越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

書評 上野清士『ラス・カサスへの道』

2008年08月10日 | 小説
先住民の「心」で、世界史を考える
上野清士『ラス・カサスへの道』(新泉社)

越川芳明

 歴史が、活字メディアを操る者たちによって記(しる)されるものだとすれば、そうした手段を持たない者には歴史は存在しない。だが、弱者のための歴史を書こうとする「良心」の人もいる。

 ラス・カサスとは、大航海時代のコロンブスと同時代の人であり、そんな反権力の人だった。カトリックの司祭として「新世界」に赴くが、「征服者」たちの残虐非道の行ないを目にして、それを国王やヴァチカンに訴え、先住民の「保護官」に任ぜられた。

 かれは教会の内部にとどまらず、第三世界の都市スラムの貧者と行動を共にする20世紀の「解放の神学」の神父たちの遠い祖先でもあったわけだが、晩年は執筆活動に専念し、インディアス(新大陸)の<発見>の歴史を書いた。

 著者はラス・カサスの残した布教の足跡を生地スペインからたどり、カリブ海のエスパーニャ島、キューバ島、中米地峡(パナマ、ニカラグア、エル・サルバドル、グアテマラ、メキシコ、ホンジュラス)、南米(ベネズエラ、ペルー)へと旅する。

 しかし、これはラス・カサスのテクストに導かれた、ただの歴史探訪の書でもないし、ラス・カサスを聖人扱いする伝記でもない。著者の関心は、現代の被征服者の生き方にある。各章には、これらの国々の政治問題や民族・宗教問題へのスパイスのきいた論評が差しはさまれている。

 とりわけ、後半のグアテマラの章では、カトリック教会とラス・カサスの限界についてきびしい批判をする。メキシコをはじめ中米に十四年暮らし、思考をめぐらしてきた著者の行き着いた地点は、キチェ族をはじめとするグアテマラの先住民やインディオの視点であり「心」だった。

 著者は、グアテマラの各地にあるカトリックの教会で「濃密な異教的気配」を感じ取り、そこにカトリック教会がそっくりそのまま移植されたわけではないことを理解する。

 先住民はこの五百年間に、「『平和的布教』で生じた隙間をたくみに活かして、祖先の霊を彼らの宗教体系のなかで生きながらせた」と、著者はいう。

 本書は、欧米による支配の歴史のみならず、ペルーのフジモリ問題をはじめ、被征服者の視点から民族や宗教の対立をめぐる現代世界の矛盾を考える格好のテクストである。
(『時事通信』による配信原稿に、若干手を加えてあります)
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上野清士(うえの・きよし)1949年埼玉県生まれ。ジャーナリスト。著書に、『フリーダ・カーロ 歌い聴いた音楽』(新泉社、2007年)、『南のポリティカ 誇りと抵抗』(ラティーナ、2004年)など多数。


グアテマラの先住民のミスコン<ラビナ・アハウ>



「アルタ・ベラパス州の州都コバンで毎年七月下旬に行なわれるミス・インディへナ女王コンテスト「ラビナ・アハウ(王の娘)」に三年つづけて通った。このコンテストについて、リゴベルタ・メンチュウは本のなかで、「(民族)衣装を見てきれいだとは言うが、それはお金になるからで、中身の人間にはなんの値打ちもないのだ」・・・と批判していた」(上野清士、上掲書320頁より)


上野清士『ラス・カサスへの道』の関連サイト
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/123e9d2b82c72f1eeeec5539aa116ed7

http://www.amazon.co.jp/ラス・カサスへの道


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