白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

「白洲正子文学逍遙記ー十一面観音巡礼」編ー再開11

2016-01-15 | 日本の伝統芸術

 

白洲正子文学逍遥記

 

十一面観音巡礼」編 

再開-010 

 

 

 

 

熊野詣 

003

 

 

 

 

 

 

いよいよ旅も押し迫ってきた。七里ガ浜の突端辺りまで来ると、いよいよ熊野川である。

「十一面観音巡礼」の文章に出て来る、神社仏閣の名称が固まって出てくる。

惜しむらくは筆者はこのあたりまで行ったことがない。地図では可なり見ていたはずではあるが・・

 

 

 

ご存知の通り平坦な地域ではない。山また山のなかなかの難所でもある。平地の様にすぐ移動できるような地域ではない。「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」といっても。徒歩で移動するとなると大変である。山道はハイキング気分ではとても難しい。「玉置神社」と簡単に言っても大変な山奥である。現代は車が有るから左程ではないであろうが、往時は大変な事であったであろう。 

更に神社と仏閣が入交り、それぞれに歴史的な由来があるのであるから、頭の中に簡単に入るものでもない。筆者も著者の文章をそのまま鵜呑みにするしかないのである。読者もそのような訳で著者の文章を、読んで頂きたい。 

 

 

 

 

 

 

渡海上人死出の旅 

 

 

 

補陀落山寺

 

 

熊野の海に 入水して、往生を遂げるという補陀落渡海の信仰は補陀落山寺で始まった。

 補陀落浄土とはご存知の通り、中国では現在の浙江省にある舟山群島を補陀落(普陀山)として遠隔地にまで観音信仰が有名である。(梵語)の「ポタラカ」、「ポータラカ」(Potalaka)の音訳である。余りにも有名な「日光」は補陀落~二荒(ふたら)~(にこう)~日光となったとされている。熊野灘、足摺岬から小船に乗って、修行者が補陀落を目指したのである。

 

 

若い修行者が補陀落往生を願って修行をし、時至って船に乗り込み、四方を板で覆い、海岸から沖に向かって漕ぎ出したのである。死出の旅であるから外へも出ず、そのまま海中に歿する訳である。ある面では惨い話である。その後は渡海上人と命名され、里人の信仰の対象になるわけである。

中には沖で板囲いを蹴破って、外に飛び出し逃げる行者も居たようである。余りといえば余りのことであり、現代人にはとても真似のできる代物ではない。

即身仏

 

 岐阜県の山中や東北地方でも、地中に穴を掘ってそのまま歿していく、「入定」という全く同じような行法も存在する。死後は掘り出されミイラとして手厚く祀られるということになる。現代では殆どあり得ない行法でもあったが、結構な数が国内には存在するはずである。現在日本には16体の即身仏が存在する。筆者も岐阜県の横蔵寺で、即身仏を観る機会が有ったが遠慮した経験がある。3度ほど横蔵寺にはお邪魔をしたが、とうとう即身仏は拝見しなかった。

補陀落山寺は当初西国三十三カ所の第1番であったが、その後青岸渡寺に変わったのであったとされているが、事情は探したが分からない。

即身仏

  即身仏は即身成仏から来た用語である。仏教には密教と顕教がある。密教は基本的に即仏になる修行形態をとる。浄土教などの他宗とは修行方法が基本的に違う。渡海浄土や地中に入定する作法は、この即身成仏に該当する。なまじの覚悟では出来るものではない。密教は仏教だけでなくキリスト教のカソリックにも存在するようである。 

 下世話な言葉で「成仏」という言葉が簡単に使われている。チャンバラ映画やドラマでよく使われる<成仏>という用語。成仏とは佛(如来)になることである。人間が死んだら佛になる確率は通常ゼロに等しい。葬式をして僧侶から読経をしてもらっても、それは単なる通過儀礼である。この辺が全く誤解されているのが現実である。比叡山のかの有名な「先日回峰行」も、死を懸けての命がけの荒行である。途中で断念したら懐の短刀で自害する規則になっている。
観音様は菩薩である。如来にになる前の修行の段階である。それからすれば、生臭の人間が死んでもただそれだけのこと。ただ、1億人に一人位はそうで無い方も居られるであろうが・・・死人を大切に敬うことは大事なことであるが、佛になる事と通常は全く関係のない話である。それを勘違いしてはならないのである。
 
 
 
  
 

 青岸渡寺

 

  

 

青岸渡寺は西国三十三カ所の第一番の札所である。新しい「西国三十三霊場納経帖」に、第一番に墨黒々と書いて頂く。新しい気持ちが込み上げて来る。筆者の自宅にも納経帖が数冊ある。

ひも解いていると思い出が込み上げて来て懐かしいものである。

 

 

 

 中世から近世にかけて、隣接する熊野那智大社と共に神仏習合の地であり、如意輪堂と称されたその堂舎は、那智執行社家や那智一山の造営・修造を担う本願などの拠点であったとされている。神仏習合が廃された際、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興された。本尊は如意輪観音である。

 

 

 

 青岸渡寺は明治の廃仏毀釈までは観音堂と呼ばれ、那智神社に属していた。神仏混交の形は全国にたくさんある形態であった。筆者が大津に居住していた時も、近所の古い歴史のある神社にも、宮寺が存在し不動明王が祀られていた。

 

御本尊・如意輪観音

 

 

 

 

 

 ご本尊が如意輪観音という寺は余り多くないかもしれないと思ったら、意外と多く6ヶ寺もあった。岡寺、石山寺、三井寺、六角堂、圓教寺で全て有名なお寺が並んでいる(しかし御本尊は千手観音が一番多い)。他には藤井寺の如意輪観音や千本釈迦堂の如意輪観音は余りにも有名である。京都や大阪の方はいつも拝観が出来るので幸いである。

筆者も千本釈迦堂には何回か参拝した。藤井寺は行くには行ったが、タイミングが悪く残念ながら参拝出来なかった。中宮寺の如意輪観音は余りにも有名である。五月の梅雨の紫陽花の綺麗な頃観音堂を訪れると、外国人の若い娘が観音の前で座り込んで、見とれていた記憶を鮮明に覚えている。如意輪観音は名作が確かに多い仏像でもある。

 

十一面千手千眼観音菩薩

      

 

 

 

那智の滝

 

 

 那智の滝は説明も不要なほど有名な滝である。滝そのものがご神体である。山がご神体である奈良県の「三輪山」と同じだ。山を神格化する文化は世界共通の精神文化であると思うが、日本のそれは起源はインドネシアのジャワにあるのではないかと思う。同じような形態が非常に多い。

滝行、入水などは、山岳信仰の純粋密教以前の雑(ぞう)密教が、行者によって遥か古代から執り行われて来たようである。日本文化の深淵は中国・朝鮮などや南方からの伝来など、かなり複雑な文化の伝来によって醸成されて来た感がある。

 

 

 

 

 

 那智の滝の入水から渡海の世話をする「滝衆」の人々は深く結び付いて来たようである。補陀落渡海はこの滝が起源であろう。現在は表面的な行事になってきている。

* 現在では補陀落渡海の行動は、刑法の規定で自殺幇助罪が適用されるのである。ある面ではこの惨い習わしが無くなって良かった面もある。

 

いよいよ、十一面観音巡礼も残りの「紀伊三井寺」となった。 

 次回は観音巡礼の思い出も含めて、「紀伊三井寺」x2 で最終回と致したい。

 

 

 

 お知らせ

 

ご好評を頂いた「十一面観音巡礼」は今月一杯で終わります。

来月からは「かくれ里」を読んでみたいと思っております。

 

 

 サワラちゃんの 加計呂麻島日記 

http://blog.goo.ne.jp/sawarachan/ 

 


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