越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

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映画評 テイラー・シェリダン監督『ウインド・リバー』

2018年10月20日 | 映画

アメリカ辺境の「正義」とは?
テイラー・シェリダン監督『ウインド・リバー』
越川芳明

 凍てつく夜中に、動物の悲鳴のような風音が鳴り響く。吹雪が止んで、静寂な夜空に白い満月浮かぶ。ワイオミング州の「インディアン保留地」ウィンド・リバー。

 アメリカ西部にあるワイオミング州は、ロッキー山脈と大平原からなり、南にはコロラドやユタ、北にはモンタナが控えている。この地域を一言で表現すれば、人間によって飼い慣らされない、産業文明と対極にある大自然だ。

 主人公コリー・ランバートは、野生生物局で働く白人の狩猟家。保留地で牧畜業を営む先住民に依頼され、羊や馬など牧畜を襲う野生動物の駆逐を仕事とする。雪が深く積もった山岳地帯雪でもスノーモービルを駆って、猟銃を携えてピューマやオオカミなどを追う。この地域の気候や動物の生態に通じていて、その退治に執念を燃やすコリーにとって、大西部の自然は征服すべきものとして存在していると言える。

 それは熊や猪など、狩猟の対象を山の神と考える日本の「またぎ」とは、根本的に違う発想であり、十九世紀の開拓者時代と変わらないように感じられる。

 冒頭に象徴的なシーンが出てくる。先住民が放牧している羊の群れが、オオカミたちに取りかこまれる。どこからともなく銃声が聞こえ、一発でオオカミが仕留められる。

 シェリダン監督は、この作品を現代アメリカのフロンティアを描く三部作の最終編に位置づけているという。前二作は脚本家として参加しているが、今回は脚本家と監督の二役をこなす。第一作目『ボーダーライン(Sicario)』(2015)は、米墨国境地帯を舞台にして、ドラッグトラフィキングをテーマに扱い、第二作目『最後の追跡(Hell or High Water)』(2016)は、テキサス州西部の潰れかけた牧場を舞台にして、アメリカの貧富の差が生み出す暴力と犯罪を描いた。

 本作『ウィンド・リバー(Wind River)』(2017)で語られるのは、アメリカ社会における「他者」への暴力、とりわけマイノリティの女性への暴力である。映画の最後に次のようなテロップが流れる。「数ある失踪者の統計にネイティブアメリカンの女性のデータは存在しない。実際の失踪者の人数は不明である」と。

 実は、主人公の狩猟家コリーも先住民の妻(今は離婚しているようだ)との間にもうけた娘がいたが、謎の犯罪に巻き込まれ亡くなっている。先住民に属する友人の娘も先頃、これまた謎の犯罪の犠牲になり亡くなっている。

 この殺人事件の捜査のために、はるばるネバダ州のラスベガスから、ジェーン・バナーという名のFBIの女性捜査官が派遣されてくる。都会の捜査官と辺境のハンター、この二人の関係性は、『ボーダーライン』に出てくるFBI女性捜査官のケイトと「暗殺者」のアレハンドロのそれと類似している。ジェーンはケイトと同様、法の番人としての誇りを持ち、彼女の中で、正義と悪は相容れないものだ。合法的な手続きで犯人を捕まえようとし、またFBIの応援隊を呼ぼうとするが、この辺境で法の矛盾に遭遇してしまう。

 一方、狩猟家コリーは女性捜査官による犯人探しに協力する。保留地には部族警察もいるが、彼らもまた法の縛られる立場にあるが、コリーは「暗殺者」アレハンドロと同様、目的の為には手段は選ばない。「法」によって犯人を罰することができないのならば、自分が「法」になり、犯人を罰するという、いわゆる「フロンティアの正義」(行為自体は合法的ではないが、無法地帯では許される「保安官」の正義)を体現している。この過酷な風土の中で、コリーが頼りにするのは人間社会のルールではなく、自身のサバイバル能力だ。その一つが動物の足跡を読む能力で、動物の足跡を分析して自分の行動を決める。事件の現場でも、人間の足跡を見ながら、犠牲者や犯人の行動を推測して、犯人を追いつめる。そういった意味で、この映画は現代風にアレンジされた西部劇だといえるかもしれない。

 さて、舞台となっているウィンド・リバー保留地であるが、八九〇三キロ平米の面積を持ち、日本でいうと、山梨県の二倍、鹿児島県とほぼ同じ広さを有する。この保留地には、かつては敵対していたという二部族が住んでいる。北部アラパホ族と東部ショショーン族だ。本作に出てくるのは、前者である。この広大な領地に一万ぐらいいたようだが、いま住んでいるのは約三千人だという。牧場経営とカジノ経営などが主な収集源だが、他の部族と同じような問題を抱えている。保留地の外では人種差別に遭遇し、保留地の中では生きる目的を失った若者のドラッグ中毒に陥るという問題だ。

 『ボーダーライン』で、国境線であるリオグランデ川を挟むチワワ砂漠地帯砂漠が俯瞰的に上空から撮られたように、本作でも雪に覆われた山岳地帯を主人公たちが追跡する際に上空から撮られている。砂漠であろうと山岳地帯であろうと、そこに生息する動物たちにとって、人間の作り出す境界線は意味がない。そこは人間の秩序やルールが適用できないボーダーレスな世界である。

 逆に言えば、そうした辺境でこそ、現代アメリカの社会問題や犯罪が先鋭的かつ露骨な形であらわれる。それがこの監督/脚本家のメッセージなのだ。
(『すばる』2018年7月号)
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映画評 サミュエル・マオズ監督『運命は踊る』

2018年10月20日 | 映画
検問所を通り抜けるラクダ  
サミュエル・マオズ監督『運命は踊る』
越川芳明 
 
 草一本生えていない広大な荒地に、真っ直ぐに一本の舗装道路が走っている。舗装道路とはいえ、やっつけでアスファストを流し込んだような気配で、いたるところにヒビが入り、補修なども一切していないようだ。その粗悪な道路を、カメラはまっすぐ突き進む。トラックか列車かの屋根の上にカメラが据えられているらしい。

もちろん、この一本道にはどちらにも終点があるはずで、そのうちの一つは首都テルアビブに通じる高速道路だ。そちらは山道を切り開いているので、真っ直ぐではなくカーブもある。一本道が戦闘地域に直結する道路として、「戦争」や「紛争」を表すのに対して、真っ直ぐではない高速道路は生活道路として、「非戦闘」や「戦争のない日常」を象徴している。

 この映画の物語構造は「円環」である。ちなみに、邦題は「運命は踊る」だが、原題は「FOXTROT」と言い、ダンスのステップのことだ。このステップも、踊り手が最初の位置に戻ってくるという意味で、円環構造を中に宿している。

 文学の世界では、円環構造を持つ語りを「ウロボロス」に譬えて論じられることがある。ウロボロスとは、神話的な動物で、おのれの尻尾を口にくわえる蛇(あるいは竜)で、そのイメージから、循環性や、終わりなき永遠性、死と再生、破壊と創造などを象徴するという。かつて英文学者の高橋康也は、シェークスピアをはじめとする近代文学にそうしたウロボロスの構造があることを突き止めた。

 この世界は「意味づけしがたい無秩序な混沌」であり、物語が終わっても「無秩序な混沌」は終わらないということを、円環構造が示唆するのだ、と論じた。二十世紀文学の傑作であるジョイスやカフカにもその説を応用し、例えばカフカの作品にとって、「時間は・・・(中略)ひたすら不安で苛立たしい、しかも不条理で無意味な瞬間の連続となり、作品は解決を欠いた推理小説といった迷宮的構造を露呈する」(『ウロボロス』)と述べた。
 
 さて、イスラエルを舞台にした本作でも、テーマとなるのはこの世の不条理であり、映画が終わっても、若者兵士のヨナタンに啓示(ルビ:エピファニー)は訪れないし、観客にカタルシスがもたらされることもない。

 ヨナタンは、イラストが得意で、作中に彼の描いた物語が挿入されている。ホロコーストを生き延びた父ミハエルの母(ヨナタンの祖母)は、苛烈な経験の証しであり記憶として、聖書を大事に保管していた。だが、二十代のミハエルは古本屋で見かけた男性誌のピンナップに魅せられ、その聖書を男性誌と交換してしまう。ホロコーストの重みと女性のヌード写真が天秤にかけられるという話だ。ここに流れる皮肉なユーモアは、この映画の底流にもなっている。息子の訃報を間違ってもってくる軍の関係者や、葬儀をてきぱきと円滑に進めようとするユダヤ教のラビの手配のよさにも。

 検問所についても一言触れておきたい。戦地の検問所には、通行車両を停める遮断機が設置されている。そこでは、検問する側と検問される側、敵と味方、市民と兵隊(テロリストも含む)などが、厳格に二分される。遮断機はそうした厳格な分割をおこなう装置なのだ。しかし、それを操作するのは人間である。しかも、二十歳前後の若者たちだ。イスラエルは徴兵制を敷いていて、十八歳以上の男女には兵役の義務が課されている。経験不足から人為的なミスも生じやすい。味方の兵士や市民を間違って攻撃してしまうこともありうる。そんな遮断機をやすやすとくぐりぬけていくものがいる。砂漠のラクダだ。ラクダは、遮断機によって象徴される分割があくまで人為的で無意味な虚構であることを示すかのごとく、ゆっくりと通りぬけていく。戦場におけるそうした滑稽なシーンによって、戦争の不条理も際立つ。また、湿地帯で徐々に沈下していくコンテナ兵舎の描写にも、泥沼化する戦争への批判が読み取れる。

確かに映画の終盤、戦争後遺症を患う父ミハエルと妻は、夫婦の危機を脱するように見えるが、夫婦関係が永続する保証は何もないのである。彼らにとって、夫婦の危機こそが常態だから。ミハエルは建築家として社会的には成功者であり、一家の長として頼れる存在ではあるが、それは見せかけであり、精神不安定に悩む。その原因といえるのは、かつて徴兵制によって戦争に駆りだされたときの記憶である。自分の判断で先頭を譲った車が地雷を踏んでしまったのだという。たとえその事故が戦争のもたらす不可抗力だとしても、彼には罪意識が残る。「なぜ自分の代わりに先に行かせてしまったのか?」と。

 今年の五月、トランプ大統領はテルアビブからエルサレムに米大使館を移した。パレスティナ人やイスラム教徒は当然、それに反対した。エルサレムはユダヤ教のみならず、イスラム教やキリスト教の聖地でもあり、一九四七年に国連によって国際管理下に置くという決議がなされている。にもかかわらず、イスラエルは、実力行使(第一次、および第三次中東戦争)で、六七年にエルサレムを自国の首都と一方的に宣言した。そんなわけだから周囲のイスラム陣営と紛争が絶えない。ここは世界でも類を見ない紛争地域である。この映画は、そうしたイスラエルの抱えこんでいる戦争の不条理を市民の視線で語った傑作である。(『すばる』2018年10月号)
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