月31日までの御日記を収録。
全8巻の御日記もようやく7巻まできた。といっても電報の写しなど戦況記録の部分は斜め読みに飛ばしてきたけど。
その戦況記録を、宮は昭和19年6月24日でやめておられる。で、軍令部に在籍しておられたのが、昭和19年8月に横須賀砲術学校の教頭に転任しておられる。

今回とくに気を引いたのは、18年12月20日の記述。
「タラワ、マキン、アパママ」の守備隊、設営隊の死守、討死の発表あり。「玉砕」と云う語、無暗に書きたて、二十一日朝の新聞は柴崎司令官の記事で一杯なり。「玉砕」はもう沢山。そうした重圧をやいのやいのと云われることは国民の緊張した感情にも早や耐えられぬと云う程度と推察せらる。山崎部隊長の「アッツ」の玉砕に対抗して海軍のを書くと云う報道部の気持ちは余りに軽薄なり。[中略]国民は素り今「玉砕」を否定はしない、併し何んとかならぬかと云うことは常に考える。[中略]次には撤退作戦成功を喜び聞く気持ちになるであろう。そのようになるべく宣伝をすることは下手の下なるものである。子供に「タラワ」玉砕の話をしたら「もう沢山」と云って聞くのをいやがるとのこと、之は全く「死を厭う」のではなく、張り切った小さな気持ちに苦しい重荷となるのであろう。やがて銃後の大人にも重荷となる。それをこれでもかこれでもか、重荷を圧へつける様な宣伝は全くこまったものなり。[以上、旧カナを現代表記に改めている]

いったい、「玉砕」を「美談」にしたのは誰なのだろう。軍部か、マスコミか、教師か。もともとは東條の戦陣訓だろうが。宮のこの日記も、玉砕の報道に対する疑問ではあるが、玉砕そのものへの疑問にまではなっていない。

昭和19年3月16日。
陸軍参本[参謀本部]次長に昨日面会して、一、ウラニューム原子核分裂エネルギー発生利用[原爆開発のことか]、ニ、Z電波発生及利用[強力電磁波により航空機を落とす兵器]、三、潜水艦探知機(100号)[ソナーか?100号というのは不詳]研究促進の組織を提案せる旨話あり(海軍でやってるのがまどろこしくて駄目と云うことなりき)。

3月10日には、富嶽(米本土爆撃のための超遠距離大型爆撃機のことも出てくる。圧倒的物量に加え、レーダー測的により遠距離や夜戦でも米軍が圧倒的優位になる会戦が続いていることから、新兵器開発が急務になっていたことがうかがえるが、終戦までの歴史をすでに知っている読者からすれば、この時期になってこんなことでは勝ち目はなかったのだと。

戦況の不利ということでは、19年10月7日の(横須賀砲術学校での?)合同葬儀の記述に「英霊の名を読み上げるのを止めて「〃〃〃〃外[ほか]」と云ってしまう。」とある。戦死者が多すぎて、英霊、つまり靖国にまつられる神の名を省略するほどになっていたようだ。

個人的な趣味から目に付いたのは、19年10月8日に寝台列車を使われた際の記述。
何故か嫌いな金ピカ「スイロネフ」がついていた。

「スイロネフ」は軍用暗号ではなく、現代でもわかる人にはわかる。重量が40トンクラスの大型の、一等二等の寝台車で、車掌室が附属している、手動ブレーキつきの車両だ。


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